愛洲の愛 〜黎明編〜

滝沼 昇

1・元禄3年

1.風



 虫の音と協奏するかのように、夜更けの庭に篠笛の音が響く。元禄3年、5代綱吉つなよし治世の江戸は晩夏を過ぎ、この庭の木々を撫でる風にも、最早焦気の名残は無くなっていた。

 いや、今をときめく側用人柳沢保明やなぎさわやすあきの邸宅なのだ、ただの庭では有り得ない。笛の音を抱いているのは、隅々にまで剪定の行き届いた木々が様式美に従って配列され、眺める者に一抹の違和感すら抱かせぬ程の見事な庭園である。


 風が、硬い……。


 3万石を拝領する保明の庭園は、何時来ても寒々しい。かつて天下一の美童と謳われた保明は、天下一の美的感覚の持ち主でもあるのだが、余りに出来過ぎた美の体現は、それを司る者の心の空虚すら感じさせる。と、愛洲仁介あいすじんすけは笛を奏でながらも保明の心中を推し量っていた。


 保明の居室は、庭園を絵として見立てる事のできる絶好の場所にある。開け放たれた障子が額縁の役割を果たし、昼には昼の鮮やかな彩画を、夜には夜の陰影に満ちた墨絵を見せてくれる。それだけに、ここに招かれる客となるとそうは多くない。


「仁介」

 風の硬さから、保明が既に笛の音から興味を逸している事を察していた仁介が早々に曲を切り上げて見せた事で、保明は容易に心を読まれた事を恥じるように苦笑した。

「お疲れでございますか」

 静かに膝の上に笛を置き、仁介はいたわるように微笑んだ。淡い萌黄もえぎ色の小袖に西陣織袴という出で立ち。頭頂で結い上げて背中に流すだけの女のように長い黒髪が、微笑みと同時にさらりと彼の肩から胸元に滑り落ちた。


 愛洲仁介あいすじんすけ。彼は水目みずめ藩目付職にある愛洲壱蔵いちぞうの弟で、22歳。彼自身は無役で、時折こうして篠笛指南をするのが生業と言えば生業であった。


「お前の顔を見たならば、少しは気も晴れるかと思うたが」

 保明はこの時33歳。彼が命を賭して仕える綱吉は相当の色好みで有名であるが、保明自身も、その道では決して遅れをとってはいない。この屋敷の奥向きには、一流の美的感覚を備える彼の目に叶った美女や美童が数多控えている筈なのだ。

「私の顔等、人形のようなものでございましょうに」

 仁介が人形と称すその容貌は、保明が数多抱える愛人達がまるで一籠の安売り青果に思えてしまう程の、卓抜した美しさであった。

「伊勢五カ所浦・愛洲一族の末裔でありながら月代も当てずに風になびかせる黒髪も、私の心中を鋭くえぐる半月の双眸も、その双眸を覆い隠す御簾のような長い睫毛も、外聞を憚るような大胆をぬけぬけと言い放つ桜色の唇も、剣を扱いかねるような細腕でまんまと刺客を斬り捨てるその鍛え抜かれた四肢も、おまえの全てが私の美学を超越してのけた」

「御戯れを。柳沢様こそ、流石はかつて天下の美童と謳われた御方。禅問答をいつの間にやらお仕掛けなされる品良い薄さの唇や、数多の才を少しだけ謙遜なさっておられるような程々の鼻梁、笑っていると見せかけて奥では知謀を燻らせているその細く切れ込んだ双眸。幕府にて深謀遠慮を貫禄という名の糧となされ、惚れ惚れするような美丈夫ぶりの貴方様の前では、自分の不細工加減に身の竦む思いが致しまする」

「気は済んだか」

「いささか」

「だからおまえといるこの時が、楽しいと申すのだ」

 保明は冗談を口にしたとは思えぬような硬い表情で言った。

「雲が、切れたな」

 不意に保明が、視線を庭の彼方に浮かぶ仄白い満月へと向けた。

「あれでは、衣を捨てた天女も同然」

「然様。見えぬ部分に思いを馳せるのが美の極意というものだ」

 これこそが仁介の称す質の悪い禅問答であり、保明は月を題目にして謎掛けを向けていたのである。これを察せられぬようではとても、保明の話し相手など務まらぬ。

「柳沢様の眼力を以てしても見えぬもの等、はて、ございましたものか」

 保明の目が水目藩の内情に向けられていると察した仁介は、知らぬ顔で受け流した。

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