3-3 孔雀

──時は少し遡る。




 セリスとシャルルが持ち帰ったデータをもとに、マリクは沈黙の中で魔法演算を進めていた。無数の魔法陣と文字列が、白紙の上で息をするように脈打っている。文字だけでも力を発揮する『』魔法式。



「そんな苔むした方法で演算するより、ディオニウスにかければ即座に最適解が出る。──全く時間の無駄だな。」



 アルヴィスが吐き捨てるように言い、冷ややかな眼差しをマリクの孔雀緑の髪に落とした。



「でも僕は、知っておきたいのっ。何が“正しい”かなんて、いつも決まってるわけじゃないっ。“揺らぎ”の中にしか見えない答えもあるんだっ。ディオニウスには、それがないのっ。」



 いつものように語尾を伸ばす癖はそのままに、それでも、言葉には確かな熱があった。

 机の上には、魔法文字と呼ばれる幾何学的な線と、精緻に刻まれた魔法文字が、天から降り注いだ雨が大地を潤し、川を作り、大河を作る様子にも似ている。



「今回の敵は、風属性魔法でこちらを威嚇してきたっ。僕より風を操る存在なんて…許せないっ。」



 その孔雀緑の目には、僅かに怒りと、焦燥と、苛烈な自負が滲んでいた。




「自惚れか。つまらんな。」




 アルヴィスの口元がゆがむ。嘲笑とも挑発ともつかぬ、剣呑な笑み。



「何年も前線に立たず、ディオニウスにも選ばれない“お飾り”の騎士よりは、幾分かマシだと思うにゃ。」




 一瞬、空気が凍った。マリクの軽口にしては、あまりにも鋭すぎる刃。何もかも斬る風属性の魔法のように、容赦なく言葉でも斬っていく。



 アルヴィスの頬が僅かに引きつる。




──そう、12騎士の頂点に立ちながら、ディオニウスには『選ばれない』。それは今や、誰もが口に出さずとも知る“事実”であり、彼にとって最大の屈辱だった。




 その沈黙を、ひときわ艶やかな声が破る。




「最高だわァ、Mon petit chou可愛い坊や! それだけじゃなくてェ、強くて聡いなんて。──全部欲しくなっちゃうゥ。」




 シャルルは妖しく香る、毒をまとった孔雀。艶やかに腰をくねらせながら、孔雀緑マリクににじり寄る──。

 濃密なムスクの香りとともに、その漆黒の闇のような長い睫毛がパチリと瞬いた。



「ダメよ、シャルル。マリクの瞳は私が予約しているの。」



 さらりと割って入ったのは、ヴィーチェ。夕暮れから闇に変わる逢魔が時のような美しい橙色、完璧なメイク、深紅に染められたネイルまでもが計算された美を演出する。“美”にしか興味がない彼女が、宝石でも眺めるようにうっとりとマリクを見つめていた。



「スターライトアイズ…。未来を予想できる、不思議な光をもつその瞳。飾って置きたくなる。」



 シャルルはくすくすと笑い、漆黒の長いネイルで飾った指を、紫色のルージュで輝く口元に当てる。



「ヴィーチェ。いい趣味だわァ。じゃあ…ワタクシは、光を失って堕ちていく“可愛い子”が見たいわァ。」



 彼は遠くで憮然としているアルヴィスを目の端に捉えながら、更に煽った。




「虚飾に塗れて、絶望の中で震える人間と、可愛い子。最後にどんな音を奏でてくれるのかしらァ。違うハズよねェ──考えるだけで、ゾクゾクしちゃうわァ。」



 冗談とも本気ともつかぬ囁きに、部屋の空気がぬめり始める。毒を帯びた甘い誘惑。獲物を囲う蜘蛛のように、二人の視線がマリクに絡みつく。


「ひっ…、恐いっ…。セリスっ、助けてっ。」



 マリクはびくりと肩を跳ねさせ、ペンを投げ捨て、横にいるセリスの腕にしがみつく。優しく香るラベンダーに心が癒やされた。




 瞳に浮かぶのは、恐怖というより純粋な戸惑い。魔法以外に疎い彼には、ふたりの存在はあまりにも強烈すぎて、目眩しか起こらない。



「ふたりとも、この単細胞で遊ぶな。これでも魔法大学副学長で、私の形だけの上司なんだ。」



 セリスの冷やかな視線がふたりを射貫く。ふたりの毒気にあてられそうになっていたのは彼女も同じだった。



──自分にはない妖艶な香り。



 それが羨ましいと思った瞬間、唇が強ばった。セリスは動揺している理由が、その焦りの元がよく分かっていた。



 戦いしか知らなかった自分が、初めてドレス袖を通した時に、彼は抱きしめてくれて、またそうすることを約束してくれた。



 それが二年も経っても実現していない拭いきれない焦り。



 華がないとダメなのか。同じガンメタリックのスーツを着ていても、ふたりには華があるのに。



 彼女は思わず指を絡めて、その白金の細い髪をかきあげた。





「そ、そうだよっ。僕で遊ばな…。」



 怯えていた彼の顔が突然引き締まると、誰もいない部屋の隅に向かって術者は両手を胸の前で軽く組み、祈りを捧げるかのように、目を閉じ、呪文の詠唱を始める。



"Veni, Aura Serenatrix, spirans pacem, solve chaos magicae!"

(来れ、安らぎの風、平和を運び、魔力の混沌を解き放て)



【Aura Serenatrix】(安らぎの風)


 マリクがゆっくりと手を開くと同時に、床に紺碧色の魔法陣が輝きながら浮かびあがり、その中から、レインに肩を貸してもらい、虚ろな表情をしているアレックスの姿があった。




「重いんですよ。身長差考えてください。死んでいるわけじゃないんですから、ご自分で歩いてください。」




 レインはマリクが生成していた優しく緑色に色づき、ジャスミンの香りを漂わせる風の中に、彼の背中を強く蹴り、無理やり押し込んだ。




 普段なら隙のない彼が、簡単に背後を取られ、蹴りまで入れられている姿に、部屋にいた者は思わず息をのんだ。





「俺の見立てでは、血中の魔力濃度が上がっている。“浄化”できるレベルでよかったですね、聖下ぴぃたん。ついでに合法的に蹴りまでいれさせてもらえて、『神と星の導き』に感謝しまーす。」



 レインはここぞとばかりに彼に蹴りを入れていた。教皇であるアレックスが祈りの最後に発する『神と星の導きによりて』を皮肉っていた。



 先程、彼が見せた術は完璧だった。術式だけではなく、光も力も全てが神聖な祈りのようで、僅かでも心を恋敵に奪われてしまった苛立ちを蹴りに込めている。



──いつもそうだ。そうやって自分は二の次。俺とシオンに負担をかけないように、高威力の魔法を連続でつかって、このザマだ。そんなあなたを嫌いになれない自分にも苛つくんだよ。




 レインの苛立ちを全く視界に捉えることなく、アレックスのここまで疲弊した姿を初めてみたセリスは蒼白になり、身体を小さく震わせていた。




 優しい風の中で緋色の髪を静かに揺らしながら、彼は静かに目を閉じて、気持ちよさそうな顔をして、深い眠りに入っていく。



「この魔法をかけられた相手はぁ、回復するまでぇ、起きないにゃ。そして、外からは干渉することはできないからぁ、十分くらい待ってねっ。」



 甘いふくよかなジャスミンの香りが部屋の中に渦巻いていた毒気をも清浄にしていった。

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