佐原 Ⅰ
ふと目が覚めると、僕の視界は純黒に包まれた。
目を下にやると自分の体、足が見える。
だが、それは自分の体なのにも関わらず自分の意思で支配することができないような感覚だ。体を動かすことができない。なんなのだ、ここは。
この空間を認識することができない。奥行きが無限にあるようで、自分は宙に浮いているのだと、ようやく理解できた。
全ての意識を集中させ、目を動かし、辺りを見回してみる。
しかし、何もなく、暗く、黒い空間が存在しているだけだった。
一体何が起きている?しかし、自分の意識はどんどん肉体と乖離していく。
その刹那
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
喉のかすれた声が聞こえる。どこから聞こえたのかを確認する術はない。誰だ?
「お兄ちゃ……………」
返事をしようにも肉体と意識は完全に分離しているため、僕の肉体を操作することができない。
まるで、僕が僕ではないようだ。
声は次第に枯れていった。
自分の意識を保つことすらままならない。次第に、自分という存在そのものが消滅し欠けているような感覚に陥る。
「お兄ちゃん……………」
そこまでしてようやく気がついた。その声の主が自分の妹であることに。
「春香!」
気づけば自分はベッドから起き上がっていた。
状況を把握するのに数秒かかったが、先ほどまでの出来事は夢だとようやく分かった。
よく見ると自分の体には大量の汗が流れている。さっきまでの出来事は一体何だったのだろうか。ほんの一瞬の出来事だったようにも思えるし、何光年も長いような出来事にも思えた。
「慶次、早く起きなさい」
気づけば母さんが僕の部屋を開けて顔をのぞかせていた。
「どうしたのよその汗」
「ああ、これは何でもないよ」
理由を話すことに意味はないと思い、ベッドから立ち上がった。
食卓で母さんと僕の二人で食事を始めた。
「あれ、春香は?」
「もう行った。今日は登山サークルがあるから」
そうだ。春香はいつもこの時間帯はサークルに行くじゃないか。さっきの奇妙な出来事のせいで心配になっていたが、よく考えれば春香は僕より早く起きて大学に行っているじゃないか。
「母さんごめん、少し残すよ」半分ほど皿に残ったスクランブルエッグをおいて自室に向かった。正確には兄妹部屋なのだが。
布団の上へ大の字に寝そべり、息を吐き出す。
妹のいない勉強机を見て春香がN大に進学してからもう二年が経つのか、なんて父親のような事を思い浮かべる。
受験の時はこの部屋もどこか殺伐としていたが、今は春香の温かい笑顔がある。この部屋にいるだけで胸がそっと撫でられるようだ。
春香とは年齢の差なんてあってないような物だ。
僕たちは普通の兄妹のような関係でありながら、昨日は春香に夕食まで作ってもらったじゃないか。
なんとも奇妙な夢だったと振り返った。
机に飾られている僕の猟銃を見つめる。銃身には「K.S.」と僕のイニシャルが刻まれており、銃口は白銀の輝きを保ち続けている。
昔、僕は狩猟部だった。春香とは違って少し物騒な部活だが、銃を握った時と、獲物を仕留めたときのあの高揚感は忘れられない。僕の数少ない青春のひとつだ。
なんて呑気なことを考えていたらそろそろ自分も出勤する時間だったので、布団から立ち上がる。
去年少し大きい書店の会社に入社した。正直言って全く行きたくない。働きがいがなく、初出社したその日から自分にはこの仕事は合っていない事に気がついた。だが、今更転職先を探すのも遅すぎると思い、今の仕事に留まっている。ショルダーバッグを取り出し、一箱タバコをポケットに入れた。
「行ってきます」ボソッと口から吐き出した。
そろそろ一人暮らしを始めるべきだろうか。未だに僕は母さんのもとで暮らしている。
だけど僕は春香見たさに実家を離れられないのかもしれない。鬱屈とした日々を妹で癒やしているのだ。ふとそんなことを思い、家を出た。
最近になってカラスの鳴き声がうるさく感じるようになった。ただでさえここは田舎なので、カラスがいることは何も珍しいことではない。だが、なんなのだろうか。
最近はよりいっそうカラスが増えた、いやカラスの鳴き声が不愉快に感じることが多くなったような気がする。ゾワッと背筋が冷たくなった。疲れているのだ、僕は。
今すぐにでも帰って春香の顔が見たい(家に帰っても春香はいないのだが)。
やっぱり僕は一人暮らしには向いていないのだな。
そんな事を考えながらスタスタと、足早にホームの階段を降りていった。
「あれ、その本知ってます!」
喫煙室で一服していると、同僚に声をかけられた。
僕が手に持っているのは綾辻行人の「殺人鬼」だった。
高校の時に個人的に作ったミステリ研究部で一時期話題になった、綾辻行人のスプラッタ小説。
「双葉山」に棲みつく殺人鬼が、山を訪れた人間を容赦なく殺害する話で、部内での評価は賛否両論といった形だったが、僕は断然好きな小説だ。いまでもこうして時々読む。
持っていた本をショルダーバッグにしまう。
「ふうっ」
喫煙室を離れ、たまっていた疲れを放出するように息を吐き、そばのベンチに座り込んだ。
喉が渇いたので、財布から二百円ほど取り出し、自販機で缶コーヒーを一缶買った。
缶を開け、一気に喉へ流し込む。口の中が独特の苦みで包まれた。
飲み干した缶をゴミ箱へ捨て、そのまま駅を目指し歩き出した。
その時だった。ショルダーバッグにしまっていた携帯電話が振動した。
しかし電話に出ようとバッグを開けようと思った刹那、プツリと切れてしまった。
「迷惑電話か?」
チャックを開けようとしていた指の動きを止め、携帯電話を取り出すのを止めた。
しかしまたその五分後に携帯電話が再び鳴った。
携帯電話を取りだした。母さんからだった。
「もしもし」電話に出たがしばらく返事が返ってこない。
だが、電話先で母さん、そして複数人の知らない男の声が聞こえてきた。
一体何だ?間違えて僕に電話をかけたのだろうか。
しばらくすると母さんが話しかけてきた。
「もしもし慶次?今どこにいる?」
「どこって……今は帰っているけど」
「ねえ……春香見なかった?連絡とか来てない?」
困惑したが、明らかに何かただ事ではない何かが起きていることは分かった。もしやと思い、さっき迷惑電話かと疑ったあの電話の着信履歴を探る。
それは春香からだった。
「さっき、五分くらい前に来てたよ」
「『来てた』?貴方は電話に出たの?」
母さんは明らかに動揺して、憔悴している。
僕は順を追って状況を説明しようとする。
「電話に出ようと思ったんだけど呼び出し音が二回くらいで切れたから迷惑電話かと思って……それで履歴は見ないでそのまま無視していたんだけど」
「……!」
母さんはそれだけ聞くと何やら電話口の先にいる複数の男達に何やら説明しているようだった。
またしばらく経って母さんは
「いい慶次?この後春香から連絡が来たりしたら、必ず私に伝えるのよ」
と云った。
「ちょっと待って、意味が分からないよ」
「頼むわよ」
僕の言葉が言い終わる前に電話は切れてしまった。その途端、今朝の夢の内容が、鮮明に脳内で再生される。
「まさか……」
そう思っていても指が勝手に動き出してしまう。春香の連絡先を見つけ、電話を鳴らす。
しかし、一分待ったあげく留守番電話に接続された。
普段なら、すぐに出るはずだ。次々と得体の知れない不安が隆起する。
メールも送るが、返信される気配はない。
気づけば僕は帰宅の足を速めていた。
家の前では再び、あのカラスが「カアァ、カアァ」と、呻くような嘆くような泣き声を僕に披露してきた。
「黙れっ」
言葉が通じない相手だとは分かっていても、鬱陶しく感じ衝動的に言い放ってしまった。
帰宅し、足早に家の中へ入った。すると、そこは僕の予想通りの光景が広がっていた。
玄関には黒い靴がいくつも律儀に並べられており、玄関の向こうのリビングからあの電話口から聞こえてきた男達の声が聞こえる。
「あ、あ……慶次……」
「母さん、一体何があったんだよ」
僕がそう云うと男達から一瞬だけ冷たく鋭い視線を向けられた。
やはり、外見から見るに男達はどうみても警察だった。
「慶次……。落ち着いて聞いて欲しいの」
母さんが僕にそう告げたが、大概の見当はついていた。
そして、それは見事に的中した。
「春香が、帰ってきていないの」
春香が失踪してからは、毎日のようにビールを一缶飲み尽くし、一晩中寝ていた。
正確には布団に寝転がり、何も考えず、ただただ酒を飲み尽くした。
母さんと一緒に春香を探す気には、なれなかった。
普段は飲まない酒に頼り、酔い、自室で一服しながら布団に寝転がる。
そして、ようやく寝れたと思うと、またあの光景が蘇るのだ。
暗黒の空間の中でひたすらに春香が自分に対し助けを求める、あの光景が。
お願いです神様、春香を助けてください助けたください助けてくださいと、祈ることだけが、僕にできることだった。
どうやら春香が失踪したのは大学から家に帰宅するまでの間で、警察は母さんと協力し、春香が大学から家に帰宅した経路を徹底的に探している。
会社にも行く気にはなれなかった。同僚からは「きっと大丈夫だ」「気に病むことはないさ」との励ましの電話がかかってくる。でも、そんな言葉は耳からすり抜けてしまった。
人間は本当に焦燥しているときは慰めの言葉は全く通用しないと云うことがいまの僕にはよく分かった。
でも、ついにその時は来た。
横になっていた最中、いきなり電話がかかってきた。知らない番号だった。
震えた手で受話器を取る。
「もしもし、佐原です」
「春香さんの、ご家族の方ですか」
相手の声は聞いたことのない、男の声だった。
そして、その男の言葉で、僕は暗黒の深淵に投げ出された。
「こちら警視庁の者ですが……大変申し上げにくいのですが……ご家族の佐原春香さんとおぼしき遺体が、帰路の川で発見されました」
春香の葬式が終わった。いまの僕には悲しみも悔しさも、怒りも何もない。感情そのものが押しつぶされ、殺されてしまった。心の大部分が殺害されたようなかんかくだった。
警察の捜査によると、春香は自殺だと判明した。動機は未だ調査中だが、他殺の可能性はほとんどなく、何らかの理由で川に飛び込み、自殺したという。
春香の死体を確認した際は、目も当てられなかった。水死体を見たことはなかったが、春香の顔はパンパンに膨れ上がり皮膚が青白く酷いことになっていた。
何故、こんな目に遭わなければならないんだ。
そっと、座っていた座布団から立ち上がった。
「母さん、先に行っているよ」
隣で仏像のように固く座り込んでいる母にそう一言だけ云った。返答は、なかった。母さんからは悲しんでいる様子が全く見られなかった。それは、必死に感情を押し殺しているのか、もしくは僕と同じように悲しみも、悔しさも憤りも何もないのかもしれない。
これ以上は何を言っても反応はないと思い、外の新鮮な空気を吸うべく会場を後にした。
ドアをすり抜け、ふと自らの靴を見下ろす。側面が擦りむけ、激しく傷が付いていた。
そこでやっと、自分は足を引きずりながら歩行をしていたのだと気づいた。そして何故か、自分の目から何か熱く、気色の悪い液体が流れ出てしまう。がっくりと膝を折り、僕は号哭した。うおおん、うおおん、と獣が吠えるような、赤ん坊の泣き声のような、喉がつぶれるまで泣き続けた。
ああ、やっぱりか。僕は感情がなかった訳じゃない。ずっと押し殺していたんだ。それでいま、ようやくそれを解放しているのだ。
がっくりとうなだれ、アスファルトを這いずり回りながら、僕はようやくそう気づいた。
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