第12話

 彼から与えられた快感や、肌を合わせた感触が、こびりついて離れない。

 ベッドで横になっていると、彼の愛撫を思い出して体が疼いてしまいそうになるので、あえてエプロンをして料理にいそしむ。

 だが、ぼんやりして野菜炒めを焦がしてしまった。

「あああ……なにやってるの、私ったら……」

 そのとき、スマホが着信音を鳴らした。

 びくりとした紗英は慌ててスマホに飛びつく。

「もしもし⁉」

 だが聞こえてきた声は、悠司のものではなかった。

『あー紗英? あのさあ、部屋に俺の荷物とかあるじゃん。それ、まとめて持ってきてほしいんだけど』

「……え。あ、あー……」

 別れた元カレの雅憲だった。

 あんな男のことなんて、すっかり忘れていた。誰だっけ?と、一瞬思ってしまったくらいだ。

 考えてみれば、悠司が紗英に連絡するわけはなかった。

 個人的なアドレスや番号を交換していないのだから。

 うっかり悠司かと思って、跳ねた鼓動は急速に冷える。

 どうして悠司から連絡が来るなんて思ってしまったのだろう。

 呆然としていると、スマホから耳障りな声が鳴った。

『なあ、聞いてんの?』

「聞いてるわよ。というか、あなたのほうから『もう連絡するな』って言ってきたくせに、なんで電話してくるの?」

『うるせーな。いいから荷物もってこいよ。駅近くのカフェあるだろ? 十分後に、そこの前でな』

「わかったわ。うちの合い鍵は、そのときに返してね」

 プツッと一方的に通話は切られた。

 置いていった私物をわざわざ持ってこいだなんて腹が立つが、どうせこれきりなのだから仕方ない。自分で取りに来る勇気もない男だとわかっていた。

「なんで、あんな男と付き合ってたんだっけ?」

 つい、おとといまでは一応は恋人だったはずなのに、もう思い出せないほど元カレの印象が薄くなっていた。

 紗英は元カレが置いていた下着や靴下などの着替え、洗面用具やDVDを不織布のバッグに詰め込むと、エプロンを外した。スマホと財布だけを持って、不織布のバッグを抱える。

 駅近くのカフェはアパートから歩いて五分程度だ。

 指定された場所へ行くと、雅憲はすでに煙草をふかして待っていた。なぜか居心地悪そうに、体を揺らしている。

 別れた相手に会うのが気まずいのもわかるが、だったらわざわざ呼び出さないでほしい。私物には金品は含まれていないが、捨てられるのは惜しいのだろう。

 溜息をついた紗英は、彼の傍へ行くと、不織布のバッグを差し出した。

「はい、これ」

 元々ショッピングバッグなので、返してもらわなくてもよいものだ。これ以上、彼と貸し借りを作るわけにはいかない。

「おう」

 紗英を見ようともしない雅憲は、バッグを引ったくるように受け取ると、くわえ煙草をしながらファスナーを開けて中身をあらためた。

 そんなに重要な品物はないと思うが、紗英に持ってこさせた上に中身を確認するなんて、この男のいじましさが現れている気がした。

 この男を好きだと思ったことなんて、一度もない。

 言い寄られたので、相手が紗英を好きなのだと勘違いしていただけだ。

 でも彼は紗英を都合よく利用していただけだったのだと、今ならわかる。紗英の家に入り浸り、飯を作らせ、金をせびるという彼のやり方がそれを証明していた。

 無表情の紗英は男に手を差し出す。

「合い鍵、返してよ」

「あ? 忘れた。今度な」

「はあ? 今度って、いつ?」

「うるせーな。じゃあな」

 ファスナーを閉じた雅憲は、さっさと去ろうとする。

 その背に、「郵便で送って!」と言うと、雅憲は火の点いたままの煙草を道端に投げ捨てた。答えになっていないが、紗英に指図されたのが気に食わないようだ。

 彼は道路脇に待機していた車に乗り込む。

 雅憲は車を持っていないので、助手席に乗っていた。

 赤い軽自動車の運転席には、髪の長い女性の姿が見えた。おそらくあれが浮気相手で、今の彼女なのだろう。

 軽自動車はウィンカーも上げずに、急スピードを出して去っていった。

 深い溜息をついた紗英は、道端に捨てられた煙草を靴裏で踏み潰して火を消す。それを拾い上げると、家まで持って帰ってゴミ箱に捨てた。

 どこまでも紗英の手を煩わせる雅憲に、沸々とした怒りが湧く。

 もう二度とかかわりたくない。クズ男と付き合っていると、自分もクズになっていく気がする。粗暴な雅憲と話しているときの紗英は、荒っぽい口調になっていた。

 ふと部屋を見回して、元カレの荷物がなくなったことに、幾分すっきりする。

 だが、ベッドを見た紗英は愕然とした。

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