幽世一般氏子の社務所日誌 — 常闇之神社で暮らす平凡な狼神の日常 —

夢咲蕾花

第1話 幽世へ至る非業の魂は

「あんたはうまく行かなかったんじゃない。星の巡りが悪かっただけなの。ここで、せめて二回目の生を謳歌なさい」


 目の前にぼんやりと見える、美貌の狐娘がそう言った。

 白い体毛、紫紺の目、九本の尾。手にした、青く輝く霊力と呼べるそれが凝縮した美しい刀に、自分は斬られた。痛みはない。むしろ、迷いや煩悩から解放された快感さえ伴っていた。重石が切り離されたように軽くなり、そうして意識が攪拌かくはんされてぐるぐる渦巻き、微睡むような感覚がして、視界が暗転した。

 自分が終わるという感覚は、思っていた以上に怖くはなかった。むしろ、あの、人生という限りない虚無から解放されたという喜びのが勝っているくらいである。

 やっと、やっと終われる。二回目の生なんて、ありはしない。あの子は、きっと現世への未練という幻想が見せた、自分にとって都合のいい虚妄だったのだろう。

 熱いコーヒーに砂糖を溶かすように、己の意識は緩やかにかき混ぜられて、薄らいでいった。




 自分は典型的な「何をやってもうまく行かない人間」だった。

 仕事もプライベートも趣味も、何をやってもダメ。ありがちといえばありがちだ。幸福も悲劇もないのっぺりとした人生が、三十年以上続いた。

 将来を捨てるには若いと、三十二歳の夏に受診した心療内科で言われた。だが、三十四にもなってなんの突出したパラメーターも、伸び代もない自分が何を成すのか――いっそ、弾けるような決断をできる思い切りがあれば何か変わったやもしれぬ。仕事を辞めて、旅に出る、とか。

 だが大半の日本人がそうであるように、彼にそんな思い切った決断はできなかった。いつまで続くかわからない人生の、さして意味のない未来予測に不安を募らせ、行動に移せなかった。


 職場では後から入ってきた後輩に追い抜かれ、新卒の若者には陰で無能と嗤われる。恋人には「優しいけど、優しい人止まりでつまらない」と見切りをつけて去っていってしまい、趣味のゲームも特別うまくないので、なんというか暇つぶしで見てしまう他人のスーパープレーと比較して落ち込んでしまう。学生時代もそんな感じだった。いじめられることはなかったが、陽の当たる側に立つこともなく、ひっそりとなんの味もしない、そんな無味乾燥なまま学生生活は終わった。


 日がな一日くだらない動画を見て過ごす午後に嫌気がさして外に散歩に出たのが運の尽きだった。

 路地の細道に突っ込んできた、明らかに酔っ払い運転と思しき乗用車に逃げ場がないそこで轢かれ、頭が潰れる感触がして、人生が終わった。

 こんな生き様なのに、死にたくないとも思ったし、けれども同時にそれこそが己への救済だと諦める自分もいた。

 生きていたいのか、死んでしまいたいのかわからない。でも――もし、「もしも」があるのなら、後悔のない人生を歩みたい。何もないなりに、何もかもを求める欲を持って、暮らしたい。


 意識が帰ってくる――。


 まず、いい匂いがした。

 縁日の甘酒のような匂いと、ツンとくる酒の匂い。それから古びた木の香りがして、体を包むふわふわしている温かいものから、柔軟剤の優しい花の匂いがする。なんというか、神社の匂いだ。神社で、寝かせられている。無論自分には神社で倒れた経験はないし、氏子さんや巫女さんに介抱された経験もないが、そう感じた。


 ぴく、と指が動いた。


 ――生きている?


 まぶたがひくついて、嗅覚に続いてまぶたを差す、やや暗い日差しが差し込んでくる。次いで味覚――固まった唾液の苦い味がした。それをぐっと飲み込むと、思い出したように喉が渇いた……という感想が湧き上がってきた。


「ん……ぐ……」


 意識が覚醒してきて、自分は目をこじ開けて起き上がった。

 場所は……病院ではない。

 漆喰壁に、木の天井。加工されたフローリング材ではなく、本物の木だ。無骨な剥き出しの木でできた梁が巡らされており、ぶら下がっているのは子供の頃おばあちゃんちにあったような傘のついた電気。よく、電気をつけるための紐でボクシングをした。

 畳……隣に、美しい女性がお手本にしたくなるような正座をして座っていた。


「お目覚めになられましたか」

「えっと……あなたは……ここはどこですか」


 黒髪に、二本の角。鬼のような女性だ。

 ここは……まさか、あの世? 自分は亡者になって、鬼にとって食われようとしているのか? だが、鬼とはもっと恐ろしげなものではないのだろうか。こんな優しそうな女性が鬼というのは、あまりにもイメージにそぐわない。


大守奏真おおかみそうま様、貴方様は生前の非業の死によりこの幽世かくりよに招かれました」

「は……いや、え? 俺の名前か、それ……。違う、違います、俺の名は……俺の、名……」


 なんだっただろう。思い出せない。

 自分はなんという名前だったか。名前があったことは覚えている。当たり前だ。当たり前の現代に、当たり前の人として暮らしていた。名前がないはずがない。だが、どのように記憶を掘り返しても、それが出てくることはなかった。暗いモヤが覆い被さり、記憶を、蝕んでいる。自分の名前は愚か、数少ない友人や、家族や、元恋人の名前さえ思い出せない。

 生前、と言われてもピンとこないが――すぐに、あの車に轢かれる光景がフラッシュバックし、「っ……」と額を押さえた。


「生前の不要な記憶は排除しています。中には好んで全てを思い出す方もいらっしゃいますが、下手に死の瞬間を克明に思い出すと、精神の復調に大変時間がかかりますので」

「そっか……。……俺は、死んだ、んですか? 死ぬ……いや、でも……確かに、死んだような……」

「ええ。残念ながら。令和六年七月三十日午後十三時五十二分に身罷みまかられました。有給中の出来事でしたね」

「……ここは、幽世って。あの、狐のひとが……幽世って、何? ここはなんなんですか? 天国……?」

「天国とも言えますし、地獄とも言えますね。ここはあの世とこの世の狭間。この宇宙における幽世とは、三千世界――全宇宙の狭間にある異世界という認識で構いませんよ。つまり奏真さんは異世界転生をされたと、そう言った方が伝わりやすいでしょうか。残念ながら、中世ファンタジーの異世界ではございませんが。妖怪と、摩訶不思議な、そんな世界です」


 そこまで説明されて、青年――奏真は、自分の体に違和感があることに気づいた。

 狼の耳と、尻尾が四本生えているのだ。自分も鬼とか、夢で見た狐みたいな人外になったのだろう。今しがた口にした、妖怪というやつなのかもしれない。

 それにしても七月に死んだというが、なぜこの部屋にはストーブがたかれているんだろう。ストーブの鉄板の上には薬缶が置かれ、乾燥対策か蒸気を吐き出している。こういう方式のストーブなんて今時普及しているんだなと思った。今は石油ファンヒーターとか、そもそもエアコンで代用するものだと思っていた。


「この幽世の住民は大半が妖怪です。生前、あるいはその前世の記憶に準拠した種族になります。あなたは狼と縁があった故、狼神おおかみという種族になったのですね」


 女性は狼神、と空中で字を書いて、教えてくれた。

 狼の、神。


「失礼、名乗り遅れました。私は氏子総代を務めております、緋扇ひおうぎにございます」

「あっ、ご丁寧にどうも。俺は大守? 奏真、です」


 名前が思い出せない以上、大守奏真という名前を使うしかない。


「いろいろ思うことはあると思いますが、お食事を。ご安心を、黄泉竈食よもつへぐひなど気にしなくとも、もう死んでいるので」

「は……はは」


 それは笑っていいのだろうか。冗談にしてはちょっときつすぎる気もするが、奏真は曖昧に微笑んでおいた。

 緋扇はすっと立ち上がって部屋から出ていった。ずうっと正座していたのに足を痺れさせた様子もなく、音もなく綺麗に立った。この仕事が長い証拠だ。立派な職人技である。しばらくして、折敷を持った緋扇がやってきた。

 盛り付けられているのはたまご粥と、トロトロに煮込まれた野菜の煮込み、お麩が浮かんだ味噌汁に甘酒。それから麦茶。病人に振る舞う食事という感じだ。


「ごゆっくり」

「ありがとうございます。いただきます」


 奏真はまず茶で口を湿らせると、漆器のスプーンでたまご粥をすくい、口に入れた。塩味というよりは出汁で味付けした感じで、昆布出汁の旨味が感じられる。二口三口と食べて、柔らかい野菜の煮込みを頬張る。白菜とにんじん、ピーマンを煮込んだものだ。味付けは醤油ベースで、食べやすい。

 味噌汁は熱すぎずぬるすぎない温度で、優しい薄味である。奏真としてはもう少しガツンと味噌の味が欲しかったが、体を慮ってのことだろう。

 甘酒は、以前どこかで病人に振る舞うには理想的な食事と聞いたことがある。米麹の粒が、口の中で踊る。酒粕の甘味が、身に沁みた。

 しばらく夢中で食事を続けた。


 こんなふうに血の通った食事を摂るのはいつぶりだろう。

 あっちの世界にいた頃は、大抵は工場が作ったコンビニ弁当が大半で、誰かの手料理なんて十何年も食べていなかったように思う。恋人がいた時も、同棲なんてしていなかったから外食が基本で、手料理を振る舞ってもらったことが一切ない。


 食事を終えた奏真は手を合わせて「ごちそうさま」と言って、スプーンを置いた。

 しばらく部屋を見て回る。立ち上がると体がふらついたが、筋肉が衰えているということはない。背格好は生前の頃と変わらぬ中肉中背である。少し体が軽い気がするのは、人外――妖怪にになったからだろうか。


 ここは一階のようで、外には神社が見えた。

 大きな拝殿に、それからその近くの一際大きな建物。その建物の二階にある手すり付きの縁側に、夢で見た美しい狐の女性がもたれかかっていた。そばには彼氏か旦那のような距離感の、非常に大柄な片角の鬼男が寄り添っている。その傍には、角を持つ小さな狐娘(?)がおり、鬼男の裾を引っ張っている。まるで父親に甘えるように袴を掴んで、けん玉を差し出していた。


「もし」

「…………」

「もし。気になりますか?」

「おわっ」

「失礼、声をかけても反応がなかったので」

「すみません、緋扇さん……あの方達は? 夢で見た女性もいて……その、」

稲尾椿姫いなおつばき様、稲尾燈真いなおとうま様、そしてそのご子息である稲尾桜花いなおおうか様ですね。桜花様はああ見えて、立派な男子ですよ。夫婦揃って最強格の神格妖怪にあらせられます」

「神格……」


 九尾の、椿姫とかいう女性は息子のじゃれつきに笑顔で応じ、ほっぺたをこねくり回している。

 とても神様という、厳格な雰囲気ではない。旦那の方は桜花という子から受け取ったけん玉を操り、皿に玉を乗せ、棒に突き刺していた。


「あの夢は……なんだったんでしょうか。俺は稲尾椿姫という方に斬られたはずです」

「夢というのは『門』のことですね」

「門?」

「現世から迷い込んできた非業の魂を迎え入れ、その際に迷いを断ち切る場所です。神使の方々が持ち回りで、断ち切りの儀を行われているのです」

「断罪、ではないんですね」

「常闇様は罪を否定されません。全ての生命と魂、精神には、罪も悪意、善行も善意もあるとお考えです。それらを分離することは不可能と、お考えなのです。混沌のうねり、善悪混沌、それが常闇様の思想です」

「常闇様? というのは?」

「ここではなんですし、拝殿に参りましょうか。少々お待ちを」


 言われた通り待つと、緋扇がどてらを持ってきた。奏真はそれを着ながら、きっとこの世界と元いた世界は時間軸が違うのだと察した。生前では茹だるような夏日だったが、こっちでは今、冬なのだろう。

 奏真は緋扇に連れられ、部屋を出た。

 ちなみに奏真の格好は死人に着せるような白装束の分厚い生地の長襦袢で、襟も、右側が前になっている。


「あたまに三角形の頭巾でもつけたら様になりますかね」

「いわばここは死者の集まりですから、皮肉にもなりませんが……つけてみます? 顔布なんかもどうでしょう」

「いえ、やっぱやめときます。すみません」


 緋扇が若干怒っているのを察し、奏真は黙った。流石に不謹慎だった。

 そうだ、――そういえば非業の死を遂げたものが来るんだったか。ここではうらめしや――まさにそれが当たり前。

 社務所の通路を通る氏子は、男女問わず妖怪ばかりだった。犬の尻尾の者、鬼、石のような色の肌をした者(緋扇が鬼瓦という妖怪ですよと教えてくれた)。


 外に出ると、冬であるというが木々は花を咲かせ、花弁を散らしていた。日差しは眩しいが、不可思議なフィルターでもかかっているように、わずかに夜の気配も感じるような色味を帯びていた。

 境内には屋台が並び、一定の間隔おきに溶けてない氷が置いてあって涼を漂わせている。

 一般に神社における森は禁足地と言われるが、その付近には公園も併設されているようで、そこからは子供のはしゃぎ声が聞こえてきた。「らいかがにげたー!」「おっかけろー!」「みずふうせんまだまだあるぞー!」と聞こえてくる。

 どうやら「らいか」という何者かを追いかけて、水風船をぶつける遊びをしているらしい。


「参拝される方は、この石畳の道を歩んで参ります。あの鳥居の前で、どうぞ、ご一礼を」


 鳥居――藍色の巨大な鳥居が鎮座している。中央の神額には「常闇之神社」の文字が金色で、恐らくは純粋な黄金で刻まれていた。

 奏真は緋扇と共に一礼。


「常闇様は、見下されることを非常に嫌います。力強く、無敵で、それでいてわがままかつ少々傲慢であらせられますゆえ」

「そこは、ステロタイプな神様なんですかね」

「そうですね。あまり陰口は言えませんが、なかなかに愉快な神様であらせられます」


 妖怪だらけのこの世界、そして神格妖怪という言葉からして、その常闇様も実在するのだろうか。

 拝殿にやってきて、緋扇は札を渡してきた。


「これは?」

「賽銭箱に。幽世にはお金という概念が普及していないので、物を納めます。通貨ではなく、働貨、というのです」


 奏真は札を賽銭箱に入れた。

 それから二礼二拍手、一礼。

 別に、願うことはないが……なんとなく、「楽しく、健やかに過ごせますように」と祈った。それから、思い出したように「変われますように」と。


「拝殿に上がりましょう。草履を脱いで」


 奏真は草履を脱ぎ、先に行く緋扇に続いた。

 拝殿の中には、高さ二〇メートルに達する石像が一体、鎮座している。


 荒々しい女神だった。

 整った顔貌に、額には三つ目があり、背中には二重の法陣を背負っている。そして腕は四本あり、腕部との繋がりの大胸筋の関係からか乳房の膨らみは四つ。腕にはそれぞれ槍と剣、弩を構えていた。

 腰には注連縄を巻いており、相撲取りのような前掛けを腰にかけている。上半身は裸――ではなく、胸部には装甲のような、甲殻のようなものが張り付いていた。

 下半身は四本脚であり、尾が伸び、その先端は二股に割れている。


 異形の神。

 ヒト、という形から逸脱している。

 ヒトこそ神の似姿というが、その常識を超えていた。まさに妖怪の神――人間という常識にとらわれない異相の神であった。とうてい、この神を模した似姿を生み出すとすれば、それは人間ではあり得ないだろう。


「この世界で最強の忌兵隊きへいたい総長が十人がかりでも傷ひとつつかない神……それが常闇様です。無礼のないように」

「は……い……」


 ただ、迫力に飲まれるしかなかった。

 まるでそこで息をしているような威圧感が石像から感じられる。


「あら、新入り?」


 突然後ろから声をかけられ、奏真はびっくりした。

 振り返るとそこには石像と全く同じ顔――三つ目の、四本腕の妙齢の女性。

 まるで日差しを、後光を背負うように立っている。


「夜葉さん、脅かさないでください」


 緋扇は彼女を夜葉、と呼んだ。

 ――常闇様では、ない?

 だがその異質すぎる気配、影を落とさぬ肉体……。ただの妖怪ではないだろう。


「菘ちゃんに手出ししたらお仕置きだから、覚えておいてね」


 それだけ言って、夜葉という女性は踵を返して去っていった。


「誰ですか、今の」

「……ロリコンのど変態ですよ」


 緋扇は疲れたような顔で、そう言った。

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