第4章 一冊の本を深く読む

第12話 とさっ、と隣の席に誰かが座った気配がした

 カンナはダッフルコートのフードと、キャップとマフラーと眼鏡とで、ほとんど顔を隠すようにして、走るバスの窓から外を見ていた。

 朝洗ったばかりの髪が、よく乾かしたつもりだけれど、耳に冷たい。

 住宅街の道はゆるやかに上がり下がりする。ガードレールや草に付いた霜が、まだ低い日の光できらきらしている。家並の上の、飛檐垂木ひえんだるきの空をぼんやりと眺めながら、黒デニムの膝の上には「空のノート」の新しいページを広げていた。

 バスは大通りに出て、最初の停留所に寄り、そしてまた走り出す。


 パホイホイ溶岩……。飛檐垂木……ヒエラルキー? 冷やしたぬき?


 もやもやと考えていたら、とさっ、と隣に誰かが座った気配がした。

 びくっとしてカンナが振り返ると、きれいに整った小さな顔が目の前にあった。


「あの、だいじょうぶですか?」と男の子が言った。

「えっ。なに、わたし?」


 毎朝この車内で見かける小学生だった。ネイビーブルーのコートに、今日は真っ赤なマフラーをして、大きなヘッドフォンは首にかけている。


「はい。あの、だいじょうぶですか?」


 男の子が斜め下から、細いナイフで造形したような美しい目で顔をのぞき込んで来たので、カンナは思わず体をのけぞらせ、飛檐垂木の空に視線をそらした。


「大丈夫って、なんのこと?」

「ごめんなさい、だって、おねえさん、今日、なんか、ひどい顔で」


 失礼な子、と声に出さずにつぶやきつつも、カンナはこの子どもの存在をそれほど不快には感じていなかった。あらためて見ると、大人をバカにしたような悪童の顔ではない。真剣にカンナを見つめている。


 わたし、知らない子どもに心配されるほどやつれてる?


 そう思いながら、カンナは口角を上げて笑顔を作った。


「お姉さんは大丈夫だけど。で、きみは誰?」

「えーと、通りすがりの小学生です」

「わたしの顔、通りすがりでもそんなにひどい?」

「えっ、いえ、ちがくて、おねえさんはふつうに、かわいいですけど」


 子どもがうろたえるのを見て、カンナの顔には今度は自然に笑みがこぼれた。


「ちょっと寝不足なだけだよ」

「そうですか? それならいいんですけど、でも、なんか」

「きみさ、前からときどきわたしのこと見てるよね?」

「え、あ、それは」


 バスが速度を落とし始め、男の子は立ち上がってびょんと通路に退いた。


「あ、ぼく、降ります。おねえさん、気をつけてくださいね」

「何に?」


 子どもは下を向いて深呼吸をしてから、真っ直ぐに射抜くような目をカンナの眉間に向けて言った。


「分かりません。でも、心配です」


 子どもは身をひるがえしてステップを駆け下り、駅前の人混みの中に消えた。

 変な子。男の子って、あのくらいの歳でもああいうことするんだろうか。そう思いながら、たとえ数分でも外の世界の誰かとつながった気がして、少し温かく感じたのは確かだった。


 だけど、カンナにとっていま大切なのはそのことではない。

 ノートに目を落とし、ペンを手に取る。


 図書館で、今日もあの人に会えるだろうか? 片野加奈は、あの閲覧室に今日もいるのだろうか? そしてこのノートを見てくれるだろうか?



   §



 【パホイホイ溶岩】→

  ゴキブリホイホイ→

  罠→

  トラップ→

  サウンド・オブ・ミュージック→

  アルプス→

  甲子園→

  十干十二支→

  甲骨文字→

  ヒエログリフ→

  ヒエラルキー→

 【飛檐垂木ひえんだるき



   §



「ひえんだるき。ほんとにそうよね」片野加奈はくすくすと笑った。「わたしたち、どうしてこんなこと思いつくのかしら。不思議ね」

「だってわたし、加奈さんにとって、特別だから。……そうですよね?」

「ええ。そうよ。カンナさん、ほんとうにお久しぶり。会いたかった。わたし、昨日から、今日が来るのをずっとずっと待ってたわ」


 片野加奈はそう言いながら、カンナのセーターの袖をつかんだ。


「ここでは夜がとても長いの。一日よりも、一年よりも、百年よりも、永遠よりも長いのよ。ほんとよ。図書館の夜の底で、わたし、もうあなたに会えないと思ってた。この昼間の世界にカンナさんなんてほんとうは存在しなかったのかもしれないって思い始めてた」


 カンナは首を横に振り、片野加奈の白くてさらさらとしたその手の上に、自分の手を重ねた。


「わたしのほうこそ、もう会えないかと思いました」

「なぜ?」

「昨日、どうして突然いなくなったりしたんですか?」

「ごめんなさい。仕方がなかったの。閉館時間だったんですもの。閉館した図書館にはもう、あなたが利用できる資料は何もないの」

「資料?」

「ええ、そうよ。閉館した図書館には、もうあなたが読むことのできる雑誌も、借りられる本もないし、あなたと会えるわたしもいない。それが閉館ということの意味だもの」

「でも加奈さんは――人間は、資料じゃありません」

「それは……」


 滑らかな白い頬に笑みをたたえたまま、片野加奈は眉をひそめた。漆黒にきらめく瞳が揺れ動き、カンナの腕をつかんだ手に力がこもった。


「……そうなのかしら。わたしにも分からない」

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