episode.3


 清涼な風が、小高い丘の上の墓地に敷き詰められた緑の絨毯を揺らすと、初夏の香りがアズライトの鼻先を擽った。

 いくつも並んだ墓石は、古く年季のあるものからまだ真新しいものまで、大小さまざまな色や形で死者を弔っている。


 草の上で胡座を組んで座るアズライトの眼前には、平板状の墓石が地面に埋まっていた。磨き抜かれた墓石には、夜明けの魔女の名前が刻まれている。

 アズライトは魔女が何年もかけて育てた植物の庭から、ぱっと目に付いた淡いピンク色の花をむしり取ってきて墓前に供えた。星の形に似た名も知らぬその小さな花は、白や赤の色違いのものが他にもたくさん咲いていた。


「本当はバラを見せたかったんだけど、勝手に摘んだら怒るだろ? これがなんて花か知らないから教えてくれよ、シレネ」


 返ってくるはずのない返事を求めて墓に話しかけたアズライトは、静かに苦笑した。こんなことなら庭いじりをしている魔女に花の名前を聞いておけばよかったと、今更後悔しているのだ。


『庭は育てるものなのよ』と言って優しく微笑んだ魔女の顔を思い出して、アズライトは顔を伏せる。声も表情も、手のぬくもりさえも今も鮮明にアズライトの記憶に焼き付いている。

 葬儀の日に集まった他の魔女たちによって焼かれた夜明けの魔女の肉体は、灰になって消えた。力のある魔女の肉体を残してはおけないと、彼女は骨すら残らなかった。


 冷たいむくろすらもうどこにも存在しないなど、アズライトには未だに信じられない。


「なぁ、シレネ……変な奴に屋敷を奪われたぞ。あの契約書は本当なのか? なんであんな奴に俺たちの屋敷を渡したりしたんだよ……」


 ガーゼの貼られた首元を押さえて、アズライトは失望の滲む声で呟いた。突然屋敷に現れた吸血鬼によって噛み付かれた首元は、数日経った今でも深い噛み痕が残ったままだ。鏡を見るたび目に付く傷痕が苦々しく、こうしてガーゼで隠している。


 完全な弱者として生死を握られ、魔女との思い出の屋敷すら奪われたことが、アズライトにとって死よりも苦痛だった。


 夜明けの魔女が吸血鬼と親しくしていたなど知るはずもなく、魔女本人から真実が語られることは二度とない。

 なにを信じればいいのか。

 主人を失ったアズライトには、ぽっかりと空いた穴を埋めるすべがどこにもなかった。


「もう行く。また来るよ、シレネ」


 何時間墓の前にいたのか、気付けば日が沈みかかっていた。赤らんでいた空は次第に濃い青を纏いはじめ、辺りは薄暗く変化していく。

 夜がやってくる。闇の住人が目覚める時間だ。アズライトにとっても夜は心地よい目覚めの合図であり、動きが活発化するころだ。とはいえ魔女がいなくなった今、アズライトは完全に気力を失っていた。

 一日でもっとも好きな食事の時間でさえ、なんの喜びも感じないのだ。



「おかえりなさい、アズライト」


 生気のない足取りで屋敷に戻ったアズライトを出迎えたのは、メイド服を着た十代後半ぐらいの少女だ。足首まである黒のワンピースに白いフリルエプロンを身に付けた少女は、肩に掛からないぐらいの短い黒髪を揺らして頭を下げる。すっと上げた美しく整った顔は表情ひとつ変わることなく、澄んだ瞳でアズライトを見つめていた。


「ビオラ、あいつはどうしてる?」


「ご主人様はまだ地下で眠っていらっしゃいます」


 ビオラと呼ばれたメイドが淡々と答えると、アズライトは眉をひそめた。


「ご主人様はやめろ。お前の主人はシレネだろ」


「ジル・フォード様が新しいご主人様です、アズライト」


 人形のような無表情を崩さないまま、ビオラは凛とした声でそう告げた。この不毛なやり取りもすでに何度か繰り返している。


 ビオラはこの怪屋敷が生み出した使用人だ。屋敷を管理し、主人のために動く人形に過ぎない。夜明けの魔女が亡くなったのと同時に一度姿を消したが、新たな主人の出現によって再びアズライトの前に現れた。

 最初からアズライトの存在を認識していた彼女は、恐らく記憶を引き継いでいるのだろう。魔女の存在を記憶しながら新しい主人に仕えるビオラに、アズライトは不快感を抱いていた。主人を喪った苦痛を分かり合える唯一の存在だと信じていたのは、とんだ思い違いだったらしい。


「……もういい」


「アズライト、夕食はどうしますか?」


「必要ない。部屋にいるから、あいつを近付けるな」


「食事をとらなくては、身体に障ります。もう三日もまともに食事をしていませんよ、アズライト。ご主人様も心配されています」


 ビオラを横切って二階へと続く階段に向かって歩いていたアズライトは、彼女の言葉を聞いて怒り任せに振り返った。


「必要ないって言ってるだろ! 俺の前であいつを主人と呼ぶな!」


 興奮気味に声を荒げると、ビオラは表情を変えることなく黙り込んだ。どんなに無表情を取り繕っていても、アズライトは彼女の瞳に憂いの色が滲んだのを見逃さない。


(……やめろ、そんな顔をするな)


 すべてがやつ当たりに過ぎないと頭では理解していても、アズライトには新しい屋敷の主人などとても受け入れられるわけがなかった。

 そのくせ屋敷を出ることは、もう一度主人シレネを喪うようで耐えられないのだ。



「──……うるせぇな。なにを騒いでる」


 身震いするような低い声が玄関ホールに響き渡ると、アズライトは声の方に視線を向けた。

 黒のトラウザーズにシャツの襟元を着崩した男が、不機嫌そうにかつかつと靴音を鳴らして奥の廊下から歩いて来る。男が姿を見せただけで屋敷内の温度が急激に下がったように感じるのは、アズライトの気のせいではないだろう。


「おはようございます、ご主人様。すぐにお食事にいたしますか」


「……ああ」


 火を付けたばかりであろう煙草を手にした男は、短い返事とともにビオラを一瞥する。すぐに男の意をんでビオラは頭を下げると、「失礼いたします」と言って踵を返した。

 キッチンの方へと去っていくビオラの足音を聞きながら、男は吸い込んだ煙草の煙を吐き出した。


「で、お前はなにを吠えてるんだ、犬っころ」


「……この家で煙草を吸うのはやめろ」


 男の質問には答えず、アズライトは鼻を塞ぐように手の甲を顔に押し当てた。鼻が利くアズライトにとって煙草の臭いは想像以上に不快なものだ。当然夜明けの魔女もビオラも煙草なんてものは吸わなかったのだから、嗅ぎ慣れない臭いは苛立ちに変わる。


「魔女の香りが消えるのが怖いか? 毎晩あの女の部屋でぴーぴー鼻を鳴らしているもんな」


 乾いた笑いを漏らして嘲る男の目は笑っていない。挑発するような発言にアズライトは男を睨み付けると、無言で背を向けた。


「おい、どこに行く。飯の時間だ」


「は? 誰がお前なんかと食うかよ、クソ吸血鬼。飯がまずくなる」


「ダイエット中か? お前には食事をしてもらわないと困るんだが」


「なんでてめぇーが困るんだよ! いいから話しかけるな、俺の前から消えろ!」


「そんなに俺が恐ろしいのか? 子犬を飼うのは初めてだからな……勝手が分からん」


 冷ややかに漆黒の瞳が細められると、アズライトのなかで煮え立つような怒りが込み上げた。苛立ちを隠すことなくずんずんと男に近付いて胸元のシャツを掴み、上背のある男を下からめ付ける。


「喰い殺してやるから今すぐ外に出ろ。夜はお前だけの領分じゃねーぞ」


「……学ばないな。まぁ、駄犬の方が躾がいはある」


「あ?」とアズライトが眉を寄せたのと、男が鋭い牙でアズライトの唇に噛み付いたのはほぼ同時だった。薄い皮膜を破るようにぷすりと突き刺さった牙が、じわっとアズライトの唇を赤く染める。


「いっ……」


 痛みに顔を歪めたアズライトが一歩後退ると、すかさず男の手が後頭部の髪を鷲掴んで無理矢理に上を向かされる。唇から滲み出たアズライトの血液を男の舌が舐めとり、そのまま容易く口内に滑り込む。


「うっ……、っ……」


 絡めとられた舌にまで噛み付かれ、アズライトは堪らず呻いた。口内に血の味が広がり、唾液とともに口の端から鮮血が垂れ落ちる。血を求めるようにじゅっと音を立てて舌を吸われると、身体がぞわりと慄いた。

 煌々と赤く染まった男の瞳と視線が合うと、捕食者に捕らわれた獲物のように身動きがとれなくなる。ただ後頭部の髪を掴まれているだけで、男にいいように口内を弄ばれ、溢れる血を吸い尽くされていくのが分かった。


 抗えない力の差を本能が理解していても、アズライトの自尊心プライドがそれを許すはずもない。


 苦しげに呼吸を乱すなかで、アズライトは吸血鬼に負けず劣らず強力な犬歯を、ただ捕食のためだけに合わさる男の唇に突き立てた。男の薄い唇からは血が溢れ出し、至近距離で赤い目が鋭く光る。


「──……うっ」


(嘘だろっ……、おいっ)


 呻き声をあげることになったのはアズライトの方だった。一矢報いるつもりで噛み付いたというのに、男は怯むどころか仕返しとばかりに再びアズライトの舌に牙を食い込ませ、その血を吸い上げた。

 更に強く掴まれた髪が、根元から何本か抜け落ちる。自分のものか男のものか分からない血液が喉の奥を流れ、アズライトは吐きそうになった。


 男が手にしていた煙草の灰が、ぽとりと床に落ちる。それが合図のように、血液と混ざり合った唾液が糸を引いて唇が離れた。

 男の冷酷な瞳がアズライトの顔を覗き込み、嘲笑うように口の端を吊り上げる。


「肉を食え。これ以上まずい血を飲ませるな」


 濡れた自身の唇を舌先でなぞって低く言葉を発すると、男は掴んでいたアズライトの髪を解放した。

 痛みで軋んだ首を振り乱し、足元をふらつかせながらアズライトは男から距離をとる。

 まともに息をすることも忘れていたせいか、視界が歪んで息も絶え絶えだ。


 男は何事もなかったかのように煙草を吸うと、トラウザーズのポケットに手を入れてアズライトを見た。


「来いよ。まさか痛くて飯が食えねぇなんて言わないだろうな」

 

「っ……うるせぇ、クソ吸血鬼……つぎ気色悪りぃことしたら殺すっ」


「口だけは達者だな」


 男は鼻先で笑って煙草を咥えると、アズライトに背を向けて食事の匂いが漂い始めた廊下を歩き出す。


 屈辱に満ちた敗北を味わいながら、アズライトは血が滲む唇を手で拭った。



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