あの日の言葉

前編

 社交シーズンが始まったアトゥサリ王国。貴族達はこぞって王都エヴィンに集まり始めていた。

 アトゥサリ王国でもそこそこ伝統のあるグーテンポーフ伯爵家の者達も、他の貴族と同じように社交シーズンは王都の屋敷タウンハウスで過ごしている。

 平民の家が十軒以上入りそうな屋敷。屋内には見栄っ張りの者が見たら喉から手が出る程の見事な調度品が勢揃い。

 グーテンポーフ伯爵家に生まれたら一生楽して遊んで暮らせると誰もが思うだろう。

 実際にその通りで、グーテンポーフ伯爵家当主ヨナスは領地経営もしているが、悠々自適に趣味の狩猟やボードゲームに明け暮れている。また、伯爵夫人ローレライも友人達と演劇やオーケストラを見に行き人生を謳歌している。そして長男ヘルベルトも領地経営を学びつつ、父ヨナスや仲間と一緒に趣味を楽しんで生活していた。次男モーリッツも長男ヘルベルトと同じような生活だ。


 しかし、グーテンポーフ伯爵家三男ヴェルナーだけは違った。

「おいヴェルナー、俺のフォークが落ちた。拾え。おっと、その穢らわしい右手では拾うなよ」

「……承知いたしました」

 ヴェルナーはヘルベルトが落としたフォークを拾おうとし、右手を引っ込めた。


 ヴェルナーの右手の甲には大きな火傷の跡がある。まだ実母と暮らしていた五歳の時に、うっかり熱いミルクをこぼしてしまって出来たものである。


 その時、頭に熱い液体がかかる。

 上品な紅茶の香りがヴェルナーを包むが、熱さでそれどころではない。

「おっと、手が滑った。わざとじゃないんだぜ」

 ニヤニヤと笑うモーリッツ。明らかにわざとヴェルナーに熱い紅茶をかけたのだ。

「……存じ上げております」

 ヴェルナーは感情を殺してそう答え、ヘルベルトが落としたフォークを交換した。

「卑しい血が流れているお前は床に這いつくばるのがお似合いよ」

 ローレライは蔑んだようにヴェルナーを笑っていた。


 ヴェルナー・アーロン・フォン・グーテンポーフ。褐色の髪にムーンストーンのようなグレーの目の少年だ。彼は今年十六歳を迎える彼はグーテンポーフ伯爵家三男だが、ヘルベルトやモーリッツとは母親が違う。

 ヴェルナーの母親はグーテンポーフ伯爵家の使用人だった。ヨナスが手を出した末、ヴェルナーを妊娠してグーテンポーフ伯爵家を追い出されたのだ。


 ヴェルナーの母親は女手一つで彼を育てていた。一応ヨナスが僅かながら金銭的な支援をしていたので、何とか困窮することはなかった。

 しかしヴェルナーが十歳を迎える年、彼の母は病気で亡くなったのだ。

 その後ヴェルナーはグーテンポーフ伯爵家に引き取られた。その際にアーロンというミドルネームが与えられた。

 しかしヨナスはヴェルナーを引き取っただけでその後のフォローは放置。伯爵夫人ローレライや長男ヘルベルト、次男モーリッツはヴェルナーを拒絶し、彼を虐げ使用人のように扱った。


「やはり半分平民の血が流れていると品性が下がりますわね」

「グーテンポーフ伯爵家の人間とはいえ所詮は庶子だな」

 社交界でもヴェルナーの扱いはあまり良いものではない。

 庶子だからという理由で蔑まれてばかりである。

 ヴェルナーは少しでも虐げられたり蔑まれないように、アトゥサリ王国のことや貴族のしきたり、外国語などの学問を独学で勉強した。かかった費用だけはグーテンポーフ伯爵家が負担してくれたのが幸いである。

 しかし周囲からは「庶子だから必死になっている」と馬鹿にされるだけ。

 ヴェルナーの立場が良くなることはなかった。


(僕一人で頑張らないといけない。だけど、僕一人の力ではどうにも出来ない……)

 ヴェルナーは完全に諦めていた。

 夜会などで誰とも交流せず、ただ壁のシミになるか人気ひとけのない庭に逃げるだけ。

 この日も人気ひとけのない庭のガゼボのベンチに腰をかけているヴェルナー。

 その時、何者かが近付いて来ることに気付いた。

 ヴェルナーはその人物を見て、ムーンストーンの目を大きく見開く。


 星の光に染まったようなアッシュブロンドの長い髪、タンザナイトのような紫の目。誰もが見惚れるような美貌を持つ令嬢。


(あのお方は……!)

 ヴェルナーは習ったボウ・アンド・スクレープの動作で令嬢に礼をる。

「今は休憩中なのだから、楽にしてちょうだい」

 クスクスと品良く笑う声が降ってきた。

「……お気遣いありがとうございます。……ヴァレンシュタイン嬢。グーテンポーフ伯爵家三男……ヴェルナー・アーロン・フォン・グーテンポーフです」

 ヴェルナーはゆっくりと姿勢を戻し、令嬢から目を逸らす。

「あら、グーテンポーフ卿はわたくしのことをご存知なのね」

 令嬢はタンザナイトの目を丸くする。

「だって貴女はヴァレンシュタイン筆頭公爵家のご令嬢。おまけに貴女の祖母は先代国王陛下の妹君であららるヒルトラウト王女殿下ではないですか」

「本当によくご存知ね。改めて、ヴァレンシュタイン公爵家長女、フィリーネ・ヒルトラウト・フォン・ヴァレンシュタインよ」

 フィリーネは品良くニコリと微笑む。


 フィリーネ・ヒルトラウト・フォン・ヴァレンシュタイン。ヴァレンシュタイン筆頭公爵家の令嬢で次期当主である。年はヴェルナーと同じ十六歳。フィリーネの母ロスヴィータは社交界の華と言われる程の美貌の持ち主で、彼女も母親そっくりだと社交界で有名である。また、その髪色と目の色は、アトゥサリ王国を治めるハプスブルク王家の特徴だ。彼女は見事に先祖返りである。


「筆頭公爵令嬢であられる貴女が一人で何故なぜこのような所に?」

 ヴェルナーは俯きながら聞いてみた。すると上品な声が返ってくる。

「休憩中だから、一人で肩の力を抜きたいのよ」

「ならば僕はお邪魔ですね。すぐに立ち去りますから」

 俯いたまま、その場を去ろうとするヴェルナー。

「待ってちょうだい」

 フィリーネはそんな彼の右手を掴んだ。

 ヴェルナーは驚いて顔を上げる。


 ヴェルナーのムーンストーンの目が、フィリーネのタンザナイトの目と合う。

 改めて見ると、フィリーネの美貌に引き込まれそうになるヴェルナーである。


 フィリーネはヴェルナーの右手にある火傷の跡を見て、優しげにタンザナイトの目を細める。

わたくし、貴女とずっと話してみたいと思っていたのよ」

 フィリーネはどこか懐かしげな表情をしていた。

(筆頭公爵家の令嬢であられるヴァレンシュタイン嬢が僕に……?)

 ヴェルナーは怪訝そうに首を傾げるだけだった。

「ご存知の通り、僕はグーテンポーフ伯爵家の庶子です。ヴァレンシュタイン嬢に提供出来る話題はありません」

 ヴェルナーは俯き、自嘲気味にため息をつく。

「貴方はアトゥサリ王国の小麦農業で取り扱う肥料について素晴らしい論文をお書きになっているじゃない。そういったお話を聞きたいの」

 フィリーネは興味津々な様子でタンザナイトの目を輝かせている。


 ヴェルナーはグーテンポーフ伯爵家内や社交界で少しでも侮られない為に様々なことを勉強をしていたのだ。小麦栽培肥料に関してもその中の一つである。


「ヴァレンシュタイン公爵家は農業、特に小麦の栽培に特化していることはご存知かしら?」

「ええ。存じ上げております。ですが、僕が学んだり研究したことは大したことでは」

「大したことよ」

 大したことではないと卑下しようとしたヴェルナーを遮るフィリーネ。

 その表情は力強かった。

わたくしは、いえ、ヴァレンシュタイン公爵領は、貴方の知識のお陰で小麦が大豊作だったわ。王家の方から、備蓄に回す小麦を増やすようお達しがあったから、かなり助かったのよ。改めて、お礼を言いたいと思ったの」


 フィリーネは心底嬉しそうに微笑んでいた。

 それはまるで大輪の花が咲いたような笑み。

 タンザナイトの目はキラキラと輝いている。


「……そう仰っていただけて……光栄です」

 ヴェルナーは戸惑いつつも、フィリーネの言葉で色々と報われたような気持ちになった。

 我ながら単純だと思いつつも、喜びがじわじわと胸の内に広がる。

「グーテンポーフ卿、いえ、ヴェルナー様と呼ばせてもらうわね。ヴェルナー様、貴方がグーテンポーフ伯爵家や社交界でどういう扱いを受けているのかは知っているわ」

 一呼吸置き、悪戯っぽい表情になったフィリーネは言葉を続ける。

「ねえ、貴方を蔑んでいる方々を見返したいとは思わないの? 貴方を蔑んでいる方々がとびきり悔しがる姿を見てみたいと思わない?」

 その言葉を聞き、ヴェルナーはピクリと眉を動かした。


 脳裏に浮かぶのはグーテンポーフ伯爵家の異母兄達や継母、そして自身を散々見下していた者達の姿。

(奴らがとびきり悔しがる表情……そんなの……見てみたいに決まっている……!)

 長年の燻っていた心が一気に動き出す感じである。


「ヴェルナー様、もし見てみたいと思うのならば、わたくしの提案に乗ってくださらないかしら?」

 懇願するような表情のフィリーネ。

 それはまるで悪魔の囁きだ。

「……僕は何をしたら良いのですか?」

 ヴェルナーがそう聞くと、次の瞬間フィリーネはとんでもないことを口にした。

「ヴェルナー様にはわたくしの婚約者になってもらうのよ」

 とびきりの笑顔でヴェルナーの両手を握るフィリーネ。

「……え?」

 ヴェルナーは思考停止した。

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