第5話 懐かしい思い出


 陽が沈み、辺り一面が夕闇に包まれてから、どのくらいの刻が経っただろうか。洞窟の奥で横たわる狼の様子も、荒く、浅かった呼吸も元に戻り、落ち着いて来た。錯乱して、洞窟に突進した時は、正直自分も巻き込まれて死ぬかと思ったが、どうにか今も生きている。


 やれる事はやった。あとは、緋色の狼の生命力の強さに賭けるしかないだろう。


「そろそろ、布を替えたほうがいいな」


 横たわる狼へと近づき、包帯代わりの布を取りかえる。それにしても、赤毛の狼など珍しい。私の知る狼は、青銀の毛を持っているのが一般的だ。アルスター王国の王然り、王太子を始めとする王族然りだ。ただ、この緋色の狼も、狼であることに変わりはない。


 異種交配の副産物か? ただ、今の王の妃は、全て同族の狼だったはずだ。


 では、この緋色の狼の存在は何だ? この国では、狼人はもれなく王族と決まっている。


 まぁ、緋色の狼の存在など、最下層の草食獣人には関係のない事だ。


 この狼との縁も、あと数時間で終わる。命の危機が去れば、完全に回復する前に、逃げ出そうと決めていた。ただ、何も告げずに逃げることに、心がザワついて仕方ない。


 なぜこんなに、緋色の狼の事が気になるのだろうか? 


 その答えがわからなくて落ち着かない。


 艶やかな赤毛をゆっくりと撫でる。ゆっくりと、ゆっくりと……


「あぁぁ、そうか……」


 懐かしい思い出が脳裏を過ぎり、胸が締め付けられる。


――似ているのだ。


 こうして何度も背を撫でた。穏やかな風が流れ、暖かな陽が差し込む縁側で過ごす時間が何よりも好きだった。緑茶片手に、隣に寝そべる子犬と、よくおしゃべりをしたな。もちろん獣人とは違い、子犬が話すことはないが、なぜかこちらの言葉がわかっているのではないかと思わせる何かが、あの子犬にはあった。


 『ポチ……』


 赤毛が混じる珍しい毛色をしていた子犬。そう言えば、ポチとの出会いも今の状況と似ている。


 散歩中、立ち寄った公園のベンチの影に身を潜めるようにうずくまっていたポチ。近づいても、動かない子犬の様子に違和感を感じ、そっと抱き上げた時の感触は今でも忘れられない。血溜まりが出来た地面を認め、血濡れの手を見て、慌てて帰ったことを覚えている。あの時も、出来うる限り手を尽くしたが、助かる見込みは限りなくゼロに近かった。しかし、そんな状況からポチは見事に息を吹き返したのだ。


 きっと、緋色の狼も大丈夫だ。ポチと同じように助かる。そんな願いを込めて、艶やかな赤毛をもう一度撫でる。


 ポチは今も元気だろうか? 


 数年を一緒に過ごしたポチが、突然いなくなった日の事を思い出し、胸が苦しくなる。


 心の友を失ったような喪失感に、探し続けても何の手がかりも得られない焦燥感。もうあんな思いはしたくない。


 緋色の狼に関わらなければ、ポチの事も思い出さずに済んだのだろうか?


 ポチと同じ赤毛を持つ狼を見下ろし、深いため息をこぼす。


 重症を負った狼を置き去りに逃げ出す事も出来た。ただ、それをしなかったのは、ポチの存在が今も心のどこかに引っ掛かっていたからだろう。


 今はいないポチが導いた縁も、あと数時間で切れる。その事が無性に寂しい。


 まぁ、考えても仕方がないことだ。


 規則正しい呼吸を繰り返す緋色の狼を見下ろし、赤毛をゆっくりと撫でる。


 ゆっくりと……ゆっくりと……





「――どうした、ユリアス?」


「殿下、目を覚ましていたのですね」


「あぁ。お前にしては珍しいなと思ってな。心ここに在らずだったろう?」


 てっきり寝入っていると思っていたアルフレッド殿下が起きていた事実に、内心焦る。昔飼っていた犬のポチと、アルスター王国の頂点、狼人のアルフレッド様が似ていて、感傷に浸っていましたなど口が裂けても言えない。


「ちょっと昔を思い出しまして。殿下との出会いも特殊だったなぁって」


「特殊とは何だ! 特殊とは!」


「十分特殊ではないですか。あんな得体の知れない森に、王族がいるなど普通思いませんよ。しかも深傷を負って、瀕死だなんて、なんの冗談ですか」


「まぁ、ユリアスに出会っていなければ、今俺はここにいないな。それだけは言える。あれは運命だったとしか言いようがない」


「運命だなんて、大袈裟な。どうせ、軍の訓練に参加していて、ヘマをして深傷を負っただけでしょうが」


 冗談めかして言ったが、あの事件がただのヘマだとは思っていない。殿下の軍での実力を知った今では、狼の急所である腹に傷を負うなどと言うヘマ、冒すような方ではない事は明白だった。味方に裏切られたか、殿下よりも手練れの刺客に襲われたか、どちらにしろ、アルフレッド殿下を亡き者にしようと考えている輩はいる。それが、身内だった場合、とても厄介なことになる。だからこそ、彼は王族でありながら軍所属という、特殊な立ち位置にいる。


 国の防衛を担う軍は、有事の際、真っ先に前線へと送られる。つまり、死に直結する部隊なのだ。だからこそ、実力主義だし、肉食獣人の中でも荒くれ者どもが多く集まっている。そんなところに、王位継承権を持つ第三王子であるアルフレッド殿下が所属するなど本来であれば有り得ない話なのだ。しかも、荒くれ者どもが数百人も所属する中隊の部隊長をしている。お飾りの部隊長では到底従わせる事が出来ない者共が集まる特殊な部隊だ。それをまとめ上げる手腕は、見事としか言いようがない。それだけの実力と存在感を持ちながら、未だに中尉の地位に甘んじているのは、やはり自分の出自を気にしてのことなのだろう。


 殿下も実力主義の世界に身を置いていたほうが楽なのだろうな。


「この俺がヘマなどする訳ないだろうが。ただ、あの時はお前がいなかったら死んでいただろうし、感謝はしている。しかも、ユリアスが軍医になってからは、後方支援もバッチリだ。優秀な軍医がいると思えば、多少の無理もできる」


「馬鹿言わないでくださいよ。私は、草食獣人の医者です。肉食獣人の巣窟と化した軍の医者など荷が重い。まぁ、危険極まりない森へ行かなくても済むようになったのは、役得ですがね」


 私が軍医になってから組み込まれた森への遠征は、軍の訓練の中でも群を抜いて嫌がられている。何しろ、あの臭いドクダミを始め、匂いがきつく獣人が見向きもしない奇怪な植物を採取するミッションが組み込まれているからだ。まぁ、私にとっては馴染みの深い植物だらけなのだが。


「あぁ、あれか。根をあげる奴らも多い軍一過酷な訓練か。毎回同行している俺でさえ嫌になる」


 鼻をつまみ嫌そうに顔を顰める殿下を見て、クスクスと笑う。


「何を言いますか! 慣れれば、いい香りに感じるようになりますよ」


「あの香りを良いなどと言える酔狂な奴は、お前くらいだ」


 そんなたわいもない掛け合いが、心地よく感じるようになってきた頃、その優しい時間を破るように、医務室の扉が開かれた。


「アルフレッド殿下、こちらでしたか」


 扉を開け、入ってきた人物を認め、心がざわつき始めた。

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