【エッセイ】ありきたりな夕焼け論

ヶ浦

マリモ


 幼稚園生だった頃にマリモを飼っていた。


 もとは兄の友人が北海道旅行で買ってきたお土産で、最初は兄がもらったものだ。

 しかし、これといった使い道もなかったからか、お前にやるよと譲ってくれたのがガラスの小瓶に入ったマリモだった。


 このマリモは本物ではない。フェルトを丸めただけのお土産用レプリカである。


 私は、純粋無垢な少年だった。大げさに言い換えるならば、世の中の理というものを知らなさ過ぎた。


 「公園にあるドングリを集めては道路にばらまいて、走ってくる車のタイヤがブチブチと非日常な音を立てるのを聞いて悦に浸る」という遊びにドハマリくらいには善悪の判断もつかない少年だったのだ。こう冷静に思い返してみると、極めて純度の高い邪悪を纏ったクソガキである。


 とにかく、そんなピュアな男児だった私には、兄のくれたマリモが作りものなんて事実を知る由もなかった。だからマリモを譲り受けた私は、たいそう大事に育てた。


 それに、当時私の家庭では金魚を飼っており、水槽には水草もあった。この“マリモ”なるスーモくんの残滓みたいなやつも、水草の仲間なんだろうなと当時の私は考えた。


 そんな状況で出会ったのだ。繰り返すが、私はマリモを大事に育てた。


 当時の私は好奇心の塊だった。目に映るものすべてが新鮮で、面白い。森羅万象が確変に突入していた。

 マリモなんて、もはや恰好の的でしかなかった。なんだこの丸い緑の物体は、こんなものが北海道では有名なのか、そもそもこいつは生きているのか、生きているのなら何を食べているのか――面白くないわけがなかった。

 そんなわけで、このガラス瓶にたゆたう緑の真ん丸にひどく執心したのも無理はなかった。


 以降私は、好奇心の赴くままに成長記録を付け始めた。これがまた謎に火が付き、飽き性の私がかれこれ3か月ほど続けることになる。


 その執着ぶりは相当なもので、ある日は日の当たる場所においたり、日陰に移したり、水を入れ替えたり、温度を測ったり…私が何をしてマリモがどういう様子かを事細かに記録した。


 しかし、マリモは変化を見せなかった。時にはマリモのご機嫌を伺うべく対話を図りながら、あーだこーだ工夫しながらも続いた。


 皮肉なことに、マリモに大きな変化が見られなかったからこそ、成長観察日記は続いた。こいつが普通の成長を見せてくれれば、「まあこんなもんだよな」と、成長記録をつけ続けることはなかったはずなのだ。

 ところが想像通りにいかないものだから、「どうすればマリモが育つのか」とついた好奇の火を消すことができなかった。


 その間ずっと、私の苦心ぶりを知ってか知らずかマリモは水中を漂うだけだった。当然である。生きていないのだから。



 そんなマリモと私との日々だったが、ある日突然終わりを迎えることになる。


 ドラえもん44巻の中の、「ハワイがやってくる」にてしずかちゃんこと源しずかが衝撃の事実告げたのだ。


 詳しい話は省くが、話の冒頭にて、「阿寒湖のお土産にマリモを買ってきた」と報告するしずかちゃんに出木杉君が「マリモを育てることは法律上とってもいけないこと」というのをマジトーンで説教、それに対ししずかちゃんは「マリモのお土産は作り物だから大丈夫だよ~」と釈明するという一幕がある。


 単なる話の導入、起承転結の『起』である。

 しかしながら、このシーンを目にした時の私はそれどころではなかった。当然だ。ドラえもんを楽しく読んでいたら唐突にペットだと思っていたものが雲散霧消したのだから。


 あの話を読み終えて私は泣いた。泣き所が微塵もないあの話で泣いた。その話ではジャイアンが鍾乳洞の石灰石をちぎって持ち帰るという洒落にならない犯罪に走っていたりもするのだが、そんなことはもはやどうでもよかった。

 怒り、悲しみ、無力感、徒労感、虚脱感、そして羞恥心――ありとあらゆる感情が一気に押し寄せてきて、私は涙を流した。


 あの瞬間、私は〈やるせない〉という感情を覚えた。当時幼稚園生なわけだから、それにしては大きな一歩だったと思う。



 その日から、私はマリモの成長を記録するのをやめた。話しかけることも気にかけることも、馬鹿らしくなってやめてしまった。

 こうして私とマリモとの二人三脚は、悲惨な幕切れを辿ったのだ。



 ただ、一つ言わせてほしい。マリモは作りものだったのではない。

 あの話を読むまでは、マリモは生きていた。


 あの二人が、源しずかと出木杉英才こそがマリモを殺した張本人なのだ。忘れもしない、あの44巻、あのページで、二人が私のマリモに宿る生命の灯を無情にも吹き消したのだ。


 正論とは振りかざせばよいというものでもない。現にその正論で私のマリモは緑の糸くずに書き換えられた。この世には、しずかちゃんと出木杉くんに論破されて人知れず心に傷を負った人間だっているのだ。



 以来、しずかちゃんと出木杉だけはどうにも好きになれないでいる、という話である。完全に逆恨みなのだけれど。

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