第29話
重い頭で教室へと入る。
昨日も、今日の朝も、僕は透に会いに行かなかった。行けないと思った。
今の気持ちでは、透に心配をかけるだけで、でも話は出来ない。それは、透を騙しているような気持ちだった。騙すも何も、僕たちは始まってもいないのに。
それでも朝はやってきて、時間は過ぎていく。
チャイム前に入室したのに、一歩踏み入れるとクラスメイトが一斉にこちらを見た。
ど、と心臓が重く響くと、彼らはまた一斉に視線を散らした。居づらさも感じながらも、僕はいつも通りに席に着く。
「…え? 姫が、二年の貧乏の人と…?」
ぴく、と耳が反応してしまう。振り返ると、小柄な生徒二人が顔を合わせてこちらを見ていた。目が合うと急いで背中を向けた。
問い詰めようと腰を浮かせるが、そのタイミングで担任が入室してきてしまった。仕方なく腰を下ろし、深く溜め息をついた。
(昨日のことで、もう頭パンクしそうなのに…)
図書室での出来事が、色々尾びれをついて学園を駆け巡っているらしかった。
「彰くんに続いて、姫まで…? やっぱり、あの二人って付き合ってたのかな…」
「別れて、お互い新しい人見つけたってこと?」
「姫もなぜ、あんな庶民に…」
「姫は優しいから…」
「利用されてないかな。心配…」
「彰くんへの当てつけ?」
「それにしても、あの陰キャって…」
「俺が立候補したのに」
「お前は無理」
いろんな野次がひそひそと教室を飛び交っていた。
僕は、ひどく後悔していた。
(きっと、僕の耳に聞こえるってことは、透にはもっと…)
透が、ひどいことを言われていないか。つらい思いをしていないか。
気がかりで手汗が滲んだ。
僕は、自分が思っているよりも学園で有名人らしいということが、よくわかった。もっと、自覚をもって振る舞えば良かった。
そうすれば、透が嫌な思いをすることもなかっただろう。
(僕は、いつも人に迷惑をかけてばかりだ…)
一日堪えていた涙が、帰りのホームルーム間際で盛り上がってきてしまった。
中庭の大きなカエデの木の陰に隠れて食べる一人のお昼ご飯は、味がしなかった。
今日一日、風景から色が抜け落ちているように面白味もなく、輝きもない世界だった。
教室に入れば、嫌でも何かが聞こえる。睨みつけても一瞬だけ終わるだけで、学園内の閉鎖的な状況でのゴシップは生徒たちの格好の餌なのだ。止めることはできない。
(チャイムが鳴ったら、すぐにでもここを出よう)
カバンの紐を握りしめ、いつでも駆け出せる準備をする。こっそりと、目元を拭う。奥歯を噛み締めて時がたつのを待つ。
秒針を見つめ、今か今かと身構える。チャイムがようやく鳴るのと同時に立ち上がると、目の前に壁があった。
視線を上げると、それはもちろん壁ではなく、目を疑った。
「依織」
僕たちを見た周囲はざわついた。久しぶりに二人が会話している、と。
「帰ろ?」
丸い瞳をゆったりと細めた、彰が柔らかい声で僕に話しかけていた。
「あ、…っ、あ」
いきなりのことでなんと返せばいいのかわからずに、ただ口を開閉させて見上げる。そんな僕を見て、彰はくすり、と笑ってから、手首を長い指で握りしめた。その力は非常に強くて、肩があがる。声を出す前に、彰が長い脚で歩き出してしまった。
教室を出て廊下の奥に天使が目の端に映り込み、まずいと離れようと手首を握る指に手をかけ、足を踏ん張ろうとするが、そんなことをお構いなしにする強い力で僕を掴み、どこかへ連れて行こうとしている。
「あ、あき、ら…っ」
絞り出した声は情けないほど細くてかすれていた。
さらさらと風に揺れるねこっ毛の美しいブロンズからは甘やかな匂いがする。
(懐かしい)
ふと思ってしまい、彰との時の流れを感じてしまう。
過去の傍で笑ってくれていた彰が脳内いっぱいになって、僕は彰の手を拒むことができなかった。
本館の階段を下りて、文化棟へと渡り廊下を歩く。校舎に入ってすぐの教室へと二人で足を踏み入れる。湿度が、埃のにおいを強める。ボードゲームが乱雑に机の上に置かれている。ここは、ボードゲーム研究会の部室なのか。
「どうなってるわけ?」
無言だった彰から発せられた声は冷たく鋭かった。一瞬で、握られている手首からぞわ、と嫌なものが走る。反射的に後退ると、ぐい、と引き寄せられる。勢いのまま前の倒れ込むと、彰の胸元に顔をぶつける。すぐさま顔を上げるが、顎を掴まれ目を合わせられてしまう。
「なんで逃げるの?」
じ、と僕を見下ろす瞳は剣呑に光をひそめる。背筋を冷たい汗が伝い落ちる。本能がいけないと警鐘を鳴らしている。
「あ、きらだって…僕を、避けてた…」
けれど、どこかで向き合わないといけないと思っていた。
昨日の出来事も含めて、彰と話し合うにはちょうど良い機会なのかもしれない。
勇気を振り絞って、そう言葉にした。
(本当は…、今のままでも、いい…)
僕の最優先事項は、彼という存在しかいないから。
なけなしの希望をかき集めて口を開いた僕を、彰は、はっ、と笑い捨てた。
「ずっと言ってんじゃん? 依織を守るためだよ」
腰に手を回されて、身体が密着する。高い体温は、昔は落ち着くものだった。
それなのに、今の僕にとっては、得体の知れないものであり、恐怖の対象でしかなかった。
(意味が、わからない…)
いつから、僕たちは、こうなってしまったのだろう。
もう、間に合わないのだろうか。
「あいつを俺に向けておけば、依織には何も危害が及ばないから。兄さんにも、俺たちのことはバレてないから、安心して」
彰は、頬を緩めて、長い指で輪郭を辿るようになぞりながら、うっとりと囁いた。
「バレるも何も…僕たち、友達、だよ、ね…?」
(お願い)
最後の砦だった。
これは、最後の、僕たちが友達に戻れるかもしれない質問だった。
彰は、ぱち、と長い睫毛をはためかせながら瞬きをした。
「俺は、一度も依織はただの友達なんて思ったことなんかない」
がらがらと今までの僕たちの思い出が崩れ落ちていく音が聞こえた。それがあった場所は、真っ暗な底抜けの闇となっている。
「出会ったときから、ずっと、依織を俺のものにしたくてたまらなかった」
まっすぐに僕を見つめる。琥珀の瞳がどれだけ澄んでいて、真摯に訴えかけているかは、焦点の合わなくなったしまった僕の瞳には捕らえることができなかった。
「好きだ、好きだよ、依織」
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