音が消えてしまった。しかしそれは錯覚であり、思考が停止していただけで、雨の音は響いている。

 お寧がそんなことを言うなんて、信じられない。彼女は恥じらう様子もなく、自分の返事を待っている。

 沸き上がるこの感情を、何と言えばいいのだろう。

「わかった……うちに来なさい」

 お寧はゆっくりとうなずいた。

 本気だ。お寧は本気で、身を投げ出そうとしている。

 傘を少し前に出してうながせば、お寧が寄り添った。隣を歩くお寧は、純真な少女にも、色気をき出しにしているようにも見える。どちらが本当のお寧なのだろう……

(俺は何も知らない……)

 お寧は偽っていた。だけど一緒に過ごしていた日々の彼女は、すべて偽りだったのだろうか。子どもたちと楽しそうに遊んでいたときも、自分のために饅頭まんじゅうを買ってきてくれたときも……

 二人は無言のまま、宗介の家に着いた。

 泥のはねた足を洗うのにおけを用意して、まずお寧を座らせる。彼女がすそを上げたときに見えた白い足をつかんでも、嫌がりもせずに、洗われるに任せていた。

 以前では考えられない行動だ。お寧の肌に触れるなんて、恐れ多くてできなかったことである。

あかりを頼む」

 お寧が居間の行燈あんどんに火をつけると、部屋の全貌ぜんぼうが浮かび上がる。いつまでも返せなかった蒲団ふとんが、役に立つときがきた。

 宗介も足を洗い終えると、障子戸をぴたりと閉めて、部屋を密閉する。お寧は座ったまま、己の手元を見ていた。

 迷いも躊躇ためらいもなく、宗介は畳まれていた蒲団を広げる。迷いがなかったのは、お寧も同じであった。宗介が蒲団を敷き終えるのと同時に、お寧は背を向けて、帯を解いた。襦袢じゅばん一枚の姿が、お寧の身体の線を浮かび上がらせる。お寧は向き直ると、布団の上で待つ宗介の元に歩み寄った。そして腰を落として、見つめ合う。

「お寧……」

 心の底からの渇望が、彼女を呼び捨てにした。

 お寧の背中に手を回して、あせらず、ゆっくりと押し倒す。瞬間、ふわりの彼女の匂いがただよい、くらりとしそうになる。熱く火照ほてった肌は、襦袢の上からでもその柔らかさが伝わってくる。熱く、溶け込むような肌は、何と触り心地のよいことか。吸い付けば、どんな味がするだろう。細身ながら存在を主張する乳房は、触れる前からその柔らかさを実感できるようだ。

 行燈の灯りに浮かび上がったお寧の顔は、雨に耐えていたときよりも、わずかに色をとり戻していた。

 あとはもう、することは決まっている。くちびるを降らせようとすれば、お寧は受け入れようと目を閉じた。それを見た宗介は、触れ合う前にぴたりと動きを止める。

「…………」

 いつの間にか雨の音が落ち着いてきた。だが二人はそれに気づくほど、他事を考えられる余裕も無粋な心もない。

 なかなか感触が伝わらないことに、お寧は瞳を震わせながら待っている。

 宗介は続きをすることはせずにお寧の上から身体をどけた。気配でいなくなったことがわかったのだろうお寧は、目を開けて宗介を探した。

「…………」

 お寧は戸惑った。どうしたことか宗介は、お寧に掻巻かいまきをかけて、自らはお寧の横で、畳の上に寝そべっている。手だけは掻巻の上に乗せて、まるで母が子を寝かしつけるように優しく叩いていた。

「先生……」

「いいから、おやすみ」

 いつかお寧に笑ってほしくてしていたような顔を、宗介は彼女に向けていた。

 お寧は他にどうする気力もないのか、言われるがまま、再び目を閉じた。やがて宗介の手に安心したように、寝息を立て始める。

 しばらく手を添えていたが、ぐっすり眠りについたとわかると、宗介は身を起こして行燈の火を消した。

 お寧に気を遣いながら隣の自室に移動して、自身も蒲団の上に横になる。

「ふー……」

 大きく一つ息を吐いて、心を落ち着かせた。

 はじめから手を出すつもりなどなかった。だけどお寧に触れたときから、いや、一緒に歩いたときから、あるいは再会したときから、邪心に支配されそうになったのも事実であり、先ほどまで身体は正直に反応していた。

(お寧……何があったんだ……)

 まだ呼び捨ててしまうのは、彼女の残り香を覚えている所為せいか、心の中の声だったからか。宗介は必死に眠りにつこうと努めた。


 宗介がまぶたを開けたとき、まだ空には薄闇がただよっていた。普段なら早すぎる目覚めに、二度寝を決め込もうという気は起きなかった。

 体を動かすのが億劫おっくうで、しばらくぼんやりとしていたが、ふいにお寧がまたいなくなっていたらと考え始めて、すっかり目がえ渡る。

 一度、障子戸に手をかけようとして躊躇ためらった。女子おなごの寝ている部屋をのぞくなど、不届きこの上ない。だけど、決してやましい気持ちではなくて、再会したときにはより一層心細そうだったお寧がいなくなってはと、姿を確認せずにはいられなかった。

 宗介はそっと、ふすまを開けてみる。お寧の寝ている居間は、宗介の自室から襖を隔てた先にあった。

「…………」

 蒲団の上に横になっているお寧を見て、宗介は安堵あんどした。

 あまりじろじろと見るのは失礼だと、すぐに障子戸を閉めようとした……が、宗介ははっと手を止めた。

 お寧の様子がおかしい。しきりに息を吐いているのは、寝息ではなく、悪夢にうなされているような苦しさを感じているからだ。

「お寧……!」

 汗をかいているひたいに手を当ててみる。刹那せつなに伝わった熱に、お寧の苦しさを理解した。

 どうするべきか。医者だ。医者を呼ばなければ……その前に冷やすものを……

 宗介は急いで手拭てぬぐいを持ち、井戸に駆け込む。井戸水で冷やした手拭いをひたいの上に置いてあげても、その熱さに負けそうなくらいだ。

「すぐ医者を呼んでくるからな」

 家を飛び出した宗介が向かったのは、狸穴まみあなで医者をしている妙庵という老人である。

 ちょうど妙庵は庭に出て、背伸びをしているところに出くわした。

「妙庵先生!」

「おや、先生じゃありませんか」

 先生に先生と呼ばれるのはおかしな気がするが、今はそんなことを考えている場合ではない。

 宗介は彼を急かした。

「急病人が私の家にいるんです!早く来てください!」

「容体は……」

「ものすごい熱が出て、苦しそうにしているんです。いいから早く……」

 宗介にしては強引だと思いながら、急病人であればどのみち早くしなければと、妙庵は急いで診察道具を準備する。一緒に駆け込めば老齢の身体には限度があるので、宗介の後ろになってしまうと、脇目も振らず宗介が背中に負ぶさってみせた。

 妙庵が宗介の家に着いたときもまだ、お寧は高熱にうなされていた。診察を始めた妙庵の問いかけに、うなずくか首を振るのもやっとである。

「二、三日で熱は下がるだろう。今は辛いだろうが、すぐによくなるから安心しなさい」

 という診断結果に対して、

「本当に大丈夫なんですか……こんなに苦しそうにしているのに……」

 宗介は不安そうに尋ねた。

「昨日はめっきり冷え込んでいた所為もあるが、よほど疲れていたのだろう。まあよくなっても、無理をさせたらいかんな。大事にしてあげなさい」

 もし様態が悪くなるようならすぐに呼んでくれと言って、妙庵は薬を置いてから家を後にした。

 宗介は温くなってしまった手拭いを替えてあげながら、ふと昔のことを思い出した。

 何故こんなにも病人のことを心配してしまうのか。お寧だから、ということも、人が苦しそうにしていて当たり前だ、という理由もある。だが、最たる理由は過去の記憶にあった。

 宗介の母は病弱だった。寝たきりで、熱を出すことも頻繁ひんぱんで、常に死の淵を彷徨さまよっていたのである。父が医者を呼びに走り回ることも、一度や二度ではなかった。幼かった宗介は何もできなくて、今は母の顔も何となくでしか思い出せない。

「お寧……」

 母は結局、病で亡くなった。幼い頃に味わった喪失の痛みは、いまだに消えていない。この消えることのない痛みを、お寧も味わっている。

 幸せになってほしいと願った人が、苦しみの中にいる。理屈ではなく、ただ心のおもむくままに、彼女を助けたいと願った。

「すいやせん」

 戸口の向こうから声が聞こえた。話し方から三次だと思ったのだが、戸口を開けるのと同時に、それは三次の声ではないと気づく。

「…………」

 宗介は彼を見て固まった。知らない人だったからというわけではなく、瞬時に、もしかしたら彼は、長屋にお寧を訪ねてきた男かもしれないと思ったからだ。

 歳はお寧よりも少し上くらいで、目鼻立ちのくっきりした、見ようによっては整った若い男である。

「お寧、こちらに来ていませんかね」

 やはりそうだ。彼がお寧を訪ねた男に違いないという確信が、宗介の頭の中に駆け巡った。

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