第5話
東京は私が小学校三年生に上がるまで住んでいた土地である。百貨店までメトロで二十分、美術館まで山手線で十五分のファミリー向けマンション。父が転勤で県二つ隔てた片田舎に異動することにならなければ、私は可愛い都会っ子だった。
幸いなことに、父はいわゆる左遷という感じではなくて、広い土地に大規模工場を立ち上げるために支社長という形で赴任先にやってきた。それなりの大企業の肝煎りのプロジェクトの責任者ということで、我ら家族がいい意味での腫物扱いをされる立場で新天地に収まることができたのは僥倖だったのだろう。
小学校だって、いい成績をとって逆上がりと大縄跳びができれば、多少不愛想でも筆箱を隠されたりしなかった。私に陰口を言った子は先生が注意してくれる。
でも、東京から三十年以上出たことのない母は、この殺風景な田舎に耐えられなかったらしい。引っ越したばかりの頃は痛々しいありさまだった。すごく痩せて肌もぼろぼろで、隈は深く、声から力が抜け落ちていたのをよく覚えている。父はそんな母の様子に、自分が責められていると感じたようで、彼女を食卓で「教育に悪いからそんな風にするな」と𠮟りつけることもしばしばだった。母が笑うのは、電話で東京の友達に田舎の嫌なところを紹介して盛り上がるときくらいだった。
何年か経てば流石に慣れてしまうのか、母も大分元気になったけれど、食卓では未だに田舎の悪口が一番無難な話題だ。
だから、私はよそ者だけど、よそ者であることを悲観したことは一度もない。だけど、今自分がここにいることに満足したことも一度もない。
『自分がいるべき場所はここではない』とずっと思っている。『ここ』というのが家庭なのかこの田舎町なのかはわからない。
東京が自分のなかでどんどん理想化されていくのを感じる。私の願う東京は、果たして本当の東京なのだろうか? そこに私の本物の父と母はいるだろうか。運命の相手はいるだろうか。
深い眠りのなか、私の東京は、辺蓮のミルクバレーとの境界線を失っていく。
東京に小麦畑が広がり、ミルクバレーにスクランブル交差点が現れる。静かな湖の水面には高層ビルが映り、教会の鐘の音はけたたましいJPOPになる。
辺蓮の声が聞こえる。
(林さんも、 が好き?)
なあに、もう一度言って。
(林さんも、 が好き?)
ああ、それか。それなら、わたしも……
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