第4章  黒姨(ヘイ・イー)


       Act.2


 淑華は千駄木の華子の家に滞在し続け、子供の居なかった夫婦は淑華を妹のように可愛がり続けた。

 だが、ひと時の穏やかな日々を過ごす中で、またしても事件が勃発する。

 彼女のかつての上司であった林張民が、中国国民党の手によって暗殺された事を知ったのである。そして林張民に手を貸した協力者らは全て、国民党と幇の手によって粛清されたという知らせが、国内華僑のツテを通じて入って来たのだ。


 もはや祖国は、彼女の帰れる場所ではなくなっていた。


 淑華は華子夫妻に、自身の抱えていた秘密を全て打ち明けた。

 内戦中の上海で突然巫病に陥った事。

「行の終」という名目で預けられていた道院を出てから、目覚めた能力を用いて「抗日」に協力し、日本人を始め、大勢の人間を殺めて来た事。

 そしてまた、そこでも運命と時の流れに翻弄されて、この日本へやって来た事を。

「いまの私には、何が正しく、何がよくない事なのかが分かりません。ただ、あなた方に迷惑は掛けられない。私はこの家を出る事にします。よくして戴いてありがとうごさいました」

 緩やかな午後の陽射しの差し込む部屋で、華子は立ち上がろうとする淑華の腕を掴み、こう告げた。

「大丈夫。悲しい事だけど、いまあなたの国と私の国は戦争をしている。でも逆に言えば、国民党も幇もここまで簡単に手は出せないと思うの。事態が落ち着くまで、あなたはここにいるべきだと思う。夫ともそう話し合ったの」

 華子はそこで言葉を切った。

「あなた位の歳の子が、なんでも一人で背負わない。なんでも一人でやろうとしない。たまには他人に寄り掛かって休んでいいと、私は思うの」

華姐ファジェ

「黒姨」と綽名され畏れられた異能者は、ここに漸く自身の居場所を見つけた。

 

 だが、日中戦争は激化を増して、とうとう米英の列強を巻き込んだ太平洋戦争と発展したのである。赤紙が舞い込み、夫は兵役に取られたが、華子は淑華を先の事変で両親を失った遠縁の娘という触れ込みで匿い続け、敵国人という事をずっと隠し通した。


 そして1942年のミッドウェー海戦での敗北を境に、空母4隻を失った日本は太平洋上での制空権と制海権を失い、少しずつ敗戦への道を歩む事となる。


 第三次ソロモン海戦での敗北、連合海軍司令官・山本五十六大将の戦死、アッツ島玉砕、マリアナ沖での海軍空母部隊の壊滅、インパール作戦の失敗、レイテ海戦の敗北、グアム・サイパンの陥落、沖縄・硫黄島まで迫ったアメリカ軍は、いよいよ首都東京の空爆に踏み切る事となる。昭和20年(1945年)、ドリットルの帝都爆撃を皮切りに、東京は長距離爆撃機B29の激しい空爆に晒される事が多くなり、同年3月10日の東京大空襲、同年8月の広島・長崎に対する原爆投下を経て、日本は連合国のポツダム宣言を受け入れ、敗戦を迎える事となる。

 華子の家は幸いにも空襲の被害を免れたが、首都・東京は焼け野原と化し、日本国民の誰もが呆然自失の頃を迎えていた時でもある。更に華子の夫の孝雄が南方で戦死したとの訃報が追い打ちをかけた。愛する「姐」は彼女に背を向けて肩を震わせ、じっと悲しみに耐えていたのを淑華は覚えている。


「私は何を見せれているのか。戦場と化した上海、破壊され尽くした東京。戦争とは、この世の悲惨さとは、どういう意味があるのか。私は何のためにここにまで流れて来たのか。玄女は私に何をしろと示しているのか……」

 

 答えはいつも、闇の中で邪悪に微笑む。神性と意志を共有し、不可思議な異能を有する淑華にさえ、これほど運命の波に翻弄されてしまうというのなら、並の人間は何を頼りにしながら、この過酷な世界を渡って行けると言うのだろうかと。

 そして私は、何をどうするべきなのかと。

 焼け残った白山の高台より、焦土と化した東京の街を見渡しながら、黒姨・黄淑華は、己の道を見失ない掛けていた。

 

  その年の9月。

 華子の家に2人の男が尋ねて来た。そのうちの片方は、在日華僑の李博文、かつて淑華の亡命を手引きした、その素性を知る男であり、そしてもう一人、年齢三十歳位の眼力の強い男は、元「特別高等警察部」の岡部と名乗った。

「特高警察」とは、「国体」(天皇制)にそぐわない思想を持つ者を探り出し、危険な行動や準備の兆候があれば検挙する機関の事で、「怪しい人物」を察知して監視することを「視察」と言い、それがかつての特高刑事の任務だった。

「特高の方が、に何の御用なのでしょうか?」

 強面の両名を迎え入れながらも、華子は柳眉を逆立て語尾を荒げる。もしも特高が中国人である淑華を逮捕拘束するつもりあれば、刺し違えてでも守る、そんな決意が計り知れた。

「……恐らく誤解されていると思いますが、我々は華絵さんを拘束しに来たわけではありません。最早我々に彼女を逮捕する権限などありませんので。現政権はアメリカGHQ指導の下、日本の民主化を模索しているまっ最中です」

「それでは、一体なんの用で」

「……あの大戦中の、上海抗日運動の旗手であった「黒姨ヘイ・イー」が日本に亡命していたと耳にして、我々も大変驚いているのです」

 襖一枚を隔てた隣の部屋で、淑華は彼らの会話に聞き耳を立てていた。

 もしも自分のために華子の立場が危うくなる様なら、すぐにでもここを出て行く覚悟を固めていた。

「華子さんは『厭離穢土 欣求浄土』という言葉をご存知ですかな?」


 昭和20年10月。午前0時。

 淑華は米軍の爆撃により、焼け落ちて更地と化した浅草寺本堂前の、焦げ付いた石畳の上に立ち、目を閉じて静かに呼吸を整えていた。

 ここ浅草寺を中心とした東京の下町区域と呼ばれる本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分は、米軍のミーティングハウス2号作戦、通称・東京大空襲と呼ばれる3月10日の空爆で長距離爆撃機B29から投下されたM69焼夷ナパーム弾により、ほぼ完全に焼き尽くされていた。この夜の爆撃だけで、焼死、窒息死、水死、凍死含めての死亡者約9万5000人、罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人と言われている。


 この黒い「道衣」を身に着けるのは、何年ぶりの事なのだろう。


 あの日、元特高警察の岡部と在日華僑ユニオンの李博文から語られた、ある恐るべき事実を知り、彼女はこの場所へとやって来た。周囲には拳銃で武装した警官が10名ほど配備されており、それは空襲によってスラム化し、無法地帯となった東京の治安の悪さを懸念しただけとは思えない。

 岡部の語った事実は、淑華も心当たりがあった。実際に足を運んだ事はなかったが、彼女の祖国である「北京」の街にも、似た様な伝説があったのを耳にしていたからだ。


 頭上には見事な月が輝いている。

 街の灯りが壊滅しているとはいえ、周囲を見渡すには何の苦労もない。

 しかし、一度視界を閉じると、そこには数多くのに満ち溢れていた。なるほどこれでは岡部が儀式を依頼する理由が分かる。

「当たり前だ。これほどの人数を捧げてしまったのなら、結界が綻びない訳がない」

 愚痴の様な言葉が、思わず洩れた。

ホール」を塞ぐ聖所の再建を目指そうしても、先の空襲と二度に及ぶ原爆投下で「現在の帝都に、それを出来る者が」という岡部の弁に間違いはない。


「いかにも米国人らしいなやり方でした」

 元特高の捜査官は身を乗り出して本題を切り出していく。

「タラワ、アッツ、サイパン、沖縄、硫黄島での膨大な自軍戦死者の数を懸念し、米国は一日も早くこの戦争を終わらせようとそれを踏み切りました。しかし彼らは、事の深刻さをあまり理解していなかったのです。いかにも建国から間もない国の方の考え方なのかも知れません」

「まさか、それって、ルーズベルト米大統領の死去と……」

「仰る通りです。東京のを指示したルーズベルトは文字通り『触れて』しまったのです。彼らはをこじ開けてしまった。壊してはいけない祠を壊してしまったというワケです」


 両手を胸の前でハの字に構え、腰を少しだけ落とし、吸う息をひとつ。吐く息はふたつ。臍下の丹田に水を満たした器をイメージして、それを溢さぬ様に両手で円を描く。

(これは誰かのためではない。私がそうしたいのだ。私が何の迷いもなく、純粋に心の底からそうしたいと思った事が、恐らくこの世でのもっとも正しい事、すべての正解なのだ)

 膝を曲げて更に腰を落とし、武術でいう「四六歩」の構えを取ると丹田と鳩尾に気を貯める。そのまま左手を大きく薙ぐと、空中に金色の線が走った。

 やや離れた場所でそれを見守る岡部と李博文の口から、おお、と声が洩れた。


「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」


 淑華の声と共に彼女の掌に生じた八つの白い光球が、放物円を描きながら、燃え落ちた浅草寺の境内の八方向へと散り、見事な八角形を描いたのである。


「老君曰,大道無形,生育天地;大道無情,運行日月;大道無名,長養萬物;吾不知其名,強名曰道。夫道者:有清有濁,有動有靜;天清地濁,天動地靜(太上老君曰く、大道は目に見えず、天地を生む。大道は無慈悲で、太陽と月を動かす。大道は名も無く万物を養う。 私はそれをタオと呼ぶ。清と濁、動と静、空は清、地は濁、空は動、地は静なり)」


 月明かりの中で印を組み、咒を唱える黄淑華の周辺に緩やかな風が巻き起こり、八卦の複雑な光輪は、凝縮と膨張を繰り返し、内側の「穢れ」を排出しながら、やがてひとつの陣形を描いていく。

「八門遁甲陣」。

「これが日本軍の上海侵攻を、たった1人で遅らせたという『黒姨』か……」

 月明かりの下で、思念による巨大な八極図を形成させる黒髪の少女の姿を見ながら、岡部が呟いた。


 淑華が元特高警察の岡部から依頼された事とは「追儺儀式」である。

 もともと特高警察とは、先にも述べた通り、天皇制にそぐわない思想を持つ者を探り出し、検挙する機関なのだが、彼は自分の所属していた部署は「そこではない」と語った。

「8月の広島・長崎の原爆投下を経て日本が敗戦に至るまでに行われた、米国による、あの3月10日の東京大空襲の真の意味を、ご存じでしょうか?」

 淑華も華子も、岡部の語る言葉に戦慄を覚えていた。

「私の所属していた『部署』は、このの機能維持の保守管理を一任されておりました。詳しく掘り下げて調べた事はないのですが、そこはかつてこの国で『陰陽寮』と呼ばれていたのではないかと思っています」

「結界都市とは?」

 華子の言葉に岡部は頷いた。

「誰か、に詳しい人間が米国側に居たのだと思います。わたし達東洋人の世界観を米国がすんなり受け入れられるとは思いませんから、それを進言したのは、我々に近い感性を持った、淑華さんの祖国の方だったかも知れませんね。それは島国であり、資源が貧弱である筈のこの国が、どうしてあれほどの列強大国相手に戦い切れたかという事と連動しています。あの日の空襲であの地域が集中的に攻撃を受けた理由は、首都の鬼門の守りを焼き払うために行われた行為です。そのためこの国の中心であり、この国の最も偉大な祭司が住まうとされる皇居の鬼門はまったく無防備となった。あのままの状態で戦争が継続していたら、この国はもっと無残な敗戦を呈して、根幹から消滅していた事でしょう」

「それはどういう事なのでしょうか?」

「華絵……、いや、黄淑華さん。結界都市に関する歴史に関しましては、私達の国よりも、あなたの国のほうが歴史が古いと思います。私達の持つノウハウは、もともと大陸との交流で伝わって来た儀式であり、若干の変動アレンジはあれど、根底の考え方は同じなのです」

「岡部さん、あなたも少しはなんですね?」

「さすが黒姨。よくお分かりで。私達の部署は、多少なりともそういう『力』がないと務まりませんので」

 岡部の目の奥に、昏い光が走った。

「それはルーズベルトの死から始まったと言えるでしょう。彼らもそこまでのを理解していなかったのです。そしてマッカーサーが連合国軍最高司令官として着任する前、日本に到着した米国の先遣隊がその憂き目を見たのです」


「經壇土地,神之最靈,升天達地,出幽入冥,為吾關奏,不得留停,有功之日,名書上清(祭壇の地を通じ、神の最もな高貴な魂が天と地に昇り、暗闇から冥界へと出ずる。此れはわたしが願う事ではなく、名誉と功績の日に向けて、この地が清浄を取り戻すための願いである)」


 淑華が両手で組んだのは、密教でいう「地天印」である。

 聖所となる建物を作る前に、まずその土地の不浄を清め、その内側の良くないものを取り除く、現在でも行われている「地鎮祭」の様なものだ。

 この浅草寺周辺でも、大勢の群衆が焼夷弾に焼かれて亡くなっている。彼らはその内側に悲しみや怨嗟を抱えて神仏にすがろうと聖所へと殺到する。結果、その聖所はパンク状態となって機能停止を起こす。ましてや本堂や周囲に張り巡らされた結界が、空襲で全て破壊されているのだからたまったものではない。


「このまま放って置けば、かつて大岩で塞がれたという、この国の持つ強さの秘密、神話に登場する『ホール』が開いてしまう可能性があるのです」


 焼け崩れた建物や瓦礫の合間から這い出した、何百体もの黒い影がこの浅草寺の境内を取り囲んでいる。不穏な気配を放つそれがこの世に属するものでない事は、淑華はおろか、岡部や李博文、そして警官達も感じ取っている。いつの間にか彼らは淑華や岡部らのいる周辺をぐるりと取り囲み、虚ろな視線で彼らを見据えている。

 手脚や頭が半分吹き飛んだ者。真っ黒な消炭へと変貌してしまった者。中には単なる肉片と化してしまった者さえいた。

「岡部サン、どうするの、コレ」

 拳銃を構えた李博文が、唇を震わせながらこちらを振り向く。

 岡部もまた答え様がなかった。1人や2人ならともかく、目の前の「亡魂」らの数は数百を超えている。手持ちの護符やの弾丸を装填した拳銃ではとても賄い切れない。


「恐れないで下さい。彼らは救われたがっているんです。がここに来たから。上海でもありました。皆さん、私の後ろにひとかたまりになって」


 淑華は「フン」と息を吐く。

 すると金色の光軸が印契を結んだ形で空間に固定された。彼女はそのまま両手を解いて次の印を結び咒を唱え始める。

天元ティンユェン行躰神変シンティシェイビェン神通力シェントンリー

 すると、岡部と警官隊の四方の足元から光が立ち上り、それは障壁と化して亡者と彼らとの間を隔てたのである。

(驚いた。ひとつの術を固定させたまま、別の術を施す事が出来るのか。とんでもない技量だ。日本軍が食い止められたのも、国民党が彼女を狙う理由も……)

 驚愕の表情を刻む元特高員の視線を意にも介さず、淑華は三つめの術の印契を結び始める。


朱雀ヂュチュエ玄武シェンウー白虎バイフー勾陳ゴウゴウチェン帝禹ディュー文王ウェンワン三台サンタイ玉女ユーニョ青龍チンロン


 左足を踏み出し、引き摺る様に右足を引き寄せ、石畳を力強く踏みつける。また左足。右足。踏み付け。そのまま旋回する様に同じ動作を繰り返し、北斗七星の形状を描く。禹歩。道教における呪術的歩行術。

 時代を経て反閇という歩法の基になった。古代中国夏王朝の始祖、が伝えたとされる歩行術である。

 亡者の群れに畏れ戦く李博文や警官らを尻目に、岡部は黒姨・黄淑華の技量に圧倒されていた。結界を施し地を鎮め、警官隊を護り、地固めを行い、彼女は更に四つ目の術に移行しようとしている。

(この娘なら、米国の手によって開いてしまった『黄泉平坂よもつひらさか』のホールの綻びを、塞ぐ事が出来るかも知れない……)

 そう思い掛けて、岡部は目を見張った。

 印を組み、歩法を踏む淑華の目や耳や鼻から、鮮血が流れ噴き出している。

(違う、この娘は無理をしているだけだ。結界を張り、地を固め、しかも我々を亡者から護ろうと、一度に術を駆使しているのだ……)


 そのきっかけは些細な事から始まったという。

 米国陸軍元帥・ダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官として日本に赴任する準備をするため、先に日本に到着していた進駐先遣隊・チァーレス・テンチ大佐配下の兵士の何名かが余暇に街へ繰り出したまま、翌日の点呼時間になっても戻って来なかった。もともと素行の悪さが目立った者ばかりだったので、厳重注意を与えようと上官が考えていたところ、彼らはスラム化していた上野界隈で横転したジープの側に転がり、全身を八つ裂きにされた状態で発見された。死体はそれぞれ銃弾を打ち尽くした拳銃を握っていたため、テンチ大佐はこれを進駐軍に反発する日本国内の反乱分子の仕業と考えて、時の閣僚らに猛烈な抗議をねじ込んだ。

 ところが、日本側からの返答は意外なものであったという。

 米軍大佐は日本政府から派遣された数人の職員に、ある場所へと案内され、そこに収容されていた「物体」を確認して目を剥いた。

 その物体には、十数発に及ぶ銃創があり、これが死亡した米軍兵士らと交戦した事は明らかであった。

「What the hell is this?(これは一体?)」

「It is what is called a monster in your country(あなた方の国で、怪物と呼ばれているものです)」

 そこでテンチ大佐は、彼らの口から、恐るべき事実を耳にしたのである。

 

「テンチ大佐は、その事実に数日間悩んだ後、戦艦ミーズリでの日本国降伏調印式の後に、マッカーサーに報告したそうです。『このままこの国に留まっていれば、わたしもあなたも、に殺されるでしょう』とね。マッカーサーも初めは、自身の右腕であったテンチ大佐の報告を真に受けておりませんでした。なぜなら、建国から200年に満たない米国には、その様な建国神話レジェンドが存在しない。だからそれを脳裏に描く事は難しかったのでしょう」

 だが、それは次第に、看過出来ない事実へと変貌して行った。

 当時、焦土と化して、3月10日の空襲だけで推定10万人が死亡したというこの東京の街は、その後も執拗な米国の空襲に晒され続け、実際に亡くなった人間の数をすべて正確に把握できていたとは考えにくい。従って、ある日突然、隣人が行方不明になったとしても、誰もがそれを気に掛けている余裕はなかった。自身がその日を生き延びる事が、まず先決だった時代である。

 しかし進駐軍GHQは事情が違った。本土から派遣されている人員の数はきちんと管理されている。ところが余暇や巡回で将校や兵士らが街へ繰り出すその都度、3人、4人と戻って来ない者がいる。そしてある者は、崩れた瓦礫の下や街角のバラックの物陰、汚泥の溜まった排水溝の中でバラバラの死体となって、或いは、まるで痕跡も無く消えてしまった者もいた。

 GHQはこれを敗戦を認めぬ旧日本軍残党の仕業として、容疑者の逮捕連行を続けたが、全く功を奏さない。ある時は不穏分子取り締まりとして夜間の警らに回っていた武装兵士全員が銃弾を撃ち尽くした状態のまま、バラバラの肉片になっていた事もあった。

 ここに来てマッカーサーは漸く、テンチ大佐からの報告を思い起こしたのである。


「The perpetrators of all these incidents are the work of monsters living in this country. We have pryed open the lid of hell.(これらの事件の犯人は、全てこの国の地底に住む怪物の仕業です。我々は、地獄の蓋をこじ開けてしまったのです)」


「仮にテンチの報告が事実だったとしても、それを本国に報告したところで誰も信用しないでしょう。かと言って、行方不明になった米兵たちの原因調査報告を怠れば議会や彼の政敵が黙っていません。マッカーサーは解任され、ニミッツなりアイゼンハワーなりの、新たな責任者が米国から赴任して来ることになるでしょう。彼はそれを避けたいがために、秘密裏に我々に連絡を取って来たという事になります」

 岡部はここで一度言葉を切った。

「どうでしょう?見返りとしましては、私どもからGHQに働き掛けて、中国国民党にあなたを『粛清対象』から外す様に働き掛けましょう。悪くない提案と思いますが」

 当時の中国国民党は、日本との戦争を終えた事で、手を組んでいた共産党と分裂して対立状態となり、再び内戦状態に突入しようとしていた。共産党には当時のソビエト連邦のバックボーンがあり、それに対する国民党は、アメリカの後ろ盾を頼りにしていたのだ。


 淑華は指を絡ませ印契を結び、四つめの術式を繰り出そうとする。

「道由心學,心假香傳。香燕玉爐,心存帝前。真靈下盼,仙旆臨軒。令臣關告,逕達九天。(タオは心を学ぶ如し。そこに偽りあってはならず。良香の香炉を帝前に供えるかの如く、神威ここに降りる事を待ち望む。その意、臣が訴えを奏じるかの如く、九天に達するべし)。」


 心臓が早鐘の様に鳴り響き、全身の血管が膨張する。五臓六腑、あらゆる臓器と筋肉が、酸素と血液を欲しがり、全身を駆け抜ける。眉間から何かが開き、そこから放たれた力の奔流が全身を包む。

 第三の目、アジュナチャクラの強引な開放。

 だかその反動で、各組織のの毛細血管が破裂を起こし、淑華の目や鼻から大量の血が溢れ出た。


(華姐、これが私の成すべき事。そこに国籍は関係なく、ヒトのしでかした事は、ヒトが責任を取る。そのために私は呼ばれた……)


「岡部サン、あれ、あれ!」

 彼らを囲む数百にも及ぶ、空襲犠牲者らの姿が柔らかな光に包まれると、やがてそれらは輝く光の粒子と化して、ふわりと天に舞い上がる。

 彼らは見た。

 夜空と満月を背景に、黒い羽衣の裾を靡かせながら、天に舞った無数の粒子をその掌へと掬い上げ、虚空へと運んで行く、巨大な天女の姿を。


「岡部さん、やった、やったよ!あの娘凄いよ、数百人上げちゃったよ…!」

 一部始終を目撃していた警官達も、言い知れぬ感動に胸を打たれて、うおおと歓声を張り上げる。だか岡部の目の前で、淑華はがくんと膝を付き、その場で大量の血を吐いた。

「淑華さん、しっかり!華子さんがあなたの帰りを待っている!」

 血塗れになるのも構わず、黒衣の巫女に駆け寄り、抱き起した岡部は三度仰天した。淑華の顔面は血と漿液に染まり、その両眼は硝子体が破裂を起こし、どろどろとした漿液で埋没していた。

「こんな無茶を。追儺だけでいいとあれほど、まだ三か所もあるんですよ……!」

「いい。これは神々を裏切って人を殺めた、わたしの『対価』。大丈夫、私『こころ』がある。まだやれる」

 岡部は口をへの字に結び、ただ「うん、うん」と頷く事しか出来ない。

 駆け寄った警官達が彼女を称えながらハンカチや手拭いで血を拭き取り、別の者達が近くの瓦礫の中から丈夫そうな木切れを拾い制服を脱いで担架を作ると「ありがとう、ありがとう」と口々に呟き、淑華の身体を横たえた。

 李博文は涙に濡れた顔を右手で拭っていた。

「這不值得。 我們對這些小孩子做了什麼?(不甲斐ない。俺達はこんな幼い子に何をさせているんだ?)」と嘆きながら。


 だが、悪意は、想いを容易に踏み躙る。


 淑華を初めとした全員が、地の底から鳴り響いて来る、その音を耳にした。

 壁ひとつ隔てた様にくぐもったその地響きは、まるで軍隊の行進音に似ていた。 どこかの彼方から、大勢の何者かが、こちらへ迫っているかの様だ。

「なんだ、この音は?」

 岡部が見回すが、周囲の風景に変化はない。

 月明かりは美しく、夜空は冴え渡っている。それでも地面は小刻みに蠢動し、周囲の瓦礫や家屋が軋んだ音を立て始めた。

 刹那、大音響と共に、彼らの背後の石畳が纏めて二、三枚、空中に吹き飛んだ。


 そこに穿たわれているのは、地中奥深くまで続いた「ホール」である。


 担架に横たわっていた淑華が、ぎょっとした様に半身を起こす。

「いけない、岡部さん、李さん、みんな逃げて!」

 その声に反応する暇もなかった。

 大勢の赤ん坊の泣く様な、不気味な咆哮。噴き上がる瘴気と冒涜的な青白い光。

 噴き出した薄黄色の瘴気に当てられて、ばたばたと警官が倒れ込む。

「何、アレ?」

 瘴気を吸い込むまいと、口にハンカチを当てた李博文が叫ぶ。

 地の底から唸りを上げ、「穴」から押し出されて来たのは、無数の異形。

 痩せ細った手足に巨大な頭を持った「餓鬼」、人の様な、獣の様なフォルムを持つ、真っ黒な毛に覆われた巨大な捕食獣。六本の細長い手足を持った、蜘蛛の様な人面の妖。長い胴体をくねらせて、繊毛を這わせながら地面を畝る巨大蚯蚓。十数本の触手を宙に広げた烏賊と蛞蝓を合わせた魔物。

 それらが、まるで蜘蛛の子が湧き出て来るかの様に「穴」から次々と溢れ出て来て、元雷門側の参道を覆い尽くした。


「あれ、ナニ?」

 懐からワルサーPPKを引き抜いて李博文が唸る。

「黄泉平坂の枝道だ」

 SWリボルバーの撃鉄を起こして、銃口を怪物らに向け、岡部が呟く。

「米兵らを食い殺していた『張本人』どもだ」

 

 その時、先ほどよりも巨大な地鳴りが轟き、彼方から青白い光を放つ「穴」より、這い出た化け物たちを凌駕する、痩せ細った巨大な手が伸び上がった。

 その手は穴の縁を掴むと、赤子が母の胎内から生まれ出ずるかの如く、ずるりと上半身を現身の世に顕現させた。


 覗き出た部分だけでも3メートルはあるだろうか。

 ぼろぼろの衣を纏い勾玉の首飾りを下げたその女は、肌が異常に白かった。地底から溢れ出る瘴気に髪を逆立て、額に嵌めた面鋼めんがねの隙間から覗くその両眼は爬虫類の様に細く吊り上がり、そこには一抹の慈悲を感じさせる事がない。

 整った鼻筋から続く血紅色の唇は薄く笑いを刻み、そこからは、ひと噛みで人間を砕きそうな巨大な牙が、ずらりとはみ出して並んでいる。


黄泉醜女よもつしこめ……」

哎呀アイヤ、何しに出て来たか、こいつら」

 李博文が引き攣った声を放つ。

「張り直した結界を壊しに来やがった。この国のが発動したんだ……」


 黄泉醜女よもつしこめ

 日本の国生み神話に登場する黄泉の怪物。

 『古事記』では予母都志許売(豫母都志許賣)、『日本書紀』では泉津醜女、別名を泉津日狭女とする。火の神・迦具土神を産んだ際の火傷で死んだ伊邪那美神を連れ帰るために、死者の世界である黄泉の国に降りた伊邪那岐神は、黄泉の神に相談してくると伊邪那美に言われ、現世と黄泉の狭間で待たされる。

 しかし、伊邪那岐は見ないと約束したのにもかかわらず、伊邪那美の腐り果てた姿を覗き見て、それに恐怖し逃げ出してしまう。その時、激怒した伊邪那美が追手として伊邪那岐に差し向けたのが、この黄泉醜女なのである。


 そして我々にとって想像の付かない事であるが、「醜女」「醜男」という形容詞は、単に「醜い」「不細工な」という表現ではなく「強い」「強力な」という意味合いを含んでいる。怒りに駆られた伊邪那美が、逃げる夫を連れ戻すために派遣したという位なのだから、その強力さが推して測れる。

「黄泉の国の強力な女神」

 空間の綻びから現れた強力な禍神は、いまや穴の縁に足を掛けて、その全貌を露わにしようとしている。


 現世を嘲り罵る様な笑い声が周囲に響き、邪神は両手を掲げて月を仰いだ。

 やっと、ここから出られたと言わんばかりに。


「岡部さん、私の事構わずに、みなさん連れて逃げる!あんなもの、ヒトでは勝てない!」

「淑華さん、目が見えるのか?」

「見なくったって、あんなもの……!」

 淑華が血塗れの両手で印契を結ぶ。

「黒姨の名に賭けて、あいつは私が封じる」

 駄目だ、勝てるわけがない。この娘はここで死ぬ気だ。岡部はそう思った。


(これがヒトだ。本来ヒトが目指すべき、その姿なのだ)

 満足だ。最後に人助けが出来る。この国の人を大勢助けられる。

 意義ある行為だ。

 満面の笑みを浮かべて呼吸を整え、淑華は咒を唱えようとした。

(こいつは私の道連れだ)


「タン」と、爆竹が鳴る様な短い音が響いた。

 その銃から放たれた弾丸は、印を結んだ淑華らの頭上を突き抜けて、トールが邪悪を粉砕するかの様に空を切り、眼前に聳える黄泉醜女の面鋼を貫通、その眉間を正確に撃ち抜いた。

 一瞬の沈黙。

 傲慢な笑みを刻む禍神の後頭部の穴から、血漿と脳髄の様なものが撒き散らされ、醜女の両眼はぐるんと回転し、白目を剥いた。

 そしてそのままゆっくりと、崩れる様に「穴」へと沈み込む。


 蟲がざわめく様な、赤子の鳴き声の様な魔物どもの囁きが静まった。彼らの長であるはずの醜女が、1発の銃弾で「黄泉の巣穴」へと落とされてしまったからだ。

 淑華を除く全員が本堂側を振り向いた。

 そこには異様な人影があった。


 だぶつき気味の国民服。左手に湿った血の滴る日本刀を携え、右手にルガーP08自動拳銃を握った男の風貌を問えば、それはまだ幼く美しい少年の面持ちを抜け出せておらず、体躯もまた、華奢な少年の域を出ていない。

 そして、その顔の左半分は、明らかに人のものではない。

 黄泉の怪物らを怯み上がる、燃えるような紅の瞳を持った、「憤怒の魔神」の顔がそこにある。

 異形の少年は、淑華らの側に歩み寄ると、恭しく片膝を付いて頭を垂れた。

「サードアイ、勇敢なる者に敬意を。雷神トールの守護あらん事を」

「貴方は……」

 彼女の問いに答えず、少年は立ち上がると、手にした日本刀で空中にシジルを描く。それは、淑華が見た事のないものだった。

 満月の冴えわたる夜空に、烈しい稲妻が走ったのは気のせいなのだろうか。


 目の前に群がる醜女の眷属らに向って歩を進めると、少年は何の躊躇いもなく、手にした日本刀を振り翳して挑み掛かった。

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