34

 地下ダンジョンの床が、鈍く響く音を立てて崩れ落ちた。

 古びた魔法建築では、決して珍しい事ではない。

 どれほど高貴な天使たちが鍛え上げた構造物とて、数千年もの時の流れには抗えない。魔力の籠った建材も、それを繋ぎ合わせる謎技術も、朽ち果てるときはいずれ訪れる。


 対策がないわけではない。

 進行中に魔力探知を用い、建材の脆弱さを事前に見抜く術も存在する。しかし、それを使いこなせる者は高度な魔法使いに限られている。私もまた、その技量には達していなかった。


 真下へと続く暗闇が、ぽっかりと口を開け、私たちを無慈悲に飲み込む。

 重力が身体を引きずり落とし、浮遊感とも墜落感ともつかない感覚が、胸の奥をじりじりと焼く。

 見渡す限り、底は見えない。ただ、確実に、地面は私たちに迫りつつある。


 このままでは、押し潰される。

 瞬間、私は意識を集中し、風の魔法を発動させた。

 逆巻く風が下から吹き上がり、落下の勢いをいくらか押し戻す。


 だが、わずかばかりの抵抗に過ぎない。

 魔力探知で探った感覚では、底がじりじりと近づいてきている。

 このままでは、到底間に合わない。


 私は小さく息を呑み、決意する。

 腰に下げた銀の水筒に手を伸ばし、それを真下に向かって力任せに投げつけた。


「ミズハ――膨らんで!」


 水筒は鋭い音を立てて砕け、割れた破片の中から、薄く色付いた透明なスライムが飛び出した。

 正直ミズハに言葉が通じるか不安だったが、意外にもきちんと理解していた。私の指令を。

 ためらうことなく、ぐんぐんと体を膨らませ、たちまち私たちの真下一面に広がっていく。


 ぽよん、と柔らかな衝撃が身体を包み、弾むような反発が全身を押し返した。

 一度、二度、三度。私たちはぽよんぽよんと跳ねながら、徐々に落下の勢いを失っていく。

 そして、やがて静かに、柔らかな弾力の上に受け止められた。


 私は息を整えながら、ミズハをぽんぽんと撫でた。

「ありがとう、ミズハ。」

 応えるように、ミズハはくるくると体を縮め、やがて掌に載るほど小さくなった。


「……た、助かったのか?」

 アイザが周囲を見回しながら、ふらふらと立ち上がった。

 他の仲間たちも、驚きと安堵の入り混じった顔で互いを見やり、無事を確かめ合う。


「お前のスライム、すごいな……ミズハ、だったか?御陰で助かった。」

 ジズがしみじみと呟き、私は小さく頷いた。


「はい。ですが……」

 私は顔を上げ、周囲に目を凝らす。

 ここが、どこかを知るために。


 落下する前にいたダンジョンの階層とは、明らかに様相が異なっている。

 壁も天井も高く、奇妙な鉱石のような材質がうっすらと自ら光を放っている。

 相変わらず謎の建材のお陰で仄かな光に包まれてはいるが、遠くまで見渡せるほどではない。


 だが、なにより違っていたのは、空気そのものだった。

 重々しく、冷たく、まるで時間さえも凍りついたかのような静寂。

 そこに自分達の呼吸と心拍だけが響き、静かに木霊する。


「こんな場所が、ダンジョンの中に隠されていたなんて……聞いたことがない。」

 リリカが呟き、ジズは黙って首を横に振った。

「……そもそも見つけたとて、帰って来なければ報告もできないだろうしな。」

 誰かがそう言った瞬間、空気がぴたりと凍りついた。

 口に出してしまったことで、最悪の未来が現実味を帯びる。


「……考え込んでいても始まらない。」

 アイザが、低く、しかし確かな声で告げた。

 その声音には、わずかに震えがあった。


「まずは、脱出経路を探す。ジズは装備の確認。リリカは食料を。ミーゼは健康状態のチェックを頼む。ミストは周囲を魔力探知で見てくれ。」

 皆は頷き、各々の役目を果たしていく。

 私もまた、目を閉じて己の仕事を始めた。再び魔力に意識を集中し、周囲へと放つ。

 魔力の波は静かに広がり、微かな痕跡を拾い集める。


「……魔物はいません。ただ、所々に魔力の残響があります。罠か、あるいは、魔物の生活痕かと。」

「なら、今のうちだ。魔物が出る前に移動しよう。」

 アイザは短く応じた。

 その声は冷静だったが、無理に押さえ込んだ緊張が滲んでいる。


 彼だけではない。

 ジズも、リリカも、ミーゼも、皆恐れていた。

 それでも、リーダーであるアイザだけは、震える心を必死に押し隠していた。

 私たちが、彼を見て、勇気を振り絞れるように。


 この奇妙な、未知の空間の中で。

 わずかな光を頼りに、私たちは歩みを進めるしかなかった。


 ---


 カツ、カツ、と足音が石畳に響く。

 その音の広がり具合からして、この空間は途方もなく広いらしい。

 漂う魔力は、ただ濃いだけではない。湿り気を帯び、まるで空気そのものが重く圧し掛かってくるようだった。


 歩き続けて、どれほど時間が経っただろうか。

 曲がり角や分岐路こそあるものの、出口らしき気配は一向に見えない。


「……あんな小さな初心者向けダンジョンの地下が、こんなに広いなんて聞いてないぞ。落下したときも、随分深かったし。」

 アイザが低く呟いた。

 声を発した直後、その響きが妙にくぐもった反響となって返ってくる。

 空気が、少しずつ淀んでいるのだ。


「……ここは本当に、あのダンジョンなのかしら。」


 ミーゼが、怯えた声で言った。

 彼女の顔には、不安と恐怖が色濃く滲んでいる。

 その様子に、ジズは苛立ちを隠さず、やや強い口調で返した。


「ミーゼ、何が言いたい。」

 問い詰められたミーゼは、びくりと肩を震わせ、俯いて黙り込む。

 しかし、彼女の言いたいことは誰もが分かっていた。ここにいる全員が、心の奥底で理解している。

 理解した上で、あえて口にする勇気が持てないだけ。


 ――そもそも、出口は存在するのか?


 この途方もない迷宮に、果たして「地上へ繋がる道」などあるのだろうか。

 私たちは、上層から偶然迷い込んだにすぎない。

 地続きの出入り口がない閉じた空間なら、永久にここから脱出できない可能性もある。

 一生、この暗く重苦しい空間で生き延びるしかない――そんな悪夢のような未来が、現実味を帯びて胸を締め付けた。


 もちろん、落下してきた地点へ戻ることも考えた。正直自分1人を浮かすだけなら何とでもなる。

だが、風魔法で皆を連れて行くにはあまりに高度がありすぎる上、上から降ってきた瓦礫でしっかり塞がってしまったようだ。試しに何度か落ちてきたか所に魔法を撃ってみたが、びくともしない。


 つまり、運が悪ければ、私たちはすでに詰んでいる。

 詰んでいるかどうかを、自ら歩いて確かめにいく。

 それが、今この状況だ。


 当然、明るい雰囲気などあろうはずもない。

 普段なら冗談を飛ばし合っていた仲間たちも、今は無言だ。

 ぴりぴりとした緊張と重い静寂だけが、場を支配している。


 呼吸をするたび、喉がざらつく。

 空気は、ますます濁り、重くなっていく。

 目に見えない靄のようなものが、胸の奥をじわりと侵食してくるようだった。


「そういえば、この辺りってダンジョンが多いんですよね?」

 思いついたことを、私は無理やり声に出した。

 空気を少しでも動かしたかったのかもしれない。


 リリカだけが、考え込むようにして口を開いた。

「ええ、地上に建造物があるところもあるけれど、大抵は地下に広がっているわ。」

「じゃあ……もしかして、このダンジョン、他のダンジョンと繋がってる可能性もあるのでは?」

 私の言葉に、他のメンバーも敏感に反応した。

 一瞬にして、期待と不安が入り混じる沈黙が落ちる。


 リリカに代わり、アイザが重い声で答えた。

「……確かに、出入口が複数あるダンジョンも存在する。だが、このダンジョンは発見されてから、もうかなり経っている。そんな大穴が、これまで見逃されるものか?」

「まあ……もし誰かが迷い込んで出られなかったら、ギルドに報告することもできないだろうから。」

 それは絶望のようで、僅かな希望であった。と言うのは、可能性が存在するということだ。

 最も、その可能性は限りなく0に近い事は確実であったが。


 進まなければならない。

 だが、その一歩一歩が、まるで死地へと向かう行進のように重かった。

 重力以上に、空気が足を引きずっていた。


 ふと、私は立ち止まった。

 辺りを見回し、そっと目を閉じる。


「ミスト?」

 アイザの呼びかけにも応じず、私は魔力を探知する。

 闇の向こう、道を曲がった先に……微かな、だが確実な違和感。


「……魔物です。それも、かなり強い。」


 一言告げると、パーティー全体に一気に緊張が走った。

 剣を抜き、杖を握り、皆が一斉に戦闘態勢を取る。


 逃げる場所などない。

 道も、選べない。

 戦うしかないのだ。


 やがて、魔力反応がこちらへと迫ってきた。

 暗闇の奥から、長大な影が蠢く。

 ずるずると引き摺るような音を立てて現れたのは、これまで見たこともない、細長いミミズのような魔物。


 それは、ただ生きるためだけに、私たちを喰らおうとする存在だった。

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