第10話
三十回以上眠り、それと同じくらい起きた。
回数を意識することに、果たしてなんの意味があるのだろうか?
私はなんのために数を数えているのだろうか?
起床し、朝食を摂り、身体検査を受け、仕事をし、昼食を摂り、授業を受け、夕食を摂り、シャワーを浴び、自由時間を過ごし、眠りに就く。
毎日がそれを繰り返している。もちろん仕事の内容は輪番だし、やることも変わる。食事の内容だって違う食べ物が出る。何一つ同じ日なんてものはない。
しかし私はそれらを同じ日とみなし、同じことを繰り返しているように思えてならなかった。繰り返しの日々だと認識することは初めてだった。以前はこんなふうに感じたりはしなかった。
私の中で何かが変わっている。
それが数を数えることに、繋がっているようだ。
外は灰色の雪野原が広がっている。私は窓を開けずにその光景を眺める。白紙のような雪面に薄く私の顔が写っている。頬と鼻の頭が赤い。前髪がまつげに擦れている。唇が青白い。顔の輪郭が雪に溶けている。二つの瞳は黒に近い緑色をしている。息を吐くと、その顔を真白く塗りつぶし、その先の景色も隠してしまう。指でこすると跡が残るため、何か描きたくなる衝動をぐっとこらえた。窓の脇にはかつて誰かが絵を描いた跡が残っていた。
植物園の仕事を終え、夕食を摂る。いつも通りテーブルの隅で食事をする。今日はパンと白菜のスープに、トマトとひき肉の炒め物、りんごだ。トレイの上は色あざやかで、見ていると腹の虫が鳴った。私はスプーンでスープを掬い、それを飲もうとする。
目の前にヴァルコが座った。私は飲もうとしたスープをこぼした。トレイの隅に濁った水たまりができた。私が声をかけようとする前に、彼女は「いただきます」と小さく言ってパンをちぎって口に入れた。
横に視線を向けると、子どもたちは楽しそうに談笑している。誰一人として邪険な顔を浮かべてはいない。ヴァルコと喧嘩したりしたふうには見えなかった。では、いったいなぜ?
「あ、あの……ど、どうしたの?」
私が問いかけるも、彼女は気にせず食事を摂っている。スプーンを丁寧に操り、白菜の切片を3個乗せ、それを口に運ぶ。唇を大きく開けることはせず、必要最低限に開ける。少しだけ見えた前歯は端正に並んでいる。咀嚼する音も小さく、耳を澄まさないと子どもたちの笑い声にかき消される。飲み込む音だって、本当に喉を通っていったのか疑うほどだ。
「続きは?」
気付けば、真黒い瞳が私に向けられていた。かつて、夜と同じ色をしていると感じたそれは、食堂の光の元では違って見えた。黒の中に潜む、碧色があった。植物の持つ緑とは異なるものの、その碧の在り処は私に彼女の意外な一面を表しているように思えた。どうして今までその色に気付けなかったのだろうか。果たして私の中で何かが変わってきているのだと感じた。
「え、と……」
私はスプーンでスープをかき混ぜた。粘り気のある濁りの水に、肥料として捨てられたような野菜たちが浮かんでいる。
「ヴァルコ、私の近くにいない方がいいよ」
「どうして?」
「どうしてって……だって、みんなそう言ってたよ。あいつに近づくと、よくないって」
私は彼女を説得するためにそう言った。表情一つ動かさなかった彼女は、食事に戻った。
「私はね、子どもがきらいなの」
ヴァルコが突然そう言うので、私の指からスプーンが抜けた。器の中で弾かれたそれがスープを掬い、宙に水が舞い散る。私の顔や髪にスープが付着した。温く、粘ついている。ヴァルコは私の様子に目もくれずに続けた。
「あんな幼稚な人たちとは一緒にいたくない。彼らの何も考えていない安易な思考力が許せない。近くにいるだけで頭がどうにかなってしまいそうだもの」
「でも、私といるとみんなが——」
「あんな奴らよりも、あなたの方がいくらかマシよ」
マシ、と言う表現に若干の棘を感じるものの、私は自分の頬が緩くなるのを感じた。どんな理由であれ、ヴァルコが私のそばに来てくれたことを嬉しく思った。あんなに真面目で、私とは仲良くなるはずがなかったヴァルコが、私と話してくれる。
「でも勘違いしないで」
ヴァルコは炒め物を千切ったパンの上に乗せて食べた。そんな面白い食べ方もあるのか、と思う。
「あなたが思っているようには、絶対にしないから」
「え……ヴァルコ、私の考えてることがわかるの」
私が訊くと、顔に書いてあるわよ、と言った。私はスープの器を覗き込んだ。濁った水にぼやけた顔が移っている。顔のどこにもそのようなことは書かれていない。前髪をめくっても、いくつかの小さなにきびがあるだけだった。
「すごいね、ヴァルコは」
顔を覗いたついでにスープを飲み干してから、私はそう言った。
「いろんなものを見てて、いろんなことを考えてて、私にはできないよ」
「みんな考えなさすぎなの。先のことを見ずに、どうして呑気に生きてられるのかしら」
私は苦笑を浮かべるしかなかった。そうして会話は途切れ、それそれの食事に戻った。りんごをいつ食べようか悩むかたわら、ヴァルコの言っていた「先のこと」とは一体なんなのか考えていた。私たちの未来にあるもの。私たちが成長して大人になって、たどり着くところ。そこには何があるのだろうか。考えても、想像は浮かばない。食事を摂っている大人たちを見やる。仕事をしている姿を思い出す。彼らは何を思って日々を過ごしているのだろうか。私は大人になって彼らと同じ領域に立ち、一体何を思うのだろうか。
大人とは、子どもと何が違うのだろうか。
ヴァルコは言っていた。早く大人になりたい、と。おそらくそれは「考えなしの子どものままでいたくない」と言う意味なのだろう。大人になれば、考えがある状態になるのだろうか。そして、考えがあることで、何かこの日々が変わったりするのだろうか。私も大人になれば、子どもたちに翻弄されることがなくなるのだろうか。大人という状態、考えがあるという状態は、この繰り返しの日々に価値を与えてくれるのだろうか。
私はりんごを最後に食べることにした。乳白色の欠片を口に入れると、他の料理にはない甘味が舌の上で踊った。あごの付け根が締め付けられて痛くなった。
「それで、アラギに話があるんだけど」
食事を終えると、片付けの際にヴァルコは思い出したように言った。
「なに?」
「今日、私が”獣”に食事を持って行く当番だけど、代わる?」
「代わる」
私が即答すると、ヴァルコは嘆息した。
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