歩く女 七

 それから二日ほどは、出勤しても院長先生以外誰も声をかけてくれなかった。もともと人付き合いがよくなかったことに加えて、あの水死体がくれた強烈な腐臭というプレゼントが、どんなにお風呂に浸かって全身を何度洗っても落ちなかったせい。まあ腐乱死体を検死したらいつものことだから仕方ないわ。研究室にいたころはみんなそんな感じだったから気にもしなかったけれども、俗世間ではこんなにも態度が違うものなのね。勉強になったわ。


 おまけに待合室が混雑していても、私の受け持つ第二診察室にやってくる患者さんもいない。誰もがみな、私の醸し出す臭いを本能的に嫌がっている。患者さんは新たな生命を宿し、それをいつか待ちこがれているための定期検診に訪れているのに、待ちかまえている女医が死臭を漂わせていたら嫌われても無理はないか。それを考えると、婦人科に就職したのは間違いだったのかもしれない。


「いやいやいや、君を雇ったのは検死のためだから。いいんだよ、婦人科の診察は副業だとでも思ってくれたら」


 色素の薄い髪色がもたらす明るい雰囲気をそのままに、弟さんと違ってそのご面相の美貌を誇る知隼先生はそうやって慰めてくれた。


「聖鷲に会ったよね? あいつはもともと警備部のキャリアだったんだけど、昇進に伴って刑事部の管理官に異動したんだ。そうなるとぶつかるのは遺体との対面だ。あいつは死体が苦手だし、しかも検死となると知り合いの医者に頼まなきゃいけない。会ったとおりの男でね、医者の知り合いなんて兄である僕くらいしかいない。でも僕は忙しいんだ」


 なぜ忙しいのかと詰め寄られたら、先生はこう答える。


「美しい女性と会話する時間は長い方がいい。病院に来る女性はみんな不安を抱えているんだ、それを取り除いてやるのも医者の役目だからね」


 ウインクして言われると、誠実な人柄なのか、単なる女好きなのかわからない。美人な看護師ばかりを雇い、研究室を卒業して働く先を求めていた私を引き取ってくれたくらいだから、後者の可能性は非常に高い。


「どうせだから検死が得意な医者を雇おうと思ったんだよ。君を見つけたのは運がよかった。女医なら婦人科にもちょうどいい」

「臨床経験なんてあんまりないのに、よく雇ってくれたなと思ったらそういうことだったんですか」

「言わなかったっけ」

「大事なことは遠まわしにしか言わないでしょう、先生」

「直接伝えるのはあまり綺麗とは思わないからね。夏目漱石だってアイラブユーを直訳にはしなかった」

「なんですそれ」


 知隼先生ご自慢のお顔を呆けさせてしまった。私の無知加減で、先生のお心をずいぶんと傷つけてしまったらしい。これはどうしたものかしら。


「先生、弟さんがいらしてますよ」

「えっ、うんわかった」


 返事をするなり、兄の顔になった知隼先生は看護師さんも私も捨てて、診察室から飛び出していった。どうやらブラコンらしい。厚手のカーテンで区切られている隣の第二診察室へと私は戻る。デスクの脇にある窓を開いて換気を十分にしていても、鼻先にはまだ、あの臭いがこびりついている。

 腐臭だけじゃない。その合間に、かすかに漂っていたあれは羊膜ようまくえき)と血が混じったにおいだった。経血けいけつのような、めまいと吸引力を兼ね備えた臭い。あれをかぎ取り、本来なら伸びきっているはずの腕が腹部を抱えた姿勢を見て気づけた。


 あの水死体は、妊婦だったのだと。

 生物学上の雌としての本能。子どもを安全なところで産み落とすために、彼女は必死だった。水から引き上げてくれた警察官たちに、本当は助けを求めたかったのかもしれない。けれど大半は気絶し、残る数人もあまりの衝撃におう吐でへばり、役に立ちそうもなかった。そこで彼女は、どこか静かな場所を探した。できれば、近くの産科にまで行きたかったんでしょう。それを途中で止められたのは、運が良かったのか悪かったのか。

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