ep.10-2.二人《ふたり》
弦が、由の家で過ごすようになり数週間が過ぎた。
例年より長雨が続き、そのまま本格的な雨の季節が来て水茶屋はほぼ休業状態となり、川のほとりにあるソの郷の住人達も、増水によるソの河の氾濫を恐れて戦々恐々としていた。
ソの郷の職人が総出で行っているソの河の橋梁工事も、雨続きと川の水嵩が増しているせいで、仕事に取りかかることが出来ない。
夏には、幕府からのお目通しがあり、それまでに何が何でも完成をしておかなければならない。
が、このままではそれも怪しくなってきている。
定吉は、いても立ってもいられないらしく、仕事が出来なくても毎日、橋の様子を見に行っている。
由の家では、家のなかにある店を開く為の材料をこのまま腐らせるだけなので、毎日の食料として使うようにして、ほとんど家から出ず、周辺で生活する日々が続いている。
たまにふらっと石がやってきて、弦に米とお金を渡す。
按摩仕事は順調そうで、上客を紹介してもらったらしく、安定的に稼げてるそうだ。
家のなかに入らず、弦や由親子が元気なのを確認すると、さっさと帰ってしまう。
ちょっと家のほうを振り返り、前を見たらもう10歩は離れていて、声をかけても「わかった、わかった」と頷きながら、ひらひらと手を振って行ってしまう。
間男でもあるまいし、そんなに急ぐ必要もないと思うが、男というものはこういうものなのだろうかと不思議に思う。
由が、お礼も言えず居なくなってしまうので気にしていたから、その都度、作り置きして饅頭を渡すようにした。
「おお、こりゃありがてぇ、この饅頭すげえ美味いってみんな喜んでる」
どうやら町で泊まっている木賃宿で、みんなに配ると評判が良いらしい。
代わりに、漬物や大根などを分けてくれるので助かっているそうだ。
たぶん、いっさんは言わないが酒も貰っているのだろう。
「由さんと妙ちゃんに、よろしく言っといてくれ」
そういうと、今日もさっさと行ってしまった。
(いつまでここにいるの?)
と弦は思うが、石はいまの暮らしが余程良いのか、なにも言わない。
どうやらまだ、先のことになりそうだが、雨の降り終わりが来たら、しりを叩いてやろうと思う。
もうひとり、由と妙の生活を心配している人がいる。
町へ買い出しに行ったり、近くの農村で野菜や芋など仕入れたものを抱えて、定吉が顔を出す。
由の家に弦がいることにも慣れ、当たり前のように挨拶して家のなかへと入る。
変わった事といえば、今までは、由に朝夕の手弁当を作って貰うことはあっても、由の家で食事することは殆どなかったが、最近は頻繁に夕食を、たまに朝食も取るようになり、由の家の家族の一人のようになっている。
由は、今まで、独り者で若い定吉が、年上の子持ちの女と噂になると狭い郷のなかでやりづらかろうという思いがあって、家に入れることは
だが、いまはなぜだか分からないが吹っ切れたらしい。
「弦ちゃんのせいね」
と悪戯っぽく笑って話していたが、弦にはなんのことかよく分からなかった。
弦も居るため、いまは泊まっていくことはないが、もし弦が出ていくことになれば、自然と一緒に暮らすようになるのではないか?と思う。
ただ由には、なにかまだ、わだかまりがあるようだ。
今日も、しとしと小雨が降り続いている。
定吉も入れて四人で一緒に夕食を囲み、本降りになる前に帰って行く定吉に、由が寄り添う。
「明日は来れないでしょう?これ、作っておいたから」
手渡す風呂敷のなかの弁当箱には、日持ちする草餅と沢庵が入れられている。
「ありがとう」
定吉はそれを受け取ると、蓑を着て小雨のなかを帰っていった。
それから半時が過ぎ、後片付けをして寝る準備もして、二人で少し飲もう♪
なんとなくそういう感じになり、定吉や石のために取り置きしていた酒を持ち出した。
夜も深くなり、妙はすでに夢のなかにいて、寝床で可愛いいびきを立てている。
深夜になり、たわいもない話をしながら、二人が気付いたのは、酔っているけどそれほど酔ってないこと。
お互いが凄い酒豪であることに気付いた。
果てしなく飲み続けることができそう。
このままでは、二人の男に飲ませるように取り置いた酒を、全部飲みきってしまいそうだった。
「由さん、もう寝ましようか?」
弦は、これだけ飲んでも、飲み始めと変わらない自分と由に若干引きつつ、由に提案する。
由は、押し黙っている。
弦はお盆を持ってきて、つまみや徳利、盃かわりのどんぶりを乗せ、洗い場に持って行き黙って片付ける。
「弦ちゃん」
「はい」
由に背を向け、洗い物をしながら弦が返事する。
「ありがとう」
クスっと笑う弦。
「どう致しまして(笑)」
片付けも終わり。
「さあ、寝ましょうか」
と弦が振り返ると、座敷に座る由の膝元の前に、紙のようなものが見えた。
弦が近づくと、封書と中から取り出した手紙が置かれていて、それは色褪せてはいたが、紙の質の良さが感じられるものだった。
「これは?」
弦が尋ねると、由は自分で封印していた過去の記憶を思い起こしながら、ぽつりぽつりと昔話を始めた。
辛い記憶を思い出すたびに言葉につまりながら、自分の江戸での暮らし、子毛での生活、そこで出会った恩人の陶のこと、そしてこの手紙について話す。
弦は由の前に座り、話に一言も口を挟まないで、静かに黙って耳をかたむけた。
もし、由が話したことを後悔するようなら、なかったことにすればいいと思っていた。
一通り話し終えた後の部屋には、妙の可愛い寝息と押し殺した由の嗚咽がして、弦は穏やかな表情で、慰めの言葉をかけるでもなく由を黙って見つめている。
彼女には見せかけの同情も、慰めの言葉も必要ないだろう。
それは、弦自身にも必要ないものだった。
由は、自分の代わりに、この手紙を読んでくれるよう弦に頭を下げた。
陶に感謝しきれないほどの恩をもらいながら、その恩に報いることもなく不義理を続けている自分が情けなく、それに陶が書いた字を見るだけで、辛くて読むことが出来ないのだと話した。
弦は迷った。
数日間を由と過ごしてはいるが、まだ気心の知れた友人というほどでもなく、まして家族でもない。
それに弦は、故人である陶とは一面識もない。
陶がどんな思いで、由に手紙を書いたのかわからない。
この手紙を、部外者の自分が本当に読んで良いものだろうか?
(いっさんならどうするだろう)
一瞬、石のことが頭によぎった。
《読んでみたら分かるだろうよ。そっから考えりゃいいぜ》
あの人はやってから考える人だ、当てにならないと思い直す。
手紙の中身を自分に知られても良いのかと由に確認するが、由は弦と過ごすうちに、その人柄を見て心に決めていたようだ。
弦には、それでも良いのかどうか分からない。
手紙を受け取り、指で表面をさすりながら、まだ迷っている。
「本当に、よろしいのですか?」
弦が、もう一度確認する。
目の前の由は、弦より
普段の強気でしっかりした由からは、想像できない姿だ。
由は目を伏せて、小さく頷いた。
弦は、ようやく決意して膝の上で折りたたまれた手紙を開く。
達筆な美しい字で、それを見ただけで、この手紙を書いた陶という女性が、どれだけ聡明な女性だったかを感じられた。
「どんな風に書き始めたら良いかしら、」
弦は妙を起こさない程度の大きさで、この手紙を書いた陶のことを思いながら、ゆっくりと、手紙を読み始めた。
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