第2話






 毎日の平穏から抜け出せずに、僕はふとした漠然とした黒い靄に包まれながら呼吸をするだけの生活だった。



 変動があったのは、葉桜が日差しを喜ぶ時期だった。


 図書室でテストに向けて勉強をする。生徒会活動のため遅れる彰を待つ、ただの時間つぶし。

 僕は受験をしない。だから、勉強なんて必要ない。それでも、暇つぶしだと言いながら、勉強をする僕は、まだ、何かを捨てられないのだと思う。

 そう考えて、溜め息をもらしていると、スマートホンが静かに振動する。内容は彰からのもので、もうすぐ終わるから昇降口で待ち合わせようという内容だった。生徒会室まで行こうかと提案するか悩んだが、以前、気を利かしたつもりと好奇心で迎えに行ったら、怜雅にいつものようになんだかんだと絡まれてしまい、彰が不機嫌になってしまった。それ以降、僕は生徒会室に近づくのを止めた。


(僕にとって、彰は大切な人だから…)


 嫌な思いはしてほしくない。

 大切な友達だから、いつも隣で笑っていてほしい。


 どんなに不安になっても、彰がいつも隣で笑いかけてくれた。

 彰は僕にとっての、太陽のような存在だった。彰がいれば、僕も笑っていいのだと思えて、自然と口角があがる。

 すっかり人がいなくなってしまった図書室を抜けて、渡り廊下を歩く。オレンジ色の日差しが差し込んできて、随分と日が伸びたのだと実感する。深呼吸をすると、青々とした自然の匂いがした。ざ、と風が吹くと心地よくて目を細める。さらりと頬を撫でられると気分が良くて、早く彰に会いたくなった。







「ねえ、彰」


 人の少なくなった、昇降口前の廊下を歩いていると、声が聞こえた。呼ばれた名前に足が止まる。


「僕、もう待てない」


 タイミングを逃してしまい、立ち聞きしてしまうことになってしまった。声をかけることも、逃げることも、なんだかできなかった。

 声の方に視線をやると、下駄箱越しに、彰の背中が見た。その目の前には、彰の親衛隊なるものの隊長をしている子だった。確か、同い年のオメガの子。瞳が大きくて、色素が薄く、小柄で愛くるしい見た目をした庇護欲をそそられる、とても人気のある生徒だった。彼が彰のことを大変慕っているのは、隣にいつもいる僕は知っていた。彰を見つけると嬉しそうに瞳を輝かせて声をかけて、頬を染めながら必死に話しかける健気さが愛おしいと思っていた。けれど、彼が時節見せる、僕への視線は冷たく鋭いものだった。

 彼は、彰の手首に細い指をかけて、上目で頬を赤くしている。


「僕、ずっと彰のことだけが、好きだよ」


 あ、と思った時には遅くて。

 僕は足音を消して、来た道を戻った。







(あ、上履きのままだ…)


 気づけば、渡り廊下から外に出て、いつもの帰り道を歩いているはずが反対の方向へと歩いてきてしまっていた。ローファーに履き替えもせずに。


(だって、ローファーは下駄箱だったから…)


 先ほどの光景が脳裏にこびりついて離れない。

 チワワのような潤んだ瞳を長い睫毛で伏せて隠してしまった彼は、小さな身体をめいっぱい背伸びをさせて、顔を寄せた。


(あれは…)


 キス、だ。

 彰が、オメガとキスをしていた。


(だからか)


 彼に向けられた視線の鋭さは、大好きな人と一緒にいたいのに僕が邪魔だったから向けてきた敵意だったのか。

 肩にかけていたスクールバックの紐を、握りしめた。


(教えてくれても、いいじゃないか…)


 付き合っている人がいるなら、教えてほしかった。


 喉の奥が、苦いような酸っぱいような味がして、胸が重くて、とにかく不快だった。頭もつんと痛むようで、眉間に皺を寄せてしまう。

 大好きで、大切な人である彰に、教えてもらえなかったせいなのだ。この寂寥感は。

 さらに、いつもの不安な黒い靄が大きく背中にのしかかってきて、立ち止まっていたら、全てのみ込まれてしまいそうな気がして、急いで足を進めた。とにかく、どこか、誰かいる場所に行かないと。飲み込まれてしまう。僕が、僕であるために、大切な何かを失ってしまう。

 広い学園の、知らない道を必死にかき分けていく。

 こめかみを冷たい汗がつたって、息があがる。いつの間にか走っていた僕は、足がもつれて、土の上で派手に転んでしまった。

 すぐに立ち上がって、寮の自室に帰りたいのに、身体が動かない。息がうまく吸えずに、視界がぼやけていく。頬を小さな砂利がこすれて、ずきりと鈍く痛む。


(僕だけ…)


 僕だけが、取り残されている。

 ずっと隣にいた彰も、もうキスをする相手がいて、思い合うような相手がいる。ずっと先に大人になっていた。

 寂しさと同時に、羨望も強く生まれている。

 自由に好きになれて、いいな、と。


 昔からある、おとぎ話では、お姫様には、好きになる王子様がいた。二人は相思相愛になって、手を取りながらキスをする。

 オメガである僕には、そんなアルファの相手がいつかできるのだと、何も知らない幼き頃は夢を見ていた。

 でも、僕には自由に恋愛をすることはできない。

 なぜなら、僕はオメガだから。


(なんで、生きているんだろう…)


 涙がだらだらと溢れて、土に沁み込んでいく。





 ふわり、と温かで柔らかいものに包まれた。

 優しくて温かい、おひさまの匂いがする。けれど、その奥に果実のような甘い魅惑的な香りがする。


「大丈夫ですか?」


 匂い通りの柔らかく、ゆったりと響く声がする。

 震える睫毛を持ち上げると、きらきらと光る宝石が見えた。何度かまばたきをしていると、それは瞳であることがわかって、優しく眦の下がった青年が眉根を寄せて僕を見下ろしていた。


「大丈夫ですか?」


 もう一度、声をかけられて、だんだんと意識が明瞭になっていく。

 目の前の青年に僕は抱きかかえられていた。


「あ…」


 初めて出会う人に抱き起されていて、すぐに逃げるべきだ。

 青年の肩を押すと、ジャージ越しでもわかる硬さで、びくともしなかった。それは、彼の身体が強いからなのか、僕の腕に力が入っていなかったからなのか。

 視線をあげると、夕焼けを浴びて淡く翡翠に輝くような瞳が、心配そうに揺れていた。


「どこか打ってませんか?」


 初対面にも関わらず、彼はただただ、僕を心配してくれているようだった。


 それが、今の僕には、とてつもなく、沁みた。


 大切な人が知らない世界を持ち、僕を置いて行ってしまったことも、未来への虚無感も、何もかもが彼の瞳を見ていると、溶け落ちていくようで、とろりと垂れるはちみつのように僕の心に沁み渡り、ほどけていく。

 目の前の広い胸元に額をつけて、くしゃりとジャージを握りしめた。彼は、どきり、と身体を硬直させたが、小さく嗚咽をもらしながら泣きじゃくる僕を見て、しばらくしてから、大きな手のひらで肩をゆったりと叩いてくれた。


 そうして、僕と彼は出会った。

 黄昏時に染まる、立夏の前で。






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