第44話
ぐったりした紗英が受話器を置いたとき、フロアに本部長と悠司が戻ってきた。
悠司は手に封筒を持っている。
詳しい事情を知るため、社員たちは悠司と本部長の周りに集まった。もちろん紗英も加わる。
悠司は朗々とした声を出す。
「みんな、朝からご苦労だった。もうすでに大体のことはわかっていると思うが、伊豆の施設が売却されると書かれた手紙が、契約したお客様に郵送されたのが今回の騒ぎの発端のようだ。そこから会社が倒産するのではないかとか、土地が競売にかけられたなどの憶測が飛び回ってしまったらしい」
誰かが深い息を吐いた気配が伝わる。
紗英も顧客から、あらゆる憶測を聞いていた。
伊豆は立地がよく豪華な設備のため、施設の契約金は一千万円ほどだ。中には自宅を売却して、そのお金を施設の契約金にあてる顧客もいる。お客様は人生がかかっているため、突然施設に入所できないなどと言われたら、狼狽するのは当然だ。
悠司は手にしていた封筒から一枚の白い紙を取り出した。それを広げて、みんなに見えるように掲げる。
「それがこの手紙というか、文書だな。お客様からお借りしたものだ。おそらく同じものが伊豆の契約者全員に届けられている」
社員たちは身を乗り出して、文書を見た。
確かに丁寧な言葉で、伊豆の施設が売却されること、入所が不可能になったため解約を促すことなどが書かれている。しかも差出人は、株式会社ベストシニアライフと、はっきり印字されていた。パソコンで作成した文書なので、誰にでも作れるようなものだ。
だがもちろんそんな文書を誰も作成しているはずがない。
みんなは訝しげに首を捻っていた。
悠司は言葉を継ぐ。
「土地の所有者と連絡が取れたが、土地の売却や競売の事実はない。土地の賃貸契約は問題なく守られている。また、ベストシニアライフが倒産の危機にあるなどといったことは事実無根だ。無論、伊豆の施設が売却されることはない。この文書は根も葉もないデタラメである」
それを聞いた紗英は、ほっとした。やはり、事実無根のことだったのだ。
社員の間からも、安堵の息が漏れる。
咳払いをした本部長は、社員たちを見回した。
「つまりね、何者かがこの文書を作って、わざわざお客様に配布し、我々を陥れようとしたというわけだ。おそらくライバル会社の仕業ではないかと思うが、なぜうちの顧客情報を知っていたのかという疑問が残る。まさか、きみたちの中に――」
本部長は、紗英たちの中に情報を売り渡したスパイがいると疑っているのだ。
そのとき、木村が大声を出した。
「わたし、海東さんがその手紙を作成してるところ、見ました!」
「えっ……?」
突然名指しされた紗英は、呆然とする。
紗英にはまったく覚えのないことだ。なぜ伊豆の担当者である紗英が、自社を混乱させるような所業をしなければならないのか。
木村は紗英が手紙を作成しているところを見たというが、そんなものを作ったことはない。
みんなの視線が訝しげに動く中、木村は紗英のデスクへ飛びつくようにして、マウスを掴む。
「もしかして、データが残ってるんじゃないですか? ……ほら、あった! これですよ!」
勝手に紗英のパソコンを操作した木村は、勝ち誇ったように叫んだ。
紗英や悠司、そのほかの社員や本部長が、紗英のパソコンを覗き込む。
そこには、画面の中央に『一』というタイトルがついたデータファイルが置いてあった。木村がどこからか移動させたのだろうが、先ほどまではなかったファイルだ。
それを木村がクリックすると、悠司が見せた文書とまったく同じものが現れた。
「えっ⁉」
紗英は驚きの声を上げた。
顧客に郵送された文書は、このデータを印刷したものと言える。寸分も違わない内容である。
木村が眉を下げながらも、笑いをこらえきれないように唇を歪めて、紗英に詰め寄る。
「海東さん、どうしてこんなことするんですか⁉ イタズラでは済まされませんよ!」
「わ、私は知りません。このファイルに見覚えすらありません」
「でも、こうして海東さんのパソコンから見つかったじゃないですか。しかも隠すように、地方の施設のフォルダに入ってました。言い逃れできませんよ」
ざわざわと、社員たちの間に不穏なざわめきが広がる。
険しい顔をした本部長が、紗英に問い質した。
「海東さん。どういうことかね?」
「本当に知らないんです。信じてください」
どうしてこんなものが紗英のパソコンにあるのだろう。
堂々と文書が表示されているのは、紗英が犯人であると証明しているようだ。
紗英は必死になって無実を訴えた。
「さっきまでファイルがあることすら知りませんでした。私が会社の不利益になるようなことをするはずがありません」
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