希望
「見つけたぞ!おい、大丈夫か!?」
荒々しい声が、
「……真神、さん?」
寝ぼけながら呟いたその言葉が自分自身を起こし、バッと体を起こして辺りを見回す。倒れてきた太い木、そして自分の体についた血痕。先程までと同じ場所にいるようだが、この場には一つだけ足りないものがある。桜真神が、いない。機敏な動きをし辺りを見回す、元気そうな彼女を見てホッとした中瀬は、怪我しているように見える血のついた手をそっと掴みあげる。
「おや……これは?」
「……どういうことだ」
その異質な手に中瀬だけでなく石田も驚きの声を上げる。怪我をしているのが明らかな見た目であるのに、傷口は一切ない。中瀬も目をカッと見開いて何度も確認する。当たり前だ。怪我をしたのは風華ではなく桜真神であったのだから。彼女に当たり前の出来事であっても、あとから来た彼らにとっては不可解に違いない。しかも、怪我をした当の本人は雲隠れしてしまったのだから。怪我をしていないと分かった中瀬は胸を撫で下ろし、微笑みを彼女に向ける。
「とにかく無事でよかったよ。じゃあ、邪魔にならないように森を出ようねえ」
「……」
風華は彼の言葉にどう反応すればいいか迷っていた。これほど危険な真似をしておいて、真実を隠してここに留まれはできないだろう。しかし真実を伝えたとして信じてもらえるかも怪しい。……それでも、あんな桜真神を目の前にして、消えた彼を探さずして森を出られるわけがない。彼女は深く息を吸って、それでいて弱々しく言葉を発した。
「探して欲しいものが、ある……」
「何を言ってるんだ!」
彼女の言葉に、真っ先に異を唱えようとしたのはもちろん石田だった。顔を真っ赤にして彼女を萎縮させるほどの叫びを出すが、中瀬が右手を彼の前に出し、例のごとく静止する。
「風華ちゃん、なにか落としたのかい?」
「……祠を、探して欲しい」
祠という言葉に反応するように、中瀬が難しい顔をする。さらに反応したのは工事をしていた人々。顔を見合わせて小声でやりとりをする。
「祠ってあれか?神様がいるっていう」
「こんな森の中にあるのか?」
「いや、下見の情報だとそんなものなかったらしいが」
中瀬はそんな余所者の呟きを耳に入れはするものの、どうでもよいと聞き流し、彼女にその祠について問う。
「この森に祠があるのかい?」
「うん。小さくて、古くて……壊れそうだけど、あるよ」
「そうかい」
中瀬は工事の男どもをジロッと貫くような瞳で見つめた。見つめられた彼らは、その瞳の奥にある敵意に体を震わせる。そしてふっと風華の方へ、中瀬は優しい声とにこやかな笑みを向けた。
「どこにあるのかわかるのかい?」
「……わからなく、なっちゃった」
泣きそうな顔で俯きながら答える。目印であった黄色のたんぽぽは、もう光っていない。それでいて、倒れた木々や枝葉に邪魔され探すのも困難だ。彼女の悲しい表情につられ、中瀬もしんみりとした気分になる。しかしそんな彼女の足元。地面に違和感のある石が露出してるこに彼は気がついた。さらに土を軽く足で払うと、道標として使われるような石畳が見えてきた。これを目の前にし、風華も祠の近くで同じような地面を見たことがあるのを思い出した。
「これは……そこの若いの、向こうにライトを当ててくれるかね?」
中瀬は懐中電灯を持っている作業員に命じると、特に拒む様子もなく彼の言う地面を照らす。するとそこをじっと見つめた中瀬は、この先の不自然な地面に気がついた。今立っている石畳もそうだが、地面に石が埋まっているからか雑草が生えていない場所があるのだ。生えているように見えるそれは、脇から飛び出ている草のせいである。この特徴を踏まえ道を凝視すれば、印を辿っていくことができるだろう。
「風華ちゃん。これはきっと祠の目印だねえ。草の生えていない場所を辿っていくんだよ」
「……うん!」
風華と中瀬を先頭に、集団は石畳の埋まっている可能性のある、草が生えていない場所を辿っていく。風華だけは、その横に黄色の野花が咲いていることに気づいている。桜真神が印に咲かせた花は、祠に通づる石畳に沿っていたのだ。やがて段差を登るとそこには、風華に見覚えのある小さくて古い、ひびの入った石造りの祠があった。中瀬は驚きを隠せないようで、祠に近づいてまじまじと辺りを見回す。
「なんだと……こんな祠なんかがあったのか」
石田も彼と同様に、目をかっぴらいて驚きその場で立ち尽くしている。そしてさらに驚きを隠せない者が後ろにいた。
「おい、本当にあるじゃねえか。確認ミスじゃねえのか?」
「知らねえよ。こんな古い祠、
「どうだっていい?」
そんな一人の、何気ない発言。禁句と言っても過言ではない発言に、怒りを露わにする者が二人。中瀬の優しい顔が、血管がはち切れそうなほど真っ赤に染まりゆく。彼の本気の怒りを知っている石田はいつもの強気な様子とは一変、引きつった表情で声も出せないでいる。ただ、そんな中瀬より先に声を出したのは風華だった。
「どうでもいいわけないじゃん!これを壊したら、もう真神さんに会えないんだよ!」
「風華ちゃん……?」
「傷を負ってまで、私たちを守ってくれてるのに!なんでそんな酷いこと言うの!?」
涙をポロポロ零し、腕を震わせながら感情を解放する。風華が抱えていた、桜真神への愛が爆発したのだ。だが無情にも、彼女の溢れんばかりの感情に、中瀬以外はポカンと呆気にとられ固まるだけ。こんな古びた祠の重要性を分かる者なんていないのだろう。真神なんて不意に言われても、いるかどうかすら分からない存在。そんな存在の安否なんてどうでもいいと誰しも思うだろう。神を実際に目で見ることなど、本来できやしないのだから。だが中瀬は、彼だけは彼女に歩み寄り、慰めるように頭を撫でる。その顔は悲哀に満ちていた。そうして落ち着くまでそうしていた彼は工事の従業員、全員を柔らかく尖った声で突き刺すように命令を下した。
「君たち、工事は中断するんだよ」
「な、そんな勝手なこと!」
「中止じゃない、中断だよ?一日の遅れも許されないのかい?」
本当は工事を中断するわけにはいかない。だが有無を言わさぬ中瀬の声色に、唇をぎゅっと強く噛んで首を縦に振るしかなかった。
「石田、神主さんを呼んでくれないかね。今すぐにだよ」
「……あぁ」
彼が何をしようとしているのか勘づいた石田は、すぐにスマートフォンを手に取ってどこかへと電話をかけ、そのままどこかへと行ってしまった。なにがはじまるのか分からないと言った様子で立ち尽くしている集団に、中瀬はキッと睨んでから柔らかな声で命令する。
「君たちはさっさと退くんだよ」
「ぐっ、ジジイが指図すんじゃね」
苦言を呈した彼らをさらにキツく睨んだ後、にこっと微笑みを向けた。あまりに不気味な中瀬の笑みにヒィっと思わず声を上げ、数人は顔に冷や汗が浮かびはじめた。
「さっさと退いてくれないかね?」
彼が優しく聞こえる声でそう言うと、工事をしていたはずの彼らは怯えたようにそそくさと森から飛び出て、中断の旨を他の関係者に通達しに行った。そうして祠に前に残ったのは中瀬と風華。二人の間に数秒の沈黙が生じた。中瀬は今にも崩れそうな小さい石造りの家の前で、涙をポタポタこぼしている彼女に声をかけた。
「風華ちゃん。ここにいる神様……
「え……」
風華は俯いていた顔をガッとあげ、驚いた表情で彼を見つめる。そんな彼女の反応を見て微笑みながら、苔むしてひびの入った屋根をそっと撫でる。
「やっぱりそうかい。ようやく見つけられたよ」
「……知ってるの?」
弱々しい声で呟く。そんな彼女の呟きに、中瀬は目を閉じてゆっくり顔を横に振った。
「いいや。私自身は知らなかったよ。信じていたとすら、言えなかったかねえ」
申し訳なさそうな、それでいて悲しそうな表情をしていた彼であったが、少し間が空いてから風華の瞳を見つめた。見つめられた彼女は不思議そうに首を傾げ、彼から言葉が出るのを待った。
「……風華ちゃん。桜真神様についてのお話。私の、おじいさんの話になるんだが……聞いてくれるかい?」
そう呟いて、何かを思いだすように目を閉じ、ゆっくりとそれを語り始めた。
――それは百二十年ほど前のこと。
昔、この森を挟んで二つの集落が存在していたそうだ。桜の並木のある、花に恵まれた土地の集落。そして川の流れる、水に恵まれた土地の集落。中瀬定義の曽祖父、
一つ。狩りは決められた時間に行う。
一つ。一度に狩る動物は三匹までに。
一つ。罠を仕掛けることは禁止とする。
互いの長はこれに同意し、しばらくはこれに準じて狩りが行われていたようであった。
だが、ある夜。朧気な月の光の下、義晴が何気なく家の前を軽く散歩しているときのことだったそうだ。森の中から重圧のある音が響いてきたらしい。狩りのルールにあった通り、決められた時間にしかそれは行ってはいけないはずだった。真夜中に狩りをするのは、言わずもがなルール違反であった。彼は複数の銃声が響く中、まんまるいガラスでできている、やんわり黄色い光を放つオイルランプを持って一人で森へ急いで向かい、音のする方へ歩みを進めたらしい。そして現場に着けば、そこは酷い有様だったようだ。五、六匹ほどのオオカミの死体に、それを持ち去ろうとする違反者の群れ。彼らは義晴の姿を見るなり、焦った様子で持ち運ぼうとしたそれを手放し、逃げ帰っていったらしい。
近年、森にはオオカミが全く姿を見せなくなっていたようで。少し前は餌を求め、集落に群れで現れるほど当たり前にいた存在であったらしいのだが。姿を見せなくなったのは、きっとルールを決める前にどちらの集落も好き勝手に動物を狩ってしまっていたからだと、義晴は考えていた。掟を決める前の彼らは、村に姿を見せたオオカミを問答無用に殺傷していたらしい。育てている家畜を食われてしまうことから、害悪な存在と忌み嫌われ殺されていたようだ。なぜ集落に餌を求めて出現したのかを考えもせずに。それなのに、やっと姿を見せてくれたオオカミを、神の施しとも言える森の財産を不届き者らは一瞬で奪ってしまった。森の神様はさぞお怒りだろうと、義晴はその恐怖に震え上がってしまったようだ。彼はランプを地面に置き、オオカミの死体を撫でながら辺りを見回してみると、群れから離れたところに、さらにもう一頭のオオカミの亡骸を見つけたそうだ。転がっている者の中で一際体格が大きく、体毛がぶわわっと立派に生えている、そんなオオカミを。義晴はその横たわったそれの目を見たとき、ゾクッとする悪寒が体を支配したという。死んでいるというのに、呪いを帯びた目でこちらを睨んでいる気がしたらしい。激しい憎悪を感じるような、影に覆われた瞳。このままではきっと、人間を祟る神になってしまう。
そう考えた義晴の行動は早かった。祟り神になる前に森の神として崇め憎悪を鎮めてもらうほかない。彼はすぐに集落の人々を呼び、ますまはオオカミの群れを真っ暗な中、丁寧に並べ直したそうだ。オオカミの長と見受けられるそれを中心とし、寂しくないように仲間をそばに。そんな長の体を運んでいる最中のこと。オオカミの主の体から一枚、ひらりと桃色の花びらが落ちたそうだ。義晴はそれを見るなり、桜が好きな、自然を愛する清らかな魂を持っていたのだと悟り、悲哀の表情を浮かべたそうだ。一層悲しみの念が強まった彼は血生臭い中でも気にせず、魂が適切に浄化されるよう目を閉じて集中し、祈りをささげたそうだ。オオカミとしての魂が、憎しみから解放されて欲しいという願いを込めて。その後はその場に肉体を埋め、塩や水を撒き、辺りを清らかな場所になるよう準備を進めたらしい。
そうして数日かけ、オオカミの神様の聖域を作りあげたそうで。崇拝するために、亡骸を埋めたその真上に石で祠を作り、灯りを二本建て、森の外に通づるように石畳を点々と敷いた。体が大きく立派であった、あのオオカミのための祠。中に隠し持っていた桜の花びらを飾り、義晴はここに住まうオオカミの神様を桜真神と名付けたそうだ。集落の動植物……桜の繁栄を願って。
――これは、中瀬義晴の日記に記されていた出来事である。
神となる前、人間に殺された。そんな衝撃的な過去に風華は目を丸くし、驚いた顔をしたまま、何も言えなくなってしまった。感情の整理が追いついていない彼女を見て、中瀬も沈黙するしかなかった。冷たく、怖い風がぶぉーっと吹いてから、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしながら彼女へ謝罪をする。
「風華ちゃんには少し辛かったか……すまないねえ」
彼は何も悪くない。悪いのは全て、過去に置いてあるのだ。だが彼女はふと中瀬義晴について疑問を抱いた。祠を立てた本人は、その後どうしたのだろうか。桜真神の信仰はどこで途切れたのだろうか。
「……ねえ。真神さんは、いつから忘れられちゃったの?」
彼女の意外性のある質問に中瀬は驚きつつ、悩ましい顔をした。彼にも質問の答えが明確には分からなかったものの、日記の続きに材料があった。
「忘れられた……。そうだねえ……当時の彼らは皆老人であったそうで。一番熱心だったその集団も、数年のうちに全員亡くなってしまったみたいなんだよ」
義晴率いる桜真神を信じていたその集団は、皆寿命の残り少ない老人の集まりであった。義晴自身は祠を建てた翌年に病に敗れ、命を落としていた。
「そもそも足腰も悪く、森に行くのも大変だったそうでねえ。さらにはそんな短い時間で伝承は広まらず、廃れていったみたいなんだよ」
老人の集団の欠点とも言えるもの、伝承を伝えるには少なすぎる寿命に、祠へ通うにも満足のいかない体。それら全てが悪さをしている。だがこれらも桜真神にとってはどうでもいいことであり、彼の立場からすれば人間が自分勝手だというほかないだろう。自身をオオカミとして殺めたのも、神として生かしたのも、人間であるのだから。
「風華ちゃんは、桜真神様とどんな話をしたんだい?」
「どんな、話……」
中瀬は彼女があまりにどんよりとした悲しい顔をするので、楽しい出来事を思い出させるためにそんな質問をした。もちろん、桜真神のこと自体が気になっているのもある。しかしその質問は、今の彼女にはかえって逆効果となるのだ。
「真神さんは、私を守るために……」
衝撃的な過去と、衝撃的な現実。その二つをこの短時間で味わえば、彼女の心など容易に壊れる。ましてや、まだ人生の春にいる彼女にはあまりにも重すぎる話であった。楽しかった出来事など、どこにもなかったかのように。風華の心には既に黒い絵の具が、パステルカラーなどまるで最初から存在していなかったかのように塗られていた。彼女が目から涙も出なくなるくらいの絶望を感じている、そんな時。森の外へ一度出た石田が戻ってきた。
「おい、中瀬。すぐ来てくれるらしいぞ」
その言葉にホッとしたようで、中瀬は風華に歩み寄ってそっと頭を撫でる。その手のひらの温もりが、微塵も彼女には伝わってはいなかった。
「風華ちゃん、大丈夫だよ」
それでも彼は丸みのおびた柔らかい声で、頭を撫でるような優しい声で彼女を励ます。風華の顔には光が無く、雲に隠れて何も見えない。それでも、彼は声をかけ続ける。
「いいかい。大事なのは桜真神様を信じること。神様は、私達が信じている限り、きっと消えやしないよ」
彼の言葉に、風華はハッと桜真神の強気な顔を思い返す。彼女の目にポッと小さな、小さな光が宿った。
「信じれば、消えない……?」
そうだ。彼は風華と出会ったあの日、傷だらけであった体が信仰によって回復した。彼女が愚かにも危険を犯してボロボロになったあの日も、彼の力によっていつのまにか綺麗な体に戻っていた。そんな事ができる彼が、そう易々と存在を消したりするはずがない。彼女の目に
「そう。だから、笑いなさい。辛くて、苦しくて、悲しいだろう。でもきっと、桜真神様も、風華ちゃんの笑っている姿の方が好きなはずだよ」
思えば、桜真神は風華が無理をしている顔が嫌いであった。傷つく姿が嫌いであった。彼は不器用で、煩くて怒りっぽいが……それでも、彼女のことを心配していた。なら笑うべきなのだ。彼がそれで元気を取り戻すことができるのなら、無理にでも笑わなければならない。徐々に目に浮かんできた水滴を指で払って、パチッと大袈裟に瞬きをする。
「……うんっ!」
そうして風華が無理やりにでも笑顔を取り繕ったそのとき、道に咲く黄色い花が、そして祠の前の消えていた灯篭がぽわっと光った。中瀬も風華も気づかなかったが、石田だけはその一瞬の違和感にぼんやり気づいていた。それは何かの合図なのだろうか。微小だが笑顔を取り戻した彼女をみて、中瀬もほんのり笑みを浮かべ、彼女の背中をぽんと叩く。
「さあ、風華ちゃん。今から、神様のお引越しが始まるよ」
風華は声色を明るくした彼の言葉に、内容は分からないものの希望を感じた。重く苦しい過去など忘れていい。今彼女が抱えるべきは、桜真神への信仰なのである。
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