愚者

 走る。彼女は草をかきわけ、走る。騒ぐ心を押し殺し、とにかく走る。彼女の足首に尖った木の枝が時折刺さり、擦り傷も増えていく。だが痛みも呼吸の苦しさをも、感じている暇は彼女にはないのだ。芯の柔らかくなったぶらんぶらんの腕を必死に振り、頭を何度も何度も前後左右に揺らす。彼ならば大丈夫だ、ということは分かっている。彼が不意にいなくなることがないことを、風華は十分に理解している。だがそんな思考とは裏腹に彼女の足は、心臓の鼓動は煩く動き続ける。この森はそれほど広くない。大人の男性が森林浴、ハイキングをしたとして、おおよそ四十分あれば歩いても全域を見渡せるだろう。しかしそれは、小学生の女児が疲れ切るには十分すぎるほどである。数分駆け回った後、ついに彼女はぐったりとした様子で腰を下ろした。気がつけば靴も靴下も、土を浴びて薄く汚れている。彼女の呼吸は、座り込んだ今でも乱れっぱなしだ。ぜえぜえと過呼吸気味になりながらも、なんとか落ち着こうと胸に手を当て、無理やり鎮めようとする。靴の上に巨大な岩でも乗っているのかと錯覚するくらいの、ジンジンとした痛みが腰辺りまで響いている。痛みは増していくばかりで、段々頭がぼうっとしてくる。こんなところで倒れてはいけない。彼女は自分にそう言い聞かせるように、深呼吸をして体を落ち着かせ、ようやく視界にまで意識を回せるようになってきた。自己の周りを何周も何周も見回して、今自分のいる位置を把握しようとする。だが彼女は最も重要なことを忘れている。ここまで、いっときの感情の爆発で我武者羅に走ってきた。目印をつけながら慎重に来たわけではない。それどころか周りの景色を、歩いてきた道を覚えるほどの余裕はあるはずもなかった。そんな彼女には当然、自分が今どこにいるか分からないのだ。後先を考えない、彼女の愚かさがまた足を引っ張っている。彼女の顔が、藍色の絵の具に塗られたように青ざめる。もちろんこんなところには、桜真神の作ってくれた印などない。祠まで戻るにしてもその方向すら分からない。極めつけはこの森の暗さ。目を凝らしてようやく足元が見える。少し遠くのものは、輪郭だけやんわりと。これではもしも賢く目印をつけてきたとしても見つけるのは骨が折れるだろう。彼女は途方に暮れ、上を見上げて放心状態になる。冷たい風が彼女の恐怖を際立たせるように通り過ぎる。

 ――怖い。

 彼女の心臓はまた強く鳴り響いている。だが、初めてここに訪れていた彼女とは違う。自分を見くびるなとでも言うように、バッと力強く立ち上がり、泣きそうであった顔をキッと引き締める。このまま助けを待つだけでは、きっと桜真神に呆れられてしまう。でいるのに、また迷子なんてくだらない理由で手を借りるわけには行かない。彼女は自分自身の体中に蔓延る怖いという感情を、必死に、必死に押し戻す。そして一歩。とにかく歩き出さなければいけないという思いで一歩踏み出した。そんなときだった。

 ――カサ。

 落ち葉でも踏んだような音が聞こえた。彼女の足元に枯れ葉でもあったのだろうか。しかしそうではなかった。彼女は瞬時に後ろを振り返り、見えないそこをじっと見つめている。ぼんやりとだが、風華の胸下あたりの高さまでこんもりと茂った草が見える。顔以外はすっぽりと埋まってしまいそうな茂みだ。小さな白い花と赤い蕾のようなものが点々としている、そんな茂み。

 ――カサカサ。

 草が揺れた。風でも吹いたのかと考えたが、あの不気味な冷たい風は彼女には感じられなかった。彼女の中で、風の揺れ方ではないことが確信づけられた。草が揺れた他の要因があるとすれば、こと以外考えられないだろう。

 ――カサカサカサカサカサ。

 次第に揺れが激しくなり、最初は遠くから聞こえていた音が近づいてきている。彼女はじっと見つめたまま動かない。いや、動けなかったのだ。怖くて足が張り付いてしまっている。額に汗が滲み出て、垂れる。

 ――カサカサカサカサカサ、バサッ。

 次第に大きくなる音と共に、茂みを揺らしていたなにかがついに飛び出し、正体をあらわにした。豚のような鼻と体に、茶色っぽい毛色。フゴッ、シュルシュル、と音を発している。イノシシだ。それはシューシューと音を繰り返し、風華の方を見てほんの少し静止する。それに対し彼女は、震えもできず完全に硬直してしまっている。だがそれは一瞬のこと。身の危険を察知したように、彼女の全身からぶわっと汗が噴出した。その異常な感覚とともに、急いでどこかへと走り始めた。イノシシが人を襲うニュースなど幾度も見た。彼女はイノシシを熊と同列の、だと思っているのだ。だからこそ、懸命に手を振りながら走る。しかし判断が遅かった。イノシシは構えを解き、カッカッカッと音を立て、彼女目掛けて突進してくる。当たれば彼女の体は吹き飛んで宙に舞うだろう。命の危機には違いない。だが残酷なことに、今の彼女に逃げる術などなかったのだ。イノシシが風華に追いつくのに三秒も要さない。脇目も振らず走っていた彼女の、ふくらはぎにも伝わる風圧。同時に伝わった絶望に、目を瞑るほかなかった。……その絶望はに打ち消された。ゴスッ、と鈍い音がしたのと同時に、心地の良い暖風が彼女の頭を撫でるように吹き抜けた。

「臆病なただの豚が人を襲うとは、いい度胸だな」

 荒々しい鼻息と大地が揺れるような低い唸り声の方を向けば、そこには煌びやかな装束を纏ったオオカミの獣神、桜真神がいた。彼が風華のすぐ側まで迫っていたイノシシを殴り飛ばしたのだ。彼は倒れ込んで動かないそれを、グルルルと唸りながら睨み続けている。するとそれはいそいそと体を起こしてどこかへ去っていった。風華に対して背を向け続ける桜真神に、彼女は声をかける。

「真神さん、ありが」

「ふざけるな」

 振り向いた彼の顔はまさしく鬼のようだった。牙を剥き出しにし、顔に無数の血管が浮き出ている。そんな彼の顔を見て風華の顔から安堵の笑顔は消えた。

「なぜこんなところにいる」

「だって、いつものとこに真神さんがいなかったから……」

 おどおどとした様子、震えた小さな声で彼女は答える。桜真神は睨み顔を解かないまま。

「馬鹿者が。そこにいなけりゃ留守なことくらい、分かるだろう」

「……分かってた。分かってたけど」

「けど、なんだ?」

 桜真神の顔が、今までに見たことないくらい強ばっていく。眉間に皺が寄って、顔も拳もぷるぷると小刻みに震えている。

「桜の様子が変だって聞いたから……もしかしたら真神さんに何かあったのかもって」

「ぐっ……あぁ鬱陶しい!」

 ついに彼に限界が来た。顔を真っ赤にして怒号を浴びせる。耳がキーンとなる、体に振動が伝わるほどの怒号。今まで彼がここまで声を荒らげることはなかった。今まで、彼女の予測のつかない危険な行動には驚かされたが、それでも彼は目を瞑っていた。それはから。だが今回は違う。

「会うたび俺のためだ俺のためだって……こっちは頼んじゃねえんだ!」

「え……」

「誰が命を賭せなんて言った!一生の信仰を貢げなど誰が!」

 彼の内に溜まっていた不満が次々に爆発していく。突然の嵐に遭遇した風華は泣き出すことも言い返すこともなく、呆気にとられている。彼が何故怒っているか理解できなかった。

 ――彼のためは、悪いことなの?

 桜真神は荒い呼吸を繰り返して叫ぶ。

「俺が間に合わなきゃお前は死んでた。俺を探す道中で、死んでたんだぞ!?」

「それは……!」

 風華の口から言い訳が飛び出そうになる。しかし彼の真剣で、なにかに怯えた表情を見て何も言えなくなる。。それは言い訳のしようもない事実なのだ。迷子になった程度なら、彼は呆れはするがこれほど怒らなかっただろう。彼女はここまできてようやく彼が激怒している理由が理解できた。


 ――そうだ、待てばよかった。


 彼が心配なら、祠の前で帰りを待てばよかったのだ。そんなことも思いつかないほど冷静でない状況で、行動を起こすべきではなかった。下手したら取り返しがつかなくなっていたのだ。思い返せば彼女は、この森が危険だという忠告を彼からも、別の人物からも受けていた。自分が悪い。彼女はそれ以外のことを考えられなかった。反省の様子が見て取れる彼女に、桜真神はくっと渋い顔をし、これ以上の追撃をやめた。彼女から顔を背けてしゃがみ、手のひらを地面につける。彼女の足元からどこかに導くように、が、次々に出現する。

「……辿れば帰れる」

 それだけ告げ、彼は歩き出そうとした。

「待って、真神さん!」

 桜真神に彼女は勢い余って叫ぶ。聞きたいことが山ほどあった。だからこそ彼女は、愚かな真似をしてまで彼を探していたのだ。だが呼びかけた理由は、もう当初の目的には当てはまっていなかった。ここで別れたら、二度と彼に会えなくなるような気がしたのだ。彼は彼女の声で足を止めた。背を向けたまま次の言葉を待つように立っている。彼女は不意に出そうになる甘くて狡い思考、言葉を押し殺し、絞り出すように一言発した。

「ごめんなさい」

 彼の耳が、彼女には気づかれないほど僅かに反応した。しかしそれ以上なにかが帰ってくることも無く、立ち止まったままである。数秒の間が空いてようやく、彼が口を割った。

「俺の事など忘れろ。もう、ここには来るな」

「なんで」

「……二度と、近寄るんじゃねえ」

 桜真神の静かで重圧のある声に、彼女はそれ以上言い返すこともなかった。目に涙をため、それでいて必死にこぼさぬようにして花びらを辿って去っていった。

 彼は彼女がいなくなったことを悟ってもなお、しばし立ち尽くしていた。彼女に見られることもなかったその顔は、隠しきれない寂しさで溢れている。頬の桜の文様も、彼女といたときと比べ輝きが弱くなっている。彼はようやく後ろを振り返り、彼女の辿った道の方へ視線を向ける。先程まで彼女がいた地面に、赤いパッケージのが落ちていた。彼は屈んで、つまみ上げるようにして拾う。袋のゴミではなく中身が入っている。彼女が落としたのだろうか。見慣れないパッケージをまじまじと見ていると、裏側にペンで何かを書いた跡があった。そこに書かれていたのは、『元気』という漢字。他は潰れていて読めなかった。しかしお節介な彼女が書くようなことは、彼にはなんとなく想像がつく。元気を出してほしい、といったような事が書かれていたに違いない。そう考えた彼の顔に、じわじわと悲壮感が増していく。大事そうに菓子を握り、祠を目指して歩く。沈黙が、彼に酷く突き刺さっていた。

 

 俺は全くの愚か者だ。俺を慕っていたを、俺の未熟さで弾き出した。ずっと望んでいたはずだったを、俺は。期待して、覚悟して、自分を曝け出していたはずだった。俺の責任でもあるはずなのに、全て押し付けて背負わせてしまった。恩を仇で返すとは、このことだろうか。……だがこれは仕方のないことなんだと、未熟であるからこそ思い続ける。俺のせいで彼女が危険な目に会うなどあってはならない。俺は最初から一人だった。


「……これでいい」

 彼は自分を納得させるように呟く。顔にくっきりと書いてある寂しい、という感情は消えそうにない。体を丸め、生気を失ったようにして歩く。いつの間にか輝かせていた目の光は、これまたいつの間にか消えてしまった。


 風華が森を出たとき、外は既に夕暮れ時であった。真っ赤な夕空が、彼女には眩しく感じた。カラスの鳴き声が遠くから聞こえる。群れを作り鳴きながら飛んでいくそれは、普段であれば騒々しくてたまらないはずなのに、彼女の耳にはなにも入らない。田んぼの畦道をゆっくり、一歩ずつ進んでいく。その足に力は篭っていなかった。走り疲れたという要因ももちろんある。しかし彼女の胸にあるモヤモヤした気持ちが、体をぎゅっと縛り付けて足取りを重くしていた。下を向き歩く彼女の視界には、自分の足すら映っていない。

 ――二度と近寄るんじゃねぇ。

 桜真神に言われた言葉。彼女にとってを失くしたあの言葉が、強く脳裏に焼き付いている。これだけボロボロになって走り回って、ようやく出会った彼に突き放されてしまった。その喪失感は言うまでもない。ただ彼女自身の心配が杞憂で終わったことが、不幸中の幸いであったと思うばかり。そうしてフラフラとした足取りで帰路に着くが、途中で異変に気がついて歩みを止める。足の傷が癒え、汚れていたはずの服や靴が綺麗になっている。確かに先程までは、足に無数の擦り傷ができ、服は茶色に汚されている醜い姿であったはずだ。だからこそ、彼もあそこまで怒っていたのだろう。そう考えたところで、なにかに気がついたようにハッと顔を上げる。こんなことが出来そうなのは、彼以外に思いつかない。彼女は過去に信仰を受けたという理由で、傷を治した美しい彼の姿を思い出す。あれがもし信仰の力ではなく、神の御業だとしたら。彼はなぜわざわざ、その力を使って彼女の傷を治してくれたのだろうか。彼女なりに頭を働かせる。風華はてっきり、彼に嫌われたのだと思い込んでいる。彼の口調からは風華に対する怒りしか感じられなかった。彼女の危険すぎる行動に嫌気が差し、突き放したのではないか。実際彼女がイノシシに襲われて死んでいれば、彼も原因の一部となる。そうなると彼は果てしない罪悪感に苛まれるに違いない。……彼は、風華が傷つくことを恐れていたのではないか。彼の心配をするあまり、彼女は単純な気持ちに気づくことがなかった。彼が風華を突然突き放したわけではなく、彼女が桜真神の心配を拒み続けていたのだと。きっと彼は、彼女が心配でたまらなかった。自分は危ない目に遭わない、何かあってもなんとかなると能天気な思考をしている彼女が。その心配を受け入れれば、今日のことは避けられたかもしれない。今日の事故は彼女自身の甘い考えが招いたものなのだ。彼の優しさに気づいた彼女の心が、さらにズキズキと痛む。もっと早く気づいていれば。自分を責め足りないと言わんばかりに自己嫌悪に陥る。罪を犯したようなずっしりとした頭の感覚と、止まない胸の痛みを抱えながら、少しずつ家に向かって歩みを進めていく。綺麗だったはずの夕焼けは、罪人を燃やすような赤黒い空に変貌しているように見えた。

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