第3話 ただいま
※途中で視点がモーガン男爵夫人に変わります。
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崖の上から私を見張っていた騎士が悪態をついていた。
「くっそ……モーガン男爵からもネーグル子爵からも責められるぜ。どーすんだよぉ~~。逃げ出さないように見張れとは言われたけどよぉ、まさか崖から飛び降りるなんて。こんなことなら、縄でぐるぐる巻きにしておけば良かった……」
私を抱いている男性の肩がピクリと動いた。凄まじい殺気に、私は思わずその男性の顔を見る。豊かな金髪に空色の瞳の美丈夫だった。
「くっ。あの騎士、許さん。縄でぐるぐる巻きに……だと? 不敬な奴め。この私が懲らしめて……」
なぜか、その男性は見張りの騎士に憤っていた。
「綺麗……」
思わず見とれて、つい本音が漏れた。
「ここは天国なのかしら? あなたはとても綺麗だもの……きっと、天使なのでしょう? 私を迎えにきてくださって……ありがとう。これで、ネーグル子爵の奥方にはならなくて済むわ。だって、あの方はすごく年上で私を商品のように見ていたもの」
「つっ……悪夢は終わったんだよ。大丈夫だ、もう大丈夫。なんてことだ……私の妹が……こんなことになっていたなんて……」
妹という言葉が耳に残る。混乱の中、心の奥に何かが引っかかる。お兄様? そんな存在が、私にいるはずがない。意識が遠のき、周囲が漠然とした影に包まれていく。まるで深い淵に引き込まれるように、あたりが真っ暗になっていった。
薄暗い部屋で目を覚ました。頭がぼんやりとしている。ふかふかのベッドに横たわっているけれど、見覚えのない部屋に不安がこみあげる。淡いブルーの壁には大きな鏡がかけられ、その周りにはさまざまな化粧道具が整然と並べられていた。窓際には、色とりどりの花々が咲く鉢植えが並び、優雅な香りが部屋を包んでいる。天井には繊細な装飾が施され、シャンデリアが輝いていた。
ベッドは豪華な天蓋付きで、繊細なレースと絹で装飾されている。ここは明らかにモーガン男爵家ではない。
「皇女様、皇女様。あぁ、やっとお目覚めになりましたね。いま、皇帝陛下と皇太后陛下にお伝えしてきます」
え? 私……死んだのではないの? おかしいわ。ここはどこ?
「ビクトリア! 気がついて良かったわ」
金糸で精緻な刺繍が施されたドレスをまとい、宝石が散りばめられた冠が頭上に輝く。その女性は私を抱きしめて涙をこぼした。
「ようやく、あなたに会えたのね……ずっと探していたのよ。どれほど心を痛めていたことか……。おかえりなさい、私の可愛い娘」
人違いだわ。私がこの方の娘のはずがないもの……
「大変、申し訳ないのですが人違いです。私はモーガン男爵家の長女、アグネスと申します。ここはどこでしょうか?」
「ここは、ローマムア帝国です。あなたの祖国よ。あなたは間違いなく私の娘です」
扉の外が騒がしくなり、今度は私を妹だと言った男性が入ってくる。
「ビクトリア! 良かった。あれから気絶して、ずっと目が覚めないから心配していた。私の超人的身体能力がなかったら、今頃ビクトリアは魚の餌に……」
「アレクサンダー。言葉に気をつけてちょうだい。ビクトリアがびっくりしているでしょう? こちらは、あなたの双子のお兄様よ。このローマムア帝国の皇帝です」
……きっと、私は夢を見ているのよ。こんなことがあるはずないもの……
でも、この幸せな夢は覚めなかった……だから、私はこの女性に文句を言った。私はずっと寂しかったのだと。泣きながら誰かを責めたのは、初めてだった。
「私が本当にローマムア帝国の皇女様なら、なぜ、フリートウッド王国のモーガン男爵家で育てられたのですか? 私は少しも愛をもらえず、毎日がとても辛かったのに……なぜ、もっと早く助けてくださらなかったんですか? 私は親子ほどの男性に売られるようにして嫁がされるところだったのに……」
泣きながら責めた私に、泣きながら謝ったのはその美しい女性、この国の皇太后殿下だった。
「話は
皇帝陛下は眉間に皺を寄せながらそうおっしゃった。
「だから、あなたを安全なエインズワース王国に行かせたわ。愛する娘を始末するなんて、できるわけがないでしょう? 信頼できるミラベル侯爵夫妻に託したのよ。エインズワース王国には海を越えて行く必要があったから、旅をする商人夫婦に変装して彼らは船に乗ったわ」
ミラベル侯爵夫妻にはあちらで換金できるように、大量の宝石を持たせたそうだ。長い間彼らと連絡を取らなかったのは、秘密が露見しないようにとの配慮によるものだった。
今から4年ほど前、双子についての認識が変わり始めた。新しい預言者や占星術師が現れ、双子はむしろ繁栄をもたらす象徴として解釈が変わったのだ。そこで私を迎えにいこうとしたが、エインズワース王国にはいなかったのだという。
「どうしてでしょう? なぜ、私はフリートウッド王国に?」
「船内で誘拐されたのですよ。あのモーガン男爵夫妻にね。それを突き止めるのにとても長い歳月がかかりました。ミラベル侯爵夫妻はすでに亡くなっていたしね……」
「誘拐?」
私の顔色が青くなったのを、皇太后殿下がすぐに気づき、私をすぐさま抱きしめた。
「昔のことですよ。ビクトリアは詳しく知る必要はありません。さぁ、暗いお話しはもうやめましょう。私のことはお母様、アレクサンダーはお兄様と呼ぶのよ」
頭を撫でられて子供のような気分になった。お兄様はそんな私をニコニコとみていた。
「さぁ、明日は妹のためにドレスを仕立てに行こう! 仕立屋を皇宮に呼びつけようと思ったのだが、帝都を見るのも楽しいだろうと思ってね。ビクトリアのためにいろいろ計画しているよ。今までのことは忘れるんだ。いいね?」
私はいるべき場所に戻ったらしい。
「お母様?」
小さく声を絞り出す。あたたかい笑顔が視界に広がり、心が高鳴る。
「なぁに? ビクトリア。お母様はここにいますよ」
その声は優しく、まるで長い間失われていたものが、再び私の元に戻ってきたようだ。
「お兄様?」
「うん? なんだい?」
返ってきた声は心地よく、嬉しさに輝く顔が目の前にある。その瞳の奥には、私への愛情が確かに宿っていた。
「ただいま、戻りました」
言葉が小さく震え、心から湧き上がる感情が押し寄せる。
「お帰りなさい。会えて本当に良かった」
その言葉が、まるで温かな光のように私を包み込む。長い間、暗闇の中にいた私が、ようやく温もりを取り戻した瞬間だった。私の瞳から止めどなく涙が溢れ出したのだった。
風がごうごうと吹いていた。その崖下に生えている木には見覚えのあるショールが引っかかっている。アグネスのお気に入りのショールだ。その後も捜索は続いたが見つからず自殺だと認定され、死体さえ浮かび上がることはなかった。
社交界では私達夫婦がアグネスを虐待していたと悪評が流れる。実の子供を自殺に追いやった鬼畜な夫婦と言われ、夜会に行くとあからさまに白い目で見られた。
「オリバー卿と愛し合っていたアグネス様を、無理やりネーグル子爵に嫁がせようとしたらしいわ。それで、アグネス様は・・・・・・モーガン男爵家は昔から子供の扱いに差をつけていましたものね」
「アリス様のお誕生日会は盛大にしていたけれど、アグネス様のお誕生日会には招かれたことはありませんわ。一度も開いていないと思いますわよ」
「アルバート様の祝いの行事もよく派手にパーティを催していたでしょう? でも、アグネス様のパーティが開かれたという話は聞いたこともないわ」
「モーガン男爵家はアグネス嬢が生まれたあたりから大金持ちになっただろう? その前までは領地経営に失敗して大変な状況だったはずだ。いきなりどうやって借金が返せたのかね? 不思議な一家だよ」
「アリス様の虚弱体質もきっと嘘よね。あの一家は前から胡散臭いって思っていましたわ!」
アグネスが亡くなったことで、モーガン男爵家を妬む人達が容赦なく牙をむいた。不思議なくらい私たちがアグネスにしてきたことが、貴族のあいだで噂になっていた。
愛し合う二人を引き裂き、悲しい結末を引き起こした私達には、嫌悪の眼差しか向けられない。
まさか、こんなことになるなんて……
あれはまだ、私たち夫婦が結婚して3年ほど経ったあたりだった。事業に失敗した夫は爵位を従兄弟に譲り平民になる決心をしていた。
「気分転換に船旅でもしようか?」
2等の客室からぶらぶら船内を歩き、1等のフロアに入ると、とても綺麗な赤ちゃんが寝ている籠を見つけた。私と目があうとニコニコと笑う。豪華な産着を着た上品な赤ちゃんはとても魅力的に見えた。
私たち夫婦にはなかなか子供が授からない。もうすぐ爵位もなくなるのなら、子供ぐらいは望んでも罰は当たらないはず。
私はその籠にそっと手を伸ばした。
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