四
音が消えてしまった。しかしそれは錯覚であり、思考が停止していただけで、雨の音は響いている。
お寧がそんなことを言うなんて、信じられない。彼女は恥じらう様子もなく、自分の返事を待っている。
沸き上がるこの感情を、何と言えばいいのだろう。
「わかった……うちに来なさい」
お寧はゆっくりと
本気だ。お寧は本気で、身を投げ出そうとしている。
傘を少し前に出して
(俺は何も知らない……)
お寧は偽っていた。だけど一緒に過ごしていた日々の彼女は、すべて偽りだったのだろうか。子どもたちと楽しそうに遊んでいたときも、自分のために
二人は無言のまま、宗介の家に着いた。
泥のはねた足を洗うのに
以前では考えられない行動だ。お寧の肌に触れるなんて、恐れ多くてできなかったことである。
「
お寧が居間の
宗介も足を洗い終えると、障子戸をぴたりと閉めて、部屋を密閉する。お寧は座ったまま、己の手元を見ていた。
迷いも
「お寧……」
心の底からの渇望が、彼女を呼び捨てにした。
お寧の背中に手を回して、
行燈の灯りに浮かび上がったお寧の顔は、雨に耐えていたときよりも、
あとはもう、することは決まっている。
「…………」
いつの間にか雨の音が落ち着いてきた。だが二人はそれに気づくほど、他事を考えられる余裕も無粋な心もない。
なかなか感触が伝わらないことに、お寧は瞳を震わせながら待っている。
宗介は続きをすることはせずにお寧の上から身体をどけた。気配でいなくなったことがわかったのだろうお寧は、目を開けて宗介を探した。
「…………」
お寧は戸惑った。どうしたことか宗介は、お寧に
「先生……」
「いいから、おやすみ」
いつかお寧に笑ってほしくてしていたような顔を、宗介は彼女に向けていた。
お寧は他にどうする気力もないのか、言われるがまま、再び目を閉じた。やがて宗介の手に安心したように、寝息を立て始める。
しばらく手を添えていたが、ぐっすり眠りについたとわかると、宗介は身を起こして行燈の火を消した。
お寧に気を遣いながら隣の自室に移動して、自身も蒲団の上に横になる。
「ふー……」
大きく一つ息を吐いて、心を落ち着かせた。
はじめから手を出すつもりなどなかった。だけどお寧に触れたときから、いや、一緒に歩いたときから、あるいは再会したときから、邪心に支配されそうになったのも事実であり、先ほどまで身体は正直に反応していた。
(お寧……何があったんだ……)
まだ呼び捨ててしまうのは、彼女の残り香を覚えている
宗介が
体を動かすのが
一度、障子戸に手をかけようとして
宗介はそっと、
「…………」
蒲団の上に横になっているお寧を見て、宗介は
あまりじろじろと見るのは失礼だと、すぐに障子戸を閉めようとした……が、宗介ははっと手を止めた。
お寧の様子がおかしい。しきりに息を吐いているのは、寝息ではなく、悪夢にうなされているような苦しさを感じているからだ。
「お寧……!」
汗をかいている
どうするべきか。医者だ。医者を呼ばなければ……その前に冷やすものを……
宗介は急いで
「すぐ医者を呼んでくるからな」
家を飛び出した宗介が向かったのは、
ちょうど妙庵は庭に出て、背伸びをしているところに出くわした。
「妙庵先生!」
「おや、先生じゃありませんか」
先生に先生と呼ばれるのはおかしな気がするが、今はそんなことを考えている場合ではない。
宗介は彼を急かした。
「急病人が私の家にいるんです!早く来てください!」
「容体は……」
「ものすごい熱が出て、苦しそうにしているんです。いいから早く……」
宗介にしては強引だと思いながら、急病人であればどのみち早くしなければと、妙庵は急いで診察道具を準備する。一緒に駆け込めば老齢の身体には限度があるので、宗介の後ろになってしまうと、脇目も振らず宗介が背中に負ぶさってみせた。
妙庵が宗介の家に着いたときもまだ、お寧は高熱にうなされていた。診察を始めた妙庵の問いかけに、
「二、三日で熱は下がるだろう。今は辛いだろうが、すぐによくなるから安心しなさい」
という診断結果に対して、
「本当に大丈夫なんですか……こんなに苦しそうにしているのに……」
宗介は不安そうに尋ねた。
「昨日はめっきり冷え込んでいた所為もあるが、よほど疲れていたのだろう。まあよくなっても、無理をさせたらいかんな。大事にしてあげなさい」
もし様態が悪くなるようならすぐに呼んでくれと言って、妙庵は薬を置いてから家を後にした。
宗介は温くなってしまった手拭いを替えてあげながら、ふと昔のことを思い出した。
何故こんなにも病人のことを心配してしまうのか。お寧だから、ということも、人が苦しそうにしていて当たり前だ、という理由もある。だが、最たる理由は過去の記憶にあった。
宗介の母は病弱だった。寝たきりで、熱を出すことも
「お寧……」
母は結局、病で亡くなった。幼い頃に味わった喪失の痛みは、いまだに消えていない。この消えることのない痛みを、お寧も味わっている。
幸せになってほしいと願った人が、苦しみの中にいる。理屈ではなく、ただ心の
「すいやせん」
戸口の向こうから声が聞こえた。話し方から三次だと思ったのだが、戸口を開けるのと同時に、それは三次の声ではないと気づく。
「…………」
宗介は彼を見て固まった。知らない人だったからというわけではなく、瞬時に、もしかしたら彼は、長屋にお寧を訪ねてきた男かもしれないと思ったからだ。
歳はお寧よりも少し上くらいで、目鼻立ちのくっきりした、見ようによっては整った若い男である。
「お寧、こちらに来ていませんかね」
やはりそうだ。彼がお寧を訪ねた男に違いないという確信が、宗介の頭の中に駆け巡った。
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