第10話 一石二鳥、ポジション
いつまでも戸口に立たせているわけにもいかず、とりあえず部屋に招き入れる。
どこに座ってもらうべきだろうか。
椅子は俺が今座っているものしかないし、座布団もない。
そもそも目上の女性を床に座らせるのはいかがなものか。
かと言ってベッドに腰かけてもらうのも無神経なような……。
そんなことを考えているうちに、彼女は大きく息を吸い込み、ぽつりとつぶやいた。
「……男の子の匂いがする」
「臭いますか?」
俺は窓を開けようと立ち上がった。
「あ、違うの。男の子の部屋に入ったの初めてだから、ちょっと新鮮で。全然嫌なにおいじゃないし、むしろ好きな匂い——って、なに言ってるんだろ。
彼女は赤面し、前髪を手櫛で整えた。
「それに、なんだかお花の優しい香りもするし」
椅子に腰かけなおし、妹が置いていった芳香剤にちらと視線をやった。
彼女は俺と目が合うのが恥ずかしいのか、きょろきょろと部屋を見回していた。
その視線が壁の一角に貼られた紙をとらえる。
『一石二鳥』
ああそういう意味かくそったれ。
妹の思惑に気づき、内心で舌打ちした。
近所に住む美人な現役女子大生に勉強を教えてもらう。
確かに一石二鳥だ。
芳香剤を置いていったり、服を着替えさせられたり、シャワーを浴びるよう言われた理由にもようやく得心がいった。
なんだか妹に弄ばれている気がして不愉快だった。
「……斬新なスローガンだね」
「俺もそう思います」
それほど興味があるわけでもないみたいで、彼女はすぐに視線を外して話を戻した。
「勉強、邪魔しちゃった?」
「いや、ちょうど一息入れたところだったから」
「晴香ちゃんに言われて高二の教科書持ってきてるんだけど、使う?」
松宮さんは鞄を床に下した。ごと、と鈍い音がする。
教科書が詰まっているのだろう。
俺は頷いた。
それは本当にありがたかった。
「中高一貫の女子高の教科書だから、もしかしたら進行具合が違うかもしれないけれど」
「そういえば、松宮さんの大学って妹と同じとこでしたよね」
「そうだよ」
「松宮さんも中学からそこに通ってるんでしたっけ」
彼女は頷いた。
「そうなの、エスカレーターで。それで、どうしよっか。迷惑だったら、教科書だけ置いて帰るけど」
「いや、全然。むしろ助かります」
呼びつけておいて帰れなんて、そんな失礼なことは言えない。
呼びつけたのは妹だけど。
彼女は嬉しそうに笑った。
「そっか。じゃあ、教科はなににする?」
「数学がいいです」
「二? それともB?」
「数二で」
松宮さんは鞄から教科書を引っ張り出した。
そしてそれを開いて机の上に置く。
「あ、椅子、妹の部屋から持ってきます」
「いいよ、立ったままの方が教えやすそうだし。最初から順番にでいいよね?」
「はい」
俺は机に向かいシャーペンを握った。
松宮さんが背後から机を覗き込むようにする。
体温が感じられそうなほど近い。
首筋をくすぐるのは、きっと彼女の長い髪だろう。
「じゃあまずは——」
芳醇な香りがした。
妹とは全然タイプの違う、濃密な女性の匂い。
ふと、今家に誰もいないことを意識し、頭から離れなくなった。
心臓がバクバクと跳ね上がり血液が体中を駆け巡る——と思いきや局部に凝集した。そんな号令を出した覚えはない。
「ねえ、ちゃんと聞いてる」
耳元で睦言のような甘い声。
「え、あ、すみません」
「もう、ちゃんと聞いてよ。あと姿勢。目が悪くなるから、ちゃんと背筋を伸ばす」
背中をぱしぱしと叩かれた。
「いや、これにはやむにやまれぬ理由が。あとボディタッチは今は勘弁してください」
「理由ってなに?」
答えられるわけがない。
黙っていると、痺れを切らしたように松宮さんが手を伸ばしてきた。
「ほら、ちゃんと座る」
「い、いやほんと無理だってっ」
「こら、抵抗するな」
「——っ。……ああっ!」
松宮さんの背後に視線をやり驚いたように叫んだ。
「え?」
つられて彼女は振り返る。
その隙に俺は腰を浮かせズボンをぐいっと引っ張った。
長年培った最小限の動作でポジションを直す技術を惜しげもなく発揮する。
「……なにもないけど」
「すみません、見間違いです。さ、勉強しましょう」
松宮さんは不思議そうにしていたが、俺が背筋を伸ばしていることに気づくと満足そうに頷いた。
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