第24話 自動消去プロトコル
記憶の変化は微細なものだった。
下層の街並みは何処を切り取っても色がなく寂れている。先程の場面は高架下の出来事であったため辛うじて判断出来たが、似たような通りに移動していたら三人は場面の変換に気付けなかったかもしれない。
「アレって第9前線基地の入口じゃない?さっき私達も通ってきたところよ」
ふとエセルが前方を指差した。
彼女の指先には地面に倒れるナギの姿があった。先程の汚れ、所々破れた服装に満身創痍の身体──とはいえナギは未だ「人間」のままだ。
人間のまま、あるいは変異しかけたまま。先ほどの高架下から第9前線基地まで移動してきたという。二つ地点の距離感は誰にも分からなかったが、シミュラクラの追っ手を躱しながら移動すること自体が奇跡であるとユイは言う。
「あの状態からどうやってここまで辿り着いたのかな。目と鼻の先の距離ってわけでもないだろうし……」
「性能にもよるけど変異体なら追っ手を蹴散らすぐらい容易いと思う。でも変異体は制御不能の兵器のようなものよ。シミュラクラの職員だけを倒すなんて都合のいいことは出来ないはず。理性も何も無いんだもの」
変異体が長距離を移動したとして。その間に通過した地域で騒ぎを起こさないことというのは稀であるという──変異体は人を襲い、家屋を壊し、異常現象を引き起こす。ただ生きているだけでも人類の「障害」となる個体は数多く存在する。
エセルは彼が移動に際して何も騒ぎを起こしていないことを不穏に感じていた。
「場面の転換が起きないね。今まで通りなら何かしら「動き」があったのに」
「彼は「召喚装置」なんですよね?だとすれば亡くなる未来はないわけですし……」
「ある意味、人としては死んでるけどね」
未だに動かない身体を前にして、三人は口々に現状について語る。
廃材の山に囲まれた小さな路地裏で蹲る青年。ナギの身体は微かに呼吸を繰り返すだけで放っておけば今にも息絶えそうだ。
しかしながらユイの指摘するように彼は召喚装置である。現在進行形で変異体として猛威を奮っている現状、彼は「助かる」はずだ。
「……あなた、怪我してるじゃない」
唸る三人の間をすっとすり抜けるにして、誰かがナギの前に現れた。
塗料の剥げたタンクの陰。低い女性の声が、路地裏に響いた。彼女は怯えた様子もなく裂けた袖の下から覗くナギの変色した皮膚に目を止めて静かに言った。
──彼女は記憶の中の人物のようだ。
「ウチに来て。大丈夫、あなたが眠る場所ぐらいはあるから」
纏った襤褸の中から伸びる日に焼けた細い腕がナギへと差し出された。
年頃はナギと同じぐらいであろうか──ヨウは女性の姿に先程出会った聖女の姿を重ねていた。傷んだ黒髪に素朴な顔立ちの女性。
恐らく単なる他人の空似ではあるのだろうが。
――――――――――――――――――――
──女性とナギが出会ったところで記憶が切り替わった。
女性の名はアルムといい、登録外地域である第9前線基地のに暮らす住人だった。
ナギがアルムに拾われ、回復するまでの記憶がダイジェストのように流れていった。その場に立ち止まっても、映像は二人の生活の場へと常に切り替わった。
「何だかいい感じだけど、このまま助かっちゃったら召喚装置にならなくない?」
「そうね、もうすっかり下層の生活に慣れちゃったみたい。もう彼女と付き合ってハッピーエンドでいいのに」
ナギはそのままアルムの住処であるコンテナハウスに転がり込んだ。アルムは何も尋ねなかった。名前も、過去も。何故こんな場所に来たのかも。
代わりに余ったスープを分け、蒸気で温めた寝具を貸し、扉を開けて待っていた。 ──この数ヶ月。ナギは確かに生きていた。見違えたようだった。
住民達と川まで水を汲みに行ったり、下層の食品の調理に苦戦したり、アルムに廃材を加工した家具を贈ったり……下層での生活はささやかな幸せで溢れていた。
「今のところ不安要素が無いわね。ここから召喚装置になるまでのビジョンが見えないわ。あるとして……餓死とか病気とか?」
「殺人もあるんじゃない。治安悪いみたいだし」
エセルは伸びをしつつ、欠伸をしている。上層でもここまで穏やかな生活というのは中々無いのかもしれない。ユイの表情もあれからいくらか緩んでいた。
──またある日のナギは金属音の絶えない通りを歩き、使い物にならないモニターを分解して売れる部品を集め、アルムととりとめのない話をしながら時々笑った。
そんな中、アルムの言葉が記憶の中に響いた。
「浄化作戦、またあるかもって噂だよ。うちの区画は登録外だからまあ、大丈夫だと思うけど……」
──何かを言い淀むアルムを前にして記憶が歪んでいく。
――――――――――――――――――――
だが、その次はすぐに来た。
ある晩、ナギは遠くの空に走る青白い閃光を見た。瞬間、脳裏に強烈な既視感が走る。ナギはこの空気、この間隔を知っていた。何度も見たことがある。
「ユイさん、さっきの「浄化作戦」って……」
「……セクターが主導する下層住民の武力制圧、排除作戦です」
次の瞬間には、振動が床を突き抜けていた。
前から、後ろから。スラムの住民達が叫びながら飛び出してくる。誰もが大荷物を持ち、グループ単位で何処かへ移動しようとしているようだ。
「下層における不審死と変異者の拡大防止、反体制勢力と密集無認可住居地の強制排除、セクター境界領域に発生した異常現象の封鎖……様々有ります。ですが実際には……」
──人口の間引き、不満層の抹消・社会統制のための弾圧。
ユイの顔色は再び生気を失っていた。
自分が所属している組織が下層民に対して「虐殺」を行っているのだから、ユイのような人が心を痛めるのは仕方のないことだろう。
「ナギ、これって……」
景色が屋外へと移り変わる。
ナギはアルムの手を引き、走った。焼けた配線の匂い。誰もいない通路。
だが、知っていた──もう遅い。
アルムが叫んだ。
「……俺のせいだ」
その時、ナギの内部で何かが決壊した。
シミュラクラでの日々、仲間の笑顔、レイの言葉、そしてあのログ──書き換えられた真実……ゲート転送の記録を見返していたとき、不意に寒気が走った。
あの映像にはレイがいた。
何の違和感もなく、端末を操作し、軽く笑っている──だが、その直前に別のレイが装置の中で崩れていく影も確かに映っていた。
「……ナギ、何を言ってるの?早く逃げないと!」
──あれは転送ではなかった。「再構成」だ。
再構成──すなわちコピーと削除。ゲート転送は存在を分解し、新たに構築する仕組み。だが「元の個体」は残らない。削除される。それが自動消去プロトコルの正体だった。記憶も、思考も、感情も──すべて模倣された結果にすぎないのなら最後に出会ったレイは何者だ?映像を閉じた指が震えていた。
自分の手が、自分の存在が、偽物のように思えた。
「セクターは最初から俺を逃がす気なんか無かったんだ……」
ナギの胸に抑えきれない怒りと恐怖が湧き上がる。
死の恐怖を前にしてかつての「恐怖」を思い出した。
自分がいた日常は欺瞞に満ち、仲間達は互いの死を知らずに笑っていた。そして今、自分がようやく得た生活までもが、またしても踏みにじられようとしている。他でもない「恐怖」の所為で。
「ナギ!早く行こう?こんなところにいたらシミュラクラの奴等が……」
ナギは応えようと口を開いた。だがその直後、爆風が視界を攫った。
ナギの耳が、世界から引き剝がされる。
耳鳴り。焦げた鉄の匂い。焼け爛れたコンクリートの瓦礫が降り注ぎ、アルムの姿が視界の端に引き裂かれていく。
──ああ、まただ。
「アルムって人……生きてるのかしら。派手に吹っ飛んだわ」
呆然とするナギの前で静観していたエセルが口を開いた。
──どのような内容であっても過去の記憶に干渉することはできない。
……守れなかった。アルムは目を開いたまま、手を伸ばしたまま、動かない。
ナギは声を出せなかった。世界が静まり返る。時間が凍る。
そして空間が歪んだ。路地裏の景色が滲み、塗り潰されるように黒へと沈んでいく。重力が反転したかのように、瓦礫が宙に浮き、街の輪郭がざわめき始めた。
エセルが後ずさりながら呟いた。
「……始まったわ。やはり彼は召喚装置に変異する運命なのね」
エセルが身構える。ヨウは一歩後退する。
ナギの姿が、黒い光に包まれる。何かが外側からではなく、内側から溢れ出してくる。それは熱やエネルギーではなく、「記録」だった。過去の記憶が、想念が、断片的に空間へと投影される。
笑顔のアルム。手を差し出すレイ。崩れるシミュラクラ。ナギ自身の怒りと絶望と喪失。ヨウはそれを見て理解した。
「先延ばしになっただけだったんだ……」
記憶が、過去が、今この瞬間に再構築される。失われたものがナギの内部で咆哮し、形を持ち始める。
そして、ひび割れた空間の中心で──ナギが立ち上がった。その眼には、人間としての意識は、もはやなかった。歪な金属の柱。結晶化した記録媒体のような器官。彼の心核がこの瞬間、召喚装置として顕現した。
ナギという青年はこの瞬間をもって消え去った──新たな召喚装置が、静かに息をついた。
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