第11話






 じんわりと熱い瞼を持ち上げる。頭が淡くひりつく。重い身体を起すと、バスタオルがかけられていた。

 ふわつく意識のまま、頭を動かす。視線を落とすと、僕の枕をしてくれていた、たくましい腕を見つける。口元を拭うと、端から涎が垂れていて、彼の白いワイシャツにシミをつくっていることに気づいた。

 当の本人は、つややかな黒髪に細い日差しを受けながら、長い睫毛を伏して、すやすやと上品な寝息を立てていた。

 いつも並んだ座るベンチを二つ並べて、その上で僕たちは抱き合って眠りについてしまったらしい。重い意識の中、僕が泣き疲れて眠るまで、必死に慰めの言葉をたくさんつくして、頭を撫で、背中や肩を優しく叩いてくれた彼の思いやりが想起されはじめた。

 窓や屋根を開けているが、ビニールハウスの中は蒸し暑い。隙間から入る風が救いで、頬を撫でると心地よさに目を閉じた。


(ちゃんと、生きてる…)


 それだけで、涙が一筋こぼれた。

 つ、と垂れるそれを、いつの間にか手に握りしめていた青色のタオル地のハンカチで拭こうと俯くと、目の端に何かが現れる。視線をやると、かさついて硬い指先が、僕の涙を掬った。その手から腕、肩、首をたどって、透と目が合う。

 寝ぼけ眼の滲んだ瞳は、優しく垂れさがった眦に細められて、ふふ、と小さく微笑んでいた。


「…っ」


 透が、まぶしかった。

 昼下がりの日差しを浴びて、降り落ちるほこりが星の粉のようにきらめいて、その中心に、朗らかに笑む透がいる。


 その手首に触れると湿った指先が、僕の指先を握りしめて、軽くひっぱった。その力に従って、彼にまた覆いかぶさるように倒れると、服越しで見るよりも断然がっしりとした身体は熱くて、意外と柔らかかった。


「ふふ、依織先輩…」


 抱きしめた彼は、心底嬉しそうに微笑んで、僕の名前を大切に囁いてくれる。

 嬉しくて、涙が滲んだ。


「透…」


 小さく、かすれて震えた声でつぶやく。けど、透はちゃんと拾ってくれて、はい依織先輩、といつも以上に柔らかい声で、頭を撫でてくれる。

 ずっと、心の奥にしまい込んでいた、愛に飢えた、甘えん坊の小さい自分が、こっそり顔を出して、ようやく拠り所を見つけられたようだった。

 柔らかい胸板に頬ずりをして、涙を彼のシャツに吸わせる。きっと、心地悪いだろうに、彼はより笑みを深めた。


「今、何時…?」


 僕の頭を撫でている彼の右手を捕まえて、目の前にひっぱる。黒いデジタル時計が、帰りのホームルームの時間であることを教えてくれた。そのまま、その腕を抱きしめると、硬い手のひらが僕の頬を撫でた.。


「良かった、もう泣いてない」


 つむじに温かな吐息が触れて、頬を親指が撫でて離れていった。彼の熱が下がっていった寂しさに、また胸元に顔をすりつけて、目の前の大きな身体に抱き着く。彼の少し早い鼓動と、吸って吐いてを繰り返す呼吸音が聞こえる。


(気持ちいい…)


 人肌が、こんなにも落ち着くだなんて知らなかった。今まで、人と触れ合ったことがないから、余計に驚く。けれど、大きく感情が動かせるほど、まだ身体も心も力が足りなかった。


「授業…さぼらせちゃったね」


 彼を、自分のわがままに付き合わせてしまったことは多いに罪悪感を得ている。ごめんね、と付け加えると、下にある身体が大きく息を吸った。


「僕、生まれてはじめてさぼりってものを経験しました!」


 ありがとうございます! と礼まで告げてきた。どういうこと、と訝し気に顔をあげると、健康的に赤い頬で、にっこりと笑っていた。その目は、きらきらと輝いてさえ見えた。


「みんなが授業受けているだろうに、依織先輩と二人っきりで過ごすって…なんだか、わくわくしました」


 へへ、と笑う透は、一回り以上大きい身体なのに、きちんと年下の無邪気さのある表情だった。


「僕も、はじめて、さぼった…」


 今まで、高校卒業がゴールだから、それまでの毎時間を大切にしてくて、授業は欠かさず出ていた。

 じわじわと後悔が募る。


(透を巻き込んで、何やってるんだろう…)


 情緒不安定な僕に付き合って、真面目で誠実な透をさぼらせてしまった。

 透のことだ、授業だってきちんと受けている優等生なのだろう。同じクラスの生徒たちに余計なことを言われてしまうかもしれない。真面目な彼は、そういうことを気にしそうだ。


「ごめんね」


 改めて、透に謝った。なんて自分が情けないんだと痛感する。

 すると、いきなり、両頬を包まれて、上を向かされる。ぱち、とまばたきをすると、透が真剣な瞳でまっすぐ僕を見つめていた。それから、くしゃりと笑う。


「こんな経験、依織先輩がいなかったらできませんでした。ありがとうございます」

「でも…っ」


 透は、穏やかに微笑みながら、僕の言葉を待っていた。その間に、大きな手のひらで頬を撫でたり、長い指先で髪を梳かれたりする。そうすると、心地よくて、変な肩の力がどんどんほぐされていく。だんだん、どうでもよくなってきた。


「ううん、…ありがとう」


 きっと、全部見透かされている。それでも、透は、僕と一緒にさぼれてわくわくしたと笑ってくれた。

 純真な透の、その言葉を信じようと思う。

 だから、ありがとう、という言葉が、するり、と口から出た。


「そう言われると、くすぐったいです」


 さらに、くすくすと笑う透は、ずっと楽しそうだった。

 何が楽しいのかわからない。けれど、彼の言葉が本当ならば、僕といるだけで楽しい、のだろう。

 彼の笑顔を見ていると、彼の言葉のすべてが、本当なのだと思えてくる。

 途端に、きゅう、と喉の奥が絞られて、動悸が速まる。泣き出しそうなのに、スキップをしたい高揚した気持ちでもある。


(なんだろう、これ…)


 そわそわするこの感情を、なんと言うのだろう。


『好きです』


 脳内に、必死に僕を抱きしめて、そう訴えた透の言葉が響き渡る。

 ぐわ、と一気に血の気が巡る。指先まで熱くなって、震えている。呼吸をすると、彼の日向の香りが漂う。それに脳がふわり、と軽くなる。その奥にある、芳醇な香りを味わってしまうと、身体の芯から重くなる。


(そうか、僕…)


 自分の感情に気づいてしまう。

 見上げると、透は相変わらず穏やかに笑って僕を見つめていた。目が合うと、余計に心拍数が上がり、呼吸も浅くなってしまう。


「依織先輩?」


 様子がおかしいことに気づかれてしまい、透が声を潜めて名前を呼んでくる。それだけで、嬉しくて、脳の奥がじん、と甘く痺れた。涙で視界が滲んでいる。前髪を耳にかけるように梳かれ、上目で彼を見やると、少しだけ瞠目していた。急いで視線を反らして、身体を起した。


「荷物、取りに行かないと…」

「そ、そうですね」


 急に身を固くした僕につられてか、彼もぎくしゃくとしながら立ち上がった。






 教室が落ち着いたであろう頃に、僕たちは一緒に秘密基地を出た。二年生の校舎は一番遠い奥まった場所にあるため、先に、三年生の教室がある本館にたどり着き、後で落ち合うことを約束した別れた。その間も、心臓が痛くて、目を合わせることができなかった。去っていく彼の広い背中を、階段の小さい窓から見えなくなるまで見つめた。

 気づいてほしいような、ほしくないような。けれど、透の瞳に自分しか映っていないことを確認したくてたまらなくなる。

 この気持ちが、何なのか。人間関係にうとい僕は、気づいてしまった。


 浮遊感に見舞われながら、教室にたどり着く。ドアノブに手をかけた時に、現実に戻る。


(もし、彰がいたら…)


 どうしよう。

 なんて言えばいいんだろう。


 別に、おめでとう、とか、教えてくれたら良かったのに、とか、友達としての言葉を募ればいいのだ。けれど、素直にそれが、笑顔で出来ない。なぜか、自分でもわからなかった。

 こんなに複雑な感情になるのは、彰が、小さいときから近くにいすぎたからだ。

 でも、もう、大丈夫。

 そんな気がする。

 なぜなら、僕には…。


 心の中にふと浮かんだ、あの笑顔を胸に、ドアを引く。中は、がらん、と静かで誰もいなかった。

 僕の荷物は、いつものように机の横にかかっていた。


(よかった…)


 少しの寂しさを感じながらも、僕は自分のカバンを手にする。

 本当は、少し、期待をしていた。

 彰が待っていてくれて、昼間のことを説明してくれたり、心配してくれたりしていることを。

 けれど、それもなくて、嬉しいような、寂しいような感情が、ぐるり、と身体を巡る。けれど、教室に刺す夕日を見つめると、じんわりと身体が温まるように、そんなことも流れていった。

 ふ、とついた吐息が、やけに熱かった。




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