建前の向こう側

榾火

建前の向こう側(前編)

 あんなカフェをオフィス代わりにするのは馬鹿だけさ────と友人マーク・ノーマンはかつてカフェ好きだった僕に向かってそう言った。一杯十ドル前後のドリンクを片手に、ただエリートのコスプレをしたい奴ばかりが来る場所なのさ、とも。

 そんな下らないことをするのなら、学生の頃のようにピザでも頼んでソファを汚しながらデバイスと向き合う方が、今の大人な彼にとっては精神衛生上最も都合が良いのだそうだ。見栄やらプライドやらを鎧にした半端な連中と肩を並べたくはない、ということらしいが、僕には友人のそのこだわりがつい先日までいまいちよくわからなかった。いつぞやにマークとカフェの話になった時、僕は彼の話をただただ懐疑的な思いで聞いていたような気がする。

 だが、今では僕もカフェなんて場所は近付くどころか見たくもない。

 僕はデバイスから必要なメールを上司へと送信し、空になったマグカップを狭いシンクに置いてから家を出る。目的である最寄りの駅に到着するのを見計らい、端末を指紋認証で解除してから、「そろそろ着く」という、ごく短いテキストを友人の端末へとタップした。


「やあマーク」

「よおウィル。来たか、入れよ。会うのは俺の結婚式以来だから五年……いや六年ぶりくらいか」

「ああ。久しぶりだな」

 ラフな白いTシャツにスウェット姿で登場したガタイの良い溌剌とした男、マーク・ノーマンの姿を玄関先に認めると、僕は妙に安心した心持ちになって笑顔のまま扉を潜った。示し合わせたわけでもないのに、僕らは昔のように手を打ち合って親しげな挨拶を交わし合う。

「相変わらず立派な家だな。これで奥さんも娘さんもいるんだから羨ましい限りだよ」

「はは、そりゃどうも。ということは、お前は相変わらず引っ越してないみたいだな」

「ああ。ご存知の通り僕は寂しい独り身なんでね。広い家は必要ないし、立地的にも交通の便だけは良い場所だから」

「そうかよ」

 でも一軒家はいいぜ、とマークが言う。

 確かに閑静な住宅街に建てられた、庭とプール付きの豪華な家は目を見張るほど素晴らしい。玄関先までの青々とした芝に大容量の贅沢な車庫。なだらかな三角形の大屋根は、まるで空を覆う傘の如きシルエットをしていた。既にどこをとっても都心の手狭なアパートメントとは造りが違う。僕の家なら、壁に湖の油絵なぞは飾れない。家だけでなく家具もひとつひとつがずっしりとして立派だ。廊下を進む。すると片側の壁には飾り棚がいくつも設置されていて、そこには幸せでいっぱいの明るい家族写真がたくさん飾ってある────はずではなかったか。

「……」

 だが見ない内に、飾り棚はどれもが歯抜けになっていた。内残っていたのはたったの二枚。洒落た飾り棚に置かれていた写真立ての数は、この五年程の間にたったそれだけになっていた。

 二枚の内、一枚は家族全員で撮られたもので、マークが彼の美しい奥さんと幼い娘を腕に抱いて微笑んでいる写真。もう一枚は子供椅子に座って満面の笑みを浮かべている娘さん単体の可愛らしい写真だ。以前新築祝いに訪れた時にはそれこそ写真立てが林立しており、ちょっとした衝撃で落ちやしないかとヒヤヒヤさせられたものだが、今は寧ろ薄い埃のベールが板の上をコーティングしているという、何とも悲しげな光景が広がっているだけの棚へと様変わりしていた。

「ウィルソン、こっちだ」

「あ、ああ」

 名をはっきりと呼ばれ、僕は慌てて先導する彼に視線を戻す。リビングに到着すると、僕の中の疑念がいよいよ確かなものとして膨れ上がってきた。

 庭へと続く大きな掃き出し窓には、まだ昼間であるにも関わらずきちんとカーテンがされたままだった。そのために部屋は仄暗く、閉め切っているせいか、空気が籠もってじめじめとした感が否めない。

 そして何より、自慢していた最新モデルの巨大な液晶テレビがなくなっていた。

「な……」

 部屋の隅には使わなくなったのであろうベビーベットが寄せられており、ちらと見えた食器棚の中身は半分以上が空だった。変わらないのはずっしりとしたロータイプの黒いソファや、動かしにくい大きな家具の類であろうか。天井のアメリカンブラックウォールナットのシーリングファンは言うまでもなく残されているが、室内の空間はところどころが欠けてしまって、控えめに言っても不揃いな印象が拭えない。

 ラックやリビングテーブルの上に積み上げられた箱ティッシュ、雑に畳まれた衣服など、日用品が手元にまとめて置いてあるという、単身者特有の光景を見て思い当たる言葉はひとつしかなかった。間違いない。

 ────離婚だ。ということは今、この男は独り身か。そう少しでも考えてしまうと、思い出されるのは過去、僕がこの男に片思いをしていた学生時代の甘酸っぱい日々だった。

 僕は思わずリビングをぐるりと見渡してしまってから、ようやくハッとなって我に返ると男の方へと向き直る。今日、僕は何をしに友人宅へとやって来たのだったか。

「さ。ようこそ、パーティー会場へ」

「あ、ああ」

 彼は平然とした顔で両手を広げて僕を歓迎した。促されるままソファの左端に腰掛ける。

 不思議なものだ。マークに相談しようと思っていた恋人からの仕打ちのことなど、ここまでくるとその一切がどうでもよい過去の出来事として感じられるようになっていた。



「それにしても、お前から誘ってくるとは本当に珍しいよな。メッセージが届いた時にはガラにもなく飛び上がったぜ。……ちょっと待ってろ。今キッチンからビールを取ってくる」

「悪いな。何から何まで」

「いいんだよ」

 机上には以前の宣言通り宅配ピザの箱が積んである。あとは何本かのビールを両手に彼が台所から戻って来れば、いよいよ不定期開催のささやかな男子会の始まりだ。今日はワインの方が良かったか、との問に、僕は無言のままで首を振る。よく言うよ。ちなみにそんな洒落たもの、僕と彼との集まりで振る舞われたことは一度もない。

 彼がキッチンから缶を山ほど抱えて戻ってきた。

 唐突に下品な笑みを向けられる。薄ら笑いとでも言おうか。これでも彼とは学生時代からの無駄に長い付き合いなのだ。こんな時にこの男が一言目に何を言い出すのかは、僕にとってあまりにも想像に難くない。

「で、恋人との話だっけか。ヤったのなら感想を聞かせてくれよ。────どうだった。よかったか」

 案の定、彼はにやにやとふざけた笑みを浮かべながら切り出した。

「言うか馬鹿。それに“彼”とはその、まだ寝てないよ」

 と僕はすかさず反論する。声が尻すぼみになったのは仕方がない。艷やかな出来事とはここ数年まったく縁が無かったからだ。言いたくはないが、気持ちが高ぶった時は自分の手に頼る他なかった。彼はからかう素振りを隠そうともせず缶をテーブルに並べていった。

「なんだ、つまらねえな。若い男の具合がどんなモンか、さっそく聞かせてもらおうと思ってたのに」

 よっこいしょ、と彼は短い唸り声を上げながらソファの空いている右端を陣取り、倒れるように背もたれに寄りかかると天を仰いだ。


 僕が不快を装って顔をしかめると、マークは形式だけの胡散臭い謝罪を銀色の缶ビールとともに投げて寄越した。僕の彼への想いのように、見ればブランドのロゴは十数年前とほとんど変わっていないらしい。

「悪かったよ。そういや、電話でも今回のは一等本気だって言ってたか」

「他人事だな」

 そりゃあまあそうさ、と彼が言う。

「しかし他人事、ね。それを言うならお互い様だろ。気遣いであろうと何だろうと、お前だっておれの妻と娘の行方を未だ尋ねてきやしない。廊下とか家具とか……まさか家に入って何の変化も感じなかったわけじゃあないだろう」「それは。だが、でもそんなつもりじゃ」「────わかってる。お前のだんまりが優しさから来てるってことも、だからこそお前には非がないってことも全部な。ただ、理屈はお前と同じなんじゃないかと思っただけだ。謝るよ。俺だって嫌味を言いたかったわけじゃない。勢いでつい口が滑っちまっただけだ」

 マークは潔く頭を垂れる。よしてくれ、と間髪入れずに声を掛けておくことにした。

「僕の方こそ悪かった」

「いいや。それよりも今はお前の話だ。……まあその、なんだ。あまり楽しそうな顔には見えないな」

「そう、見えるか」

 確かにさっきお前の離婚を知るまでは打ちひしがれていたかもな、と胸中で呟く。

「まあな。付き合いばかりは長いんだ。俺にだってそれくらいの変化はわかる」

 マークが苦い顔でぼそりと言った。彼は長いこと僕が“ストレート”だと勘違いしていた時期があったのだ。もしかしたら、彼は今それを思い出しているのかもしれない。

「そういや、女性に飽きて男に走ったのかと思ったと、昔僕にそう言ったやつが友達のなかにいたっけな」

「おいおい。そいつはひどい野郎もいたもんだな」

 ああ、とついいつものように首肯しようとして、やめる。

「いや、今思えば無理もなかったと思う」

「……」

「男は女に惚れるのが“普通”だと、あの頃は皆がもれなくそう考える時期だった。その友達だって、なにも悪気があって言ったわけじゃないのかもしれない」

「どうだかな」

 実際にそういう奴は五万といるらしいじゃないか、とマークは肩を竦めてみせた。僕の珍しい変わり身に、多少は驚いたようだった。

 たしかに彼の言うことには一理ある。女性とは散々遊んだからと、お試し感覚で今度は男に手を出そうと企む男は現に存在しているものだ。そんな時、お相手は出会系アプリを使って釣り上げるのが大体の相場で、当然そこには愛なんて甘ったるい概念は基本存在していない。そのためか実際にはトラブルも多く、僕も電子版のニュースサイトで『出会いのきっかけはマッチングアプリ──口論から殺人事件に発展か』という物騒な記事を見たことがある。インターネット技術や用法の発展により、今や見知らぬ人と気軽に繋がることのできる便利な時代になった反面、出会いの場であっても危険がより身近になったということだろう。「ちなみに僕は使ってないからな」と彼に返した。

「だろうな。今どきはプロフィール写真ですらプロに撮ってもらう時代になってるからな。そういうサービスを利用するにしても、お前はどうせスマホのインカメで適当に自撮りして済ませようとするタイプだろ。そんで自己紹介の項目には“よろしくお願いします”とかって野暮ったいメッセージを書き込むに決まってる。……お前にマッチングアプリなんて向いてない」

 彼が鼻を鳴らして不敵に笑う。友人はダークブロンドの短髪を後頭部へ向かって撫で付けるようにかき上げた。突き出た喉仏が上下する。その王者のような緩慢として豪快な仕草。懐かしさに胸が高鳴る。

 それは、彼が学生時代からやっているお決まりの癖というやつだった。



「にしても今日のお前は妙に静かだな。まさか俺の頼んだピザにお馴染みのビールが気に食わないなんて、そんな贅沢なことを言い出すわけじゃあるまいし」

「まさか」

 友人はこう見えて粋な男だ。彼が用意してくれた缶のビールは、実は僕らが成人する前からこっそり飲んでいた感慨深い品だった。市井では下手な高級品よりも根強い人気を得ているもので、値段もあの頃と大差ない良心的な価格で購入可能だ。

「まあまずは乾杯だ」

 タブの部分に指を引っ掛けてビールを開ける。ぷしゅ、という小気味よい音がして、旨味を想像した喉が勝手に唾を飲み込んだ。ほぼ同時に缶を開けたマークが腕を伸ばして乾杯を促す。缶を打ち鳴らし、僕は蟠る気持ちと一緒に中身を何口か一気に呷った。美味い、という短い台詞が見事に彼の低い声と重なった。

「さあ、勿体ぶらずにそろそろ言えよ。電話口じゃあかなり憤ってたみたいだが。……何か相談事があるから俺に連絡してきたんだろ」

「まあな」

 ソファに座り直し、僕は大袈裟に溜め息を吐いてみせた。まさか、「何だったかな」と記憶を漁っているとは思うまい。

 マークは話に耳を傾けながら今度はピザの箱を開けている。ああ思い出した。

「ああその。例の彼がさ、街で女の子と会ってるところを見つけてしまって。よりにもよってお前がいつも嫌う類の洒落た雰囲気のカフェの真ん前で。……そこで心底親しげに抱き合ってたよ」

「浮気されてるんじゃねえかってか」

「軽いハグじゃなかったんだ。あれはデキてるやつらのする抱擁だった。浮気だって、そう思ったっておかしくはないくらいのね。……残念だよ。あそこは使い勝手の良い店だったのに。おかげで僕もカフェに近付くのが苦手になった」

 言っておくと、語った出来事はすべて事実だ。おかげで演技調にならずに済んだのではないかと思う。

「そうか」

 意外にもマークはからかってこなかった。忙しない動作で背を起こすと身体を僕の方へと向け、あっさりと共感を示すかと思いきや、「だがそれはあり得ないんじゃないか」と顎を前に突き出して首を傾げた。そして箱からピザをつまみ上げ、欠片をさっさと口に押し込んでいく。僕はピザの破片がぱらぱらと真新しいソファに落ちていく様から目を逸らした。重厚感ある黒いソファなのに勿体ない。いくらしたのやら、継ぎ目に溜まっていく脂っこい食べカスをなぜ気にしないのかドン引きだ。

 彼は眉を寄せた僕を、勘違いにも心配そうな顔で見つめる。

「俺はお前の撮った写真でしか知らないが、それにしたって良い子そうだったじゃないか。お前だって悪くは言っていなかったと思うぜ」

「ああ。実際に良い子だよ。まだ大学生のくせに、当時の僕よりも数段落ち着いた雰囲気をしていて大人っぽい」

「なら、お前が少し穿ちすぎてるんじゃないのか。もう少し信じてやることはできないのか」

 僕は否定したい気持ちを、真相を言ってしまいたくなる気持ちをねじ伏せて首を振る。

「信じてはいるよ。信じていないわけじゃない。でも、仕方ないだろ。どうしたって不安になっちまうんだから」

 そうか、とマークが唸った。

「やはり信じ難いが、浮気に年齢もクソもないからな。男と付き合っていたって、性向次第では女も守備範囲に入ってくる。問い詰めるか、証拠でも挙げない限りは……わからんよな」

 友人は缶を見つめながら苦い顔で言った。僕は何だか面白くなくなってきてビールをごくごくと流し込む。それでも彼は黙らなかった。

「まあ何より驚くべきはお前の方だがな、ウィル。笑えるぜ。つらつら理屈を並べ立てたところで要するにあれだろ。良い子過ぎてまだ手を出せてません、ってんだから」

「な。……今その話は関係ないだろ」

 反射的に言い返してしまった。

「いいやあるね。関係はある。大アリだ。例外はあれど、大多数の恋人たちにとってセックスは大事なコミュニケーションツールとされている。まさかお前は文通だけで絶頂を迎えられる質なのか」

 僕が押し黙り、マークがほらなといった目を向けてくる。僕にだって事情くらいはあるのだが、彼にそれを熱弁したところで、情事にありつけなかったという可哀想な事実は変わらない。彼は話を続けた。

「俺ならさっさと家にでも連れ込んで、本能と欲望のままに迫ったろうな。そんで三日三晩やりまくる。とにかくだ。俺がお前なら、たかが小娘にツバを付けさせたりはしないだろうよ」

「人によるだろ、そんなもの」

「そりゃあな。でももう俺たちは子供じゃない。相手だって。大学生と言えど、いや、大学生だからだな。性交渉の何たるかぐらいは若くったって知ってるものさ。なあウィル。……お前は一体何を臆病になってるんだよ」

「何も。僕は別に」

「それでも彼とは一度も寝てないんだろ。せっかくできた恋人なのに」

 僕は缶を両手で包み込む。そしてゆっくりと頷いた。そうだ。僕だって、彼を想っていなかったわけではないのだ。ただもう終わってしまったというだけの話で。

「ならここにある酒開けまくって、彼を押し倒しに行ったらどうだ。そもそも浮気ってこと自体がお前の勘違いかもしれない」

「でも」

「……いきなり突っ込むなんて鬼畜めいたことをしなければいいのさ。耳元で甘く囁いて、それから一枚一枚皮を剥ぐように服を脱がせてやればいい。セオリー通りに。第一、相手は俺たちよりもひと回りは若い学生だ。ちょっとばかし長めのキスをしてる間に、ヤツのあそこもすっかり元気になってるだろうよ」

 男の突き出た喉仏が上下して、みるみるうちに缶を一本空けてしまった。乾いたアルミの音が机上を転がり、そして落ちる寸前で運良く止まる。

 やはり言い出せななかった。もう恋人への気持ちは殆どないこと、浮気云々に関することは今や完全に終わった事として処理できていること。そしてソファに座る僕が見つめるのは、隣りにいる君の血管の浮き出た手や指であり、缶ビールを抱えていた逞しい腕なのだということを。


「悪かった」

 マークの言葉に、僕は静かに首を振る。そうじゃないのだ、という思いを充分に込めたつもりで。だが言葉にせずしてそう伝わるものではない。ここはやり過ごすしかないと思った。相談にのってくれた彼の好意を無駄にして後々に喧嘩になるくらいなら、ここは素直に話を合わせて平和に終わらせるべきだろう。そして後日、残念ながら彼とは別れることになりましたと、悔しそうな声音で告げればいい。マークを思い、目で追いかけるのはそれからだ。

 でもまあ、と二本目に手を伸ばした彼が、今度は打って変わって低く静かな声で切り出した。凪いだ湖面に波紋が広がる。

「本音はどうなんだよ」

「本音?」

「ああ。お前の、ウィルソン・へーリングの心からの叫びだよ。彼を大切にしたいならそれはそれでいいと思う。今はまだ手なんか出さなくたって、な。見守るってやり方も、またひとつの愛の形なんだろうから」

 そう言うと、マークは前を向いて座り直すと深刻そうな顔で溜め息を吐く。

「でもな。独りよがりは手遅れになる。良かれと思った気遣いが、余計な世話だったとあとで突きつけられてみろ。……結果、俺みたいになるんだぜ」

 離婚をしたのだと、ついに彼は沈みきった声で教えてくれた。部屋が広く感じるのは、写真立てが減っていたのは、やはり彼の奥さんと子供の分の荷物が持ち出されたからだったのだ。残ったのはローンだけだよ、と言った彼の顔は、切なさに歪んでひどく悲しそうだった。

 僕は本物の馬鹿だ。大馬鹿者だ。言われるまでもなく写真の中の彼は本物なのに、あの笑顔は真実なのに。理由が何であれ、彼の幸せが崩れたのは確かだというのに、僕は何と惨いことを考えていたのだろうか。

 でまかせでもいい。ありきたりな流れをつくろう。何か理由をつけて今日のところはここを去ろうと、僕は誓った。



「────彼を抱きたい」

 いや、本当は抱かれたい。

「はは。率直だな」

「ぐずぐずに犯してやりたいよ。もういいって、気持ち良すぎておかしくなりそうだって、彼が泣いて懇願するまで」

 違う。本当は僕自身がそうされたいんだ。

「いいね」

「じゃなきゃいくら僕でも大学生の男の子に声をかけたりはしなかった」

 アホらしい。特に相手の歳なんて考えずに声を掛けたさ。

「ふ、なら今すべきことはひとつだな」

「ああ」

 僕は頷く。端末をスラックスのポケットから引っ張り出して、コミュニケーションアプリの一覧の中から目当ての名前をスクロールして探し出す。

 エヴァン・ガン・ゲイナー。僕は大好きだったひとの名前をタップしてすると短く簡単なテキストを打ち込んだ。


「とにかく聞いてくれてありがとう、マーク」

「いいや。俺は別に何も」

 行って来い、と玄関で壁に寄りかかりながらマークが言う。

 僕を見る目が妙に切なげに細められた理由を問いたかったが、扉は止める間もなく友人の姿を僕の視界から遮断した。

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