先ほどまでの緊張感は失せ、代わりに味気ない静寂せいじゃくただよった。

 役人が番屋を去った後、三次は気を利かせて、宗介とお寧が二人きりで話ができるように取り計らってくれた。今回ばかりは色恋といったなまめかしい理由で二人きりにしたのではなく、宗介でなければ、お寧は本当のことを言ってはくれないと思ったからであった。

 慣れない番屋の風景に戸惑いながら、それはお寧も同じだと考えて、宗介は声をかけた。

「お寧さん、俺には本当のことを教えてくれ」

 しおらしく座っているお寧の目線に合わせた。お寧はあきらめのような雰囲気のまま、宗介を一度見て、すぐに視線を落とした。

「先生……どうして言わなかったんですか?」

「え……」

「私が、血の付いた手拭てぬぐいを持ってたって」

 確かに宗介は、お寧が血痕の付着した手拭いを夢中に洗っているところを目撃している。それを役人がいたときに言っていたら、お寧は獄に繋がれていたかもしれないのだ。

「正直、手拭いのことは頭にぎっていた。だが、言ってしまえばお寧さんが不利になると思って……お寧さんは誰かをを傷つけるような人ではないと信じているから、言わなかったんだ」

 自分の証言で、無実のお寧が捕らわれるようなことがあっては、後悔してもしきれない。あの場で宗介にできることは、手拭いの件を言わないということであった。

「先生……」

 お寧の瞳に、微かに光が宿った。次第に光が揺れて、眼のふちに涙を浮かべる。

「もし、あの血が弥一さんのものだって言っても、先生は信じてくれますか?」

 お寧の声は、一度も震えてはいなかった。だが、覚悟の他に、すがるような気持ちが伝わった。

「信じる」

 宗介は迷いもなく答える。どのような過程があったとしても、お寧が犯人ではないと言うのであれば、誰が疑おうと、身の潔白を信じるという気持ちに、嘘はない。

 とたんに、お寧は涙を流した。き止められていた思いが決壊して、何度も、その言葉を口にする。

「先生……ごめんなさい……」

 それが何に対してなのか、宗介には計り知れなかった。今まで隠し事をしていたこと、なお受け入れてくれた自分の気持ちにだろうか。

 宗介はお寧が言葉をつむいでくれるのを、お寧の震える身体を抱きしめながら待った。お寧は素直に、宗介の胸に縋って嗚咽おえつらす。

 きっとお寧は、ずっと誰かにこうしてほしかったのだろう。それがたとえ自分ではなくても、行き場のない気持ちを聞いてほしかったのだ。

 いつまでそうしていただろうか。次第にお寧が落ち着きを取り戻して、ゆっくりと口にする。

「先生に、すべて打ち明けます」


  *


 不思議と小さい頃の記憶はあまりない。めずらしいことではないのかもしれないが、母の記憶すらもないのだ。

 でも二つだけ、覚えていることがある。

 庭一面に咲いた、苧環おだまきの花。私は風に揺れる苧環の中にいた。

 もう一つは、いつも私を背負ってくれていた、誰かの後姿。

 母にその二つの記憶について話すと、きっと夢の中の話だと言う。だけど、なぜ母はそんなにおびえた顔を、一瞬でもしたのだろう。苧環……記憶の中で咲いているその花は美しいのに、どうして苧環と聞いただけで……

 ある日のこと、行商人から苧環屋敷の話を聞いた。

 狸穴まみあなには苧環屋敷と呼ばれている家がある。住人は滅多に表に出ない、謎めいた家なのだと。行商人は狸穴に商いに出て、苧環屋敷を実際に見たそうだ。門が開いていて、そこから無数に咲く苧環が見えてつい柄にもなく見入っていると、女人が手招きをしたそうだ。行商人なら何か見せてほしいと乞われ、その後、行商人は何事もなく屋敷を後にしたのである。後からその屋敷が謎めいているという話を聞いて、実際に住人を見たと言えば珍しがられたという、他愛のない会話であった。

「おっかさん、狸穴には素敵な苧環屋敷があるんだって。もしかしたら私……」

 昔、そこに行ったことがあるのかもしれないと言いかけて、お寧は目を見開いた。母が飲みかけの湯飲みを落とし、明らかに動揺していたのだ。

「誰から聞いたの」

 まるでしかるような問いかけであった。

 普段は穏やかな母が、しかも一度として声を荒げられたことのないのにとお寧は戸惑いながら、小さい声で答えた。

「この前うちに来た、行商人に……」

「…………」

 母は考え込むように、しばらく黙っていた。やがて、そうと一言だけつぶやいた。

「ねぇ、おっかさん。その屋敷のこと、知ってるの?」

 あえて苧環屋敷と言わなかったのは、母の心を乱したくなかったからだ。

 苧環の花に囲まれた昔の記憶は夢ではなく、紛れもないものであり、母の反応と関係があるのかと、お寧は躊躇ためらいながらも尋ねた。

 ずっとおかしいとは思っていた。母はすぐに引っ越しをしたがる。まるで誰かから逃げるように……何となく、理由を聞いてはいけないと思い、今まで聞けなかったが、いつかは尋ねたいと機をうかがっていたのだ。

「お寧……」

 母はお寧の手をしかとにぎりしめて言った。

「早くい人を見つけて、家を出なさい。おっかさんに何かあったら、お前は一人になってしまうんだよ」

「おっかさん……」

 このときはまだ、母の必死さのすべてまでを、理解していなかった。

 母と苧環屋敷とは、何か因縁がある。いつかきっと、母はが話してくれるだろうと、お寧はそれ以上、尋ねることはしなかった。

「おっかさんを一人になんかできないよ。それに、好い人だっていないし……」

 まだ恋をしたことさえない。しかも普段は、これといった出会いもない。果たして将来自分は、伴侶を得ることができるのだろうかと漠然と感じていた。

 母が殺されたのは、それから間もなくのことであった。

 いつも一緒にいた母がいない。あんなに優しかったのに、何者かの手によって殺められてしまった。怒り、憎しみ、それよりもまず、怒涛の喪失感が襲い、もう生きてはいけないかもしれないと思った。

 誰が母を殺した……

――おっかさんに何かあったら……

 つい数日前の母との会話を思い出す。

 母は、自分がこうなることを予期していたのだろうか。

 苧環……母があれほどまでに過剰に反応していた、花の名前だ。

 あそこに……苧環屋敷に行けば、何かがわかるかもしれない。

 母を殺した犯人も、何もかもを明らかにしたい。願わくばこの手で……

 お寧をこの世に留めたのは復讐であり、すべてを終わりにさせようとする投げやりな考えである。名主に、自身が苧環屋敷の住人の親戚だと偽り、屋敷に向かうことにした。そして、宗介と出会った。

 先生は優しかった。成り行きで一緒に住むことになったとはいえ、すぐに関わらなくなる存在だと思っていた。

 苧環屋敷の住人が帰ってくれば、その日が自身の終焉しゅうえんであるのかもしれない。母がいない今、お寧に未練はないはずであった。

 でも、どうしてだろう……

「お寧さん」

 いつしか、名前を呼ばれるたびに胸が高鳴った。嘘を吐いていることが、申し訳なくなった。

 手習い所の子どもたちと過ごす時間も、愛おしい。

 先生、そう言って、彼の胸に飛び込みたかった。もっと甘えたかった。

 このまま先生と一緒にいられたならば、どんなに幸せだろうか。

 けれどお寧の心には、まだ鮮明になっていない母の死がわだかまっている。お寧の心に迷いが生じた頃、彼と出会った。

 その日、お寧は宗介のために町に出て饅頭まんじゅうを買い、家に帰る道中のこと、弥一と名乗る男に声をかけられたのである。

「母親を殺した犯人が知りたければ、明日、船宿に来い。……苧環屋敷のこと、知りたいんだろ」

 不敵に笑う弥一の前に、お寧は一気に現実に引き戻された気がした。

 宗介に母のことを相談すれば、彼は間違いなく犯人を見つけようとしてくれる。先生を巻き込んではいけない。先生は、平穏に暮らさなければいけない人だ。

「ずっとここにいたらいい」

 その言葉が聞けただけで、自分は幸せなのだ。過分な欲望は、捨てるべきだ。

「先生といるのがとても……」

 至福であった。

 翌日、お寧は宗介の家を去って行った。

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