第16話 英語
妹が運動に同行したのは最初の四日間だけで、俺にサボる気がないことを察すると着いてこなくなった。
一人になってからは外ではランニングだけにして、あとは自宅で自重トレーニングを積むことにした。
もともと凝り性だから、ネットや本で調べて効率のいいトレーニングの仕方を自主的に学んだ。
たぶん貧乏性なのも関係していると思う。
どうせ辛い思いをするのなら、出来るだけ無駄にしたくない。
そんな心理だ。
腕立て伏せをして蛍光灯のスイッチ紐とスパーリングして腹筋してスイッチ紐とスパーリングして背筋してスパーリングしてスクワットしてスパる。
充実したトレーニングメニューだった。
安物だけどプロテインも飲むようになった。
ソイプロテインを無調整の豆乳で割る。
大豆と大豆の夢のコラボレーション。
アツアツでもホカホカでもないが。
むしろ純粋にまずい。キッチンを漁りミロを見つけて混ぜてみると、ようやく飲めるレベルになった。
「お兄ちゃんって、いつも数学ばかりやるよね」
妹がそう話しかけてきたのは、春休みも残り数日に迫った薄曇りの午後だった。
ちらと振り返ると、妹はベットでうつ伏せになり携帯をいじっていた。
誰かとメールのやりとりをしているようだ。
自分の部屋にいればいいものを、おそらく暇なのだろう。
俺は勉強中だったけれど、明け方に降った雨のせいか部屋の中が妙に湿気ていて集中できていなかった。
「まあ、好きだからな」
「英語やろうよ、英語」
ぱっと立ち上がり、妹は本棚の下段から英語の教科書を抜き出した。
「はい」
「おう」
反射的に受け取ってしまうが、もちろん異議ありだ。
「なんで英語?」
「だって必要でしょ」
俺は苦い顔をする。
「嫌いなんだよなあ、英語」
「嫌いじゃなくて苦手なんでしょ」
「そうだけど」
「苦手だからこそ、やらなきゃ」
「でも英語なんて必要ないしな。国際化だなんだって言っても、海外と繋がりを持つのは一部だけだし」
「じゃあ数学は何の役に立つの?」
言葉に詰まる。
妹の言うとおり、数学なんて将来役に立たない教科の筆頭みたいなものだ。
「そういうね、好きなものや得意なことは正しくて、嫌いなものや苦手なことは間違ってるって考え方、やめた方がいいよ」
「……間違ってるとまでは言ってないだろ」
「備えあれば憂いなしだよ、お兄ちゃん。いつ素敵なブロンド美女と出会うかわかんないんだし。たとえば突然、お兄ちゃんのクラスに留学生がやってくるとか」
俺は鼻で笑った。
「ねえよ、そんなの」
「お兄ちゃんの高校は留学生を受け入れてるし、わからないでしょ」
「え、そうなの?」
「数年に一人くらいで、多くはないらしいけどね」
「へえ」
知らなかった。
「てか在学生の俺が知らないことをなんでお前が知ってんだよ」
「妹ってそういうものでしょ」
え、妹ってそういうものなの?
まあ当の本人がそう言うのだから、そうなのだろう。
妹は前かがみになり、はしゃぐように続けた。
「ハーレムも国際化の時代だよ。インターナショナルハーレムだよ。世界中の女性をはべらせようよ」
「国際問題に発展しかねないだろそれ……」
突っ込みながらも、ハーレムを持ち出されると弱かった。
形だけとはいえ協力すると言ってしまった手前、断りづらいのだ。
でもやはり、英語は嫌いだ。
やりたくない。
日本にいる限り日本語ができれば不自由ないし、実際、今まで生きてきて「ハロー」すら言ったことがない。
「あれなんだよほら」
そう言ってから続きの言葉を探す。
「女性のカップ数ってさ、アルファベットで表すだろ」
「え、うん」
突然の話題転換に妹は戸惑ったようすだった。
「でも、俺は英語が苦手だからさ、アルファベットで言われても咄嗟にそれが前から何番目なのかわかんないんだよ。だから俺はその度に、指折りしながら『エー、ビー、シー』って数えてくんだけど……」
俺は打ち明け話をするように声を潜めた。
「それがさ、ちょー楽しいんだよね」
妹は口をぽかんと開ける。俺は構わず続けた。
「例えばグラビアアイドルが、Jカップでーす、なんて言ったら、俺は指折りしながら『エー、ビー、シー、ディー』って数えていくんだよ。そして『イー、エフ、ジー』えっ? 嘘っまだ続くの? 『エイチ、アイ、ジェイ』うおおおお! みたいな」
話しているうちに興が乗ってきた。
舌がすらすらと滑らかに動く。
「英語が得意な奴ってさ、この楽しみを犠牲にしてるわけだろ? もちろん俺だって英語が重要なことくらいわかってるけどさ、でもこの楽しみを犠牲にするほどの価値があるのかっていわれると、俺はそうは思わないんだよな」
「……なるほど」
「嘘だろっ、今ので納得したのか!?」
「えぇ、なにそれぇ。ちょー楽しそうなんですけどぉ?」
膝から崩れ落ちて四つん這いになる妹。
心底悔しそうに床をばしばしと叩く。
「私はっ……。私は英語が得意だからっ、指折りして数えなくてもサイズがわかっちゃうっ」
しばらく悶え苦しんでから、妹はふらふらと立ち上がった。
「あのね、お兄ちゃん」
「お、おう。なんだ?」
「お兄ちゃんが言うことも、すごくわかるんだけど」
「いや、あの」
さっきのはほんの冗談で、と言おうとしたが、妹がそれを遮った。
「言わなくてもいい、わかってる。……英語の得意なお前に何がわかるんだって言いたいんでしょ」
違う。
「確かに、お兄ちゃんの言うとおりだよ」
なにも言ってない。
「でも、やっぱり英語って必要だと思うの。だから……」
下唇をきつく噛む。
滲んだ血を舐めとってから、妹は続けた。
「本当は、私にこんなこと言う資格はないし、強要できることでもないけど、やっぱりお兄ちゃんには英語を学んでほしいの。代償は、とても大きなものかもしれない。でもきっと、それ以上に得るものがあるはずだからっ」
俺はドン引きしつつも、なんとか頷いた。
「……あ、ああ、そうだな。わかった」
駄目だこいつ、早くなんとかしないと。
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