喪失の灰狼に愛の手を
宵月碧
前編
駄犬に噛み痕
episode.1
葬送の鐘の音が、死者との別れを惜しむように小高い丘の上に響き渡った。悲しみをのせた儚げな調べが、永遠の眠りについた死者を安らかな旅路へ送り出す。
夜明けの魔女が死んだ。
彼女の歳がいくつであったのかは、誰も知らない。
魔女が死ぬまでの十数年を共に過ごし、最期の瞬間までその傍らに居続けたアズライトでさえ、若く美しい容姿をした魔女の本当の年齢などついぞ知ることはなかった。
千年のときを生きたのか、数百年のときを生きたのか。自分のことを語りたがらなかった魔女を、アズライトは今更になってよく知らないことに気が付いた。
棺の中で瞼を閉じた魔女は、眠っているだけのように見えた。
抜けるような白い肌に、熟した果実のように紅い唇。波打つ金糸の髪は艶やかで、死でさえも夜明けの魔女の美しさを奪えはしないのだと、その穏やかな死に顔を見てアズライトは思う。
眠る魔女の右瞼には、小さなほくろがひとつ。特別な者だけが目にできる彼女のしるし。
「お揃いね、アズ」
アズライトの左瞼のほくろを見付けて微笑む愛しい魔女の声は、今も鮮明に耳に残る。
もう二度と彼女に名前を呼ばれることはないのだと実感した途端、アズライトの琥珀色の瞳から涙が零れ落ちた。
死者を想い弔う涙は、早朝の冷えた風に熱を奪われ、頬をつたって地面を潤す。
葬儀を終えて一人家へと続く道を歩きながら、アズライトは黒いスーツの袖で涙を拭った。慣れないネクタイを外して、上着のポケットに乱暴に押し込む。
教会のある小高い丘を下り、いつも二人で歩いた田舎道を行く。見渡す限りを牧草の緑に埋め尽くされた道は、夜明けの光に照らされて朝露がきらめき、若草の香りが澄んだ空気に溶け込んでいた。
柔らかくそよぐ風が、アズライトの少し癖のある灰色の髪を揺らす。最期くらい紳士的に整えて見せようと思っていた短い髪も、気付けばいつも通り寝癖ごとそのままだ。
アズライトにとっての世界が失われたのに、この世界はいつもと変わらない朝を迎えている。
悔しくてやるせない気持ちが押し寄せて、深い喪失感に襲われた。
「どうして、俺を連れていってくれなかったんだ……シレネ」
──どこへだって、ついて行くのに。
アズライトは、夜明けの魔女の使い魔だ。彼女と契約を交わし、彼女のために生きると決めた獣であり、狼の血をその身に色濃く受け継ぐ人ならざる者。人の姿を持ちながら、狼の姿にもなれる人狼のアズライトは、人の世界でも狼の世界でも弾かれる半端な存在だった。
底知れぬ孤独の中で出逢った美しい魔女は、アズライトに生きる意味を与え、存在への価値を与えた。
彼女はアズライトのすべてだった。
過去には水道橋であったかのような古い石造りのアーチを抜けると、すぐに一軒の大きな屋敷が見える。年季の入った屋敷の壁には蔦が張り付き、背後に生い茂る鬱蒼とした木立が主を喪った屋敷に暗く陰気な影を落としていた。
草木に囲まれた庭先に、魔女が大切に育てていたバラが咲いている。玄関ポーチに置かれたいくつもの植物の名前を、アズライトは知らない。
いずれ枯れ落ちるであろう植物を光のない目で一瞥すると、アズライトは玄関の扉に手をかけた。鍵の閉まっていない扉を開けた瞬間、嗅ぎ慣れない煙の臭いが鼻先を掠める。
「──……シレネ?」
ふと、魔女の名前を口にする。
カーテンで閉ざされた薄暗い屋敷内に視線を走らせ、においの元を探り出す。何者かが屋敷を歩き回った気配が、煙の臭いとともに残っている。
主を亡くした瞬間から光を失った屋敷には、最早アズライト以外は誰も住んでいない。あるはずのない人の気配に心臓が鼓動を速めると、アズライトは玄関ホールから続く階段を見上げて駆け出した。
魔女の寝室に書斎、ドレスルームに、アズライトの部屋。プライベートルームがある二階に足を踏み入れるのは、この屋敷の主人とアズライト、今はもういない使用人だけだ。
「シレネ!」
薄く開いたままになっていた魔女の書斎を勢いよく開け放ち、アズライトは入り口で立ち止まった。
光りの差さない真っ暗な部屋の中に、何者かが存在する。
(……シレネじゃない)
闇を見通すアズライトの瞳は、書斎机に軽く腰掛けている怪しげな男を認めた。暗闇に溶け込み静寂を纏う男は、まるで最初からこの部屋の主人であったかのように、何者をも寄せ付けない空気で存在を主張している。
人とは違う得体の知れない気配がアズライトの獣の本能を刺激し、全身の毛が逆立った。男が自分よりも強者であることを頭よりも身体が先に理解し、警鐘を鳴らしている。
「……誰だ、なぜここにいる」
低く唸るように問いかけると、男は手にしていた小さな箱からマッチ棒を取り出し、無言で火を灯した。
口元に近付けた揺らめく火が男の顔を僅かに照らし、咥えていた煙草から煙が立ちのぼる。
暗闇で赤い火が明滅すると、男の吐き出された息に合わせて煙が宙を舞った。それと同時に不快な臭いが部屋に充満し、アズライトは堪らず顔を歪める。
「遅えんだよ……日が昇っちまったじゃねぇか」
不機嫌そうな低音を部屋に響かせ、男は役目を終えたマッチ棒を机上のグラスへ落とし入れた。夜明けの魔女が好んで使用していたワイングラスには、いつからここに居たのか、煙草の吸い殻が溜まっている。
沸々と怒りがアズライトの中で湧き上がり、隠れていた牙を口の端から覗かせた。
「質問に答えろ、返答次第でお前を殺す」
今にも男の喉元を噛みちぎりたい衝動を抑えて唸るアズライトへと、男は嘲笑するように薄い笑みを浮かべた。
「お前が夜明けの魔女の番犬か。まだガキじゃねぇーか」
見た目と年齢がイコールではない人ならざる者とはいえ、アズライトはその見た目通りまだ二十歳の青年だ。長い歳月を生きる者達にとっては、ヒトの世界の成人など関係ないのだろう。半人前の半端者。十にも満たない歳から魔女に囲い守られ、青臭さの抜けないまま一人残された。
闇のベールに包まれた男は明らかにアズライトより年長であり、隠しきれない強者の余裕と威圧感がそこにはあった。
「ここは魔女の屋敷だ。今すぐ出ていけ」
平静を装いながらもきつく握り締めた拳のなかで、血が滲み出る。
男の口元で再び小さな火が明滅すると、ゆっくりと吐き出された息が白く煙った。
「……それは無理なお願いだ」
男は答えるなり煙草を口に咥え、懐から一枚の紙を取り出してみせる。
「夜明けの魔女から遺言を預かっている。魔女の弔いが終わったのち、魔女の所有物はすべて俺に与えられる。この屋敷は、今日から俺のものになった」
温度のない男の声に、アズライトは耳を疑った。
「い、ごん……」
そんなものが存在することを、アズライトは一度も聞いたことはない。
「嘘だ……シレネはお前なんかに屋敷を渡したりしない」
「嘘だと思うなら確認してみろ」
折り畳まれた一枚の紙がアズライトの足元に飛んでくると、すぐさまそれを拾いあげた。紙を開けば、見覚えのある筆跡が綺麗に並んでいる。文字をなぞるように内容を確認していくうちに、アズライトの指先が震えた。
文章の最後に、夜明けの魔女のサインと血判が押されている。見間違えるはずのない、魔女の名前。魔女の血が本物であれば、それだけで紙に書かれた内容は契約に縛られることになるだろう。
「……ジル・フォード」
遺言書に記された契約者の名前を呟くと、アズライトは紙を顔に押し当てた。ぐしゃりと、手の中で紙が形を変える。
愛しい魔女の残り香が、すべてを雄弁に語っていた。
「分かったか? 夜明けの魔女は死んだ。魔女と交わされた契約は、何者にも拒むことはできない。お前のような魔女の所有物は、尚更だ」
男は淡々とそう口にすると、右手に嵌めていた手袋を外し、自身の指先に牙を突き立てた。ぷつりと空いた穴から、鮮血が溢れ出す。その血が敷き詰められた絨毯の上に垂れ落ちるのを、アズライトはただ呆然と見つめていた。
男の血液が、じわりと絨毯に染みを作る。
たったそれだけで充分だということを、アズライトはよく知っていた。
屋敷全体が、脈打つように大きく揺れる。暗闇に閉ざされていた室内に、ぱっと明かりが灯った。
アズライトが背にしている廊下にもオレンジ色の明かりが満ちると、一階の玄関ホールに置かれた振り子時計がボーンボーンと低い音を鳴らして響き渡る。
主人の帰還を喜ぶかのように、止まっていた屋敷がひとりでに息を吹き返した。
魔女の屋敷が、新たな主人を認めた瞬間だった。
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