第2話 神域の底


 美乃梨みのりは狩衣の男に連れられ、神社の内へ移動した。

 桜真おうまと名乗った彼は目のような痣を見て以来、何かを考えこんだまま黙して語らない。美乃梨としては初めて入った昔馴染みの神社内にも興味があったが、それ以上に、桜真の険しい表情の意味が気になった。


「あの、これ、何なんですか……?」


 整った顔の睨み顔には何とも言えない迫力があって、美乃梨としても居心地が悪い。


「ああ、すまない。……これは、堕霊だりようのつけた印だ。これがある限り、やつは美乃梨の居場所をいつでも把握できる」


 堕霊という美乃梨の耳慣れない言葉が先ほどの化物を指しているのは、言われるまでもなく分かった。

 つまりは、これから先、美乃梨はいつあの堕霊という化物に襲われてもおかしくない中で生きていかなければならないのだ。いや、そもそもいつまで生きていられるのかも分からない。


 美乃梨の顔が青ざめて、嫋やかな両手が膝の上で固く握られる。その恐怖は、自分はいつ桜真に名前を教えたかという疑問を押し流すに十分なものであった。


「案ずるな」


 震える美乃梨に、柔らかく、しかし強い声がかけられた。


「私がどうにかしよう。何に変えたとしても、この私が」


 そう告げた桜真には、顔が整っている故のものとは関係のない、鬼気迫ったような迫力があった。


「兎も角、人の世は危ない。この神域にいる限りはやつも手を出せまいが……。家族はいるか?」

「えっと、両親は父の仕事でアメリカに住んでいます。しばらくは、一人暮らしです」


 桜真は家族を人質にされることを懸念しているのだろうと美乃梨は考えていた。


「それならば良かった。しばらくは、神域の内に匿おう。主様には伺いをたてねばなるまいが、問題あるまい」

「ありがとうございます」


 美乃梨の礼に、桜真は愛おし気な笑みを返した。

 

 二人はすぐに、桜真の主人、時神ときがみの下へ向かうことにした。時間の遅いことは、神と呼ばれる存在には関係のない事らしい。


 時神のいる深部への入り口は祭壇の奥に隠してあって、美乃梨のように人ならざるモノが見えるなら、何も知らない人間でも入れてしまう造りになっていた。

 その入口は一見すれば何の変哲もない木造の階段で、美乃梨には人間を迷い込ませる罠のようにも見えた。


「転ばぬように」


 桜真は狼の木面を被りなおすと、光の球体をふよふよと浮かせて、美乃梨の少し先を歩く。光球は美乃梨の足元をよく照らす位置にあった。


 階段は美乃梨の思っていたよりもずっと長く、高さで言えば神社の麓あたりまで来ているだろう距離を下りることとなった。光球に照らされてなお薄暗い空間だ。出口の光が見えた時、美乃梨がついホッと息を吐いてしまったのも、無理はない。


 階段を下りきると、彼女を月の光が迎えた。人の世と変わらないそれに照らされる町並みは古き良き門前町で、美乃梨は郷愁のような感覚を覚える。

 桜真はその正面の道、一番大きな通りへ向かって進んだ。夜だからこそなのか、大通りには多くの人ならざるモノたちの姿があった。彼らに人型のものは少なく、何とも形容しがたい輪郭も多い。


「どうした?」


 足を止めてしまった美乃梨に、桜真が振り返る。


「あ、いえ、その、人間の町みたいだなって」

「正直に言って良い。恐ろしいのだろう」


 図星だった。しかし美乃梨からすれば、この町の住人は桜真の仲間だ。それを恐ろしいと言っても大丈夫か、彼女には判断が出来なかった。


「それで良い。稀血まれちの君は特にな」

「分かりました。ありがとうございます」


 また稀血か、という嘆息を、美乃梨は一旦飲み込んだ。


 大通りを歩く中で、桜真は何度も声を掛けられていた。そのどれもが好意的で、敬意に満ちたもので、美乃梨は堕霊だりようの口にした『時神の使い』という言葉を思い出していた。神の使い、即ち神使だ。

 神使の扱いが人ならざるモノの世界で実際どのようなものなのかは、美乃梨が知るはずもない。しかし、住人たちの態度から、桜真が相当に大物なのだと予想した。


 目的地は町の中心部、神域の最奥に当たる位置にあった。他のどれよりも立派な社が時神の住まいらしい。入口にある橋には半透明で凹凸の無い体の門番が二人いて、白木の重厚な門を守っていた。


「おかえりなさいませ、桜真様。ちょうど良かった」

「何かあったか?」


 桜真は木面であるはずの眉間に皺を寄せる。

 

「いえ、時ノ主ときのぬし様は少しばかり留守にされるそうで、言伝を仰せつかっておりました」

「そうか。承知した。どれほどでお帰りになるか分かるか?」

「半時ほどかと」


 半時、つまりは一時間だ。

 桜真は顎に手を当てて少し考えこむ様子を見せると、ちらりと美乃梨を見た。


「そうだな、主様を待つ間、少しばかり町を案内しようか」

「町の案内……」


 美乃梨の正直なところを言えば、非情に興味があった。同時に、恐ろしくもあった。

 彼女にとって人ならざるモノ達は、日常に紛れこむ異物だ。他の人には見えないのに、自分にだけ見えて、時には襲い掛かってくる。


 しかしもし神域で暮らしていくのなら、彼らとの交流を避けるのは難しい。桜真がどの程度美乃梨を守る気でいるのかも分からないし、そもそも彼に頼りすぎるのが美乃梨は嫌だった。


「……はい、お願いします」


 唇をきゅっと結ぶ彼女に、桜真は一つ頷いて見せた。


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