【完結・百合ミステリ】糸とビーカー、それから猛毒

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第1話 事件編

 

 ――世界は毒にまみれている。

 溢れかえる刺激的な情報たち、正義ヅラした罵詈雑言、どろついた不祥事に、一方的な理屈で他者を貶める卑怯者、自己保身に走る大人たち。あたしの世界は毒まみれだ。


 薄暗い化学室。

 ぽたり、とビーカーの中に液体が落ちる。途端、たちまち青白い光がぶわりと広がった。実験机を囲む下級生たちからどよめきが漏れる。


 そのリアクションが収まるのを待って、あたしはぱらりとビーカーに粉末を落とした。今度は光が緑になる。またしてもどよめき。


 別のビーカーに、次は小さな結晶を落とす。すると青く光っていたビーカーが紫色の光を放った。どよめきが大きくなる。


「このように、ルミノール試薬は追加する溶剤によって発光の色が変わります。また、この化学反応は熱の代わりに光を発するものであるため――」


 すらすらと説明しながら、やっぱり、世界は毒まみれだ、と思った。


 犯罪捜査で血液検出に使われるルミノールも、吸入すれば毒になる。それを溶かす溶液も、皮膚に触れれば腐食する。水も塩も酸素でさえも、取りすぎれば人は死ぬ。この世界は毒ばかりだ。


(そう、あたし以外の存在は、みんな毒)


 全寮制の女子校なんかにあたしを放り込んで満足している、支配的な毒親も。執拗にあたしをいじめてくる、クラスメイトの毒女どもも。それを見て見ぬふりする毒教師たちも。


 なにもかもが毒ばかりの、クソみたいな世界。


 でも、あたしは、あたしだけは、絶対にまっとうな人間だ。だってこんなに生きづらい。世間や周囲になじめない。それはあたしが、周りの連中みたいな毒になれないからだ。


「光の反応が落ち着いてきました。では、ここで一度明かりをつけて、温度計を見てみましょう。熱が出ていないことがわかります」


 ぱっ、と化学室が明るくなる。楽しそうな一年生を見回すと、人垣の奥に見覚えのある人物が見えた。小桜糸羽こざくらいとは


 明るい色のツインテールにいくつものリボンを付けて、糸羽は嬉しそうにぶんぶんと手を振ってくる。あたしは小さくため息をついて、ふいと視線を逸らした。今は糸羽にかまっている場合ではないのだ。


 あたしは二本の温度計を取り出すと、一年生たちを見渡して声を張り上げた。


「比較用に、反応前のルミノール液を用意しています。前のほうの人は、温度計の数値を確認してみてください……」




        ※




 一年生たちが去って、ようやく化学室は静かになった。

 ふう、と息をつき、防護用メガネを外す。途端、待ってましたとばかりに糸羽が駆け寄ってきた。


「チカ! チカチカ、チカちゃーん‼」

「一回でいいから。なに」

「化学部の新入生勧誘会、おつかれさま! 後輩いっぱい入るといいね!」


 にっこりと糸羽が笑う。あたしは「ああ、うん」と言うと、まとめていた髪をほどいた。

 てきぱきとビーカーや溶液を片付ける。その間も糸羽はずっと、楽しそうにべらべら喋り続けていた。


「実験、すっごいキレイだった~! 魔法みたい!」

「魔法じゃなくて化学」

「糸羽にとっては、化学も魔法もいっしょだよ。どっちも理屈がわかんないもん」

「授業をちゃんと聞きなさい」

「えへへ~」


 ぺちん、とおでこを叩いてやると、糸羽は照れたように笑った。リボンやレースで〝病みかわ〟っぽくアレンジした制服の裾を、楽しそうにいじっている。まったく、何がそんなに嬉しいんだか。


 小桜糸羽こざくらいとはというこのメンヘラ地雷系女子は、あたしのルームメイトだ。学生寮で同室を割り当てられている。一応は友人……というポジションでもあるのだけれど、あたしはその肩書の前に〝便宜上の〟という言葉をつけることを忘れない。


 正直、メンヘラ気質でベタベタと依存ばかりしてくる糸羽を、あたしはひそかに軽蔑している。しょせんはこいつも毒女、世間にはびこる有象無象の毒のひとつに他ならない。


 でも、クラス中に無視されているあたしには、他につるむ相手がいなかった。二人一組を作ってくれとか、グループになって何かをするとか、そういうときに味方が一人いるだけでもかなり違う。だからあたしは仕方なく、糸羽と一緒にいる。あくまでも、それだけ。


 もちろん、糸羽にはそんなこと言えない。言って愛想を尽かされたら面倒だから。だからせいぜい、糸羽が離れていかない程度にそっけなく、ベタベタしすぎない程度に甘やかしている。


「ね、チカちゃん。糸羽ねえ、いいもの持ってきたんだよ」

「なに」

「じゃじゃ~ん! なんと! 糸羽特製、くまちゃんです!」


 目の前に突き出されたのは、クマのぬいぐるみだった。まるで既製品のような出来栄えだが、糸羽の自作らしい。


「裁縫部の新入生勧誘のためにね、ぬいぐるみ作りのパフォーマンスしたの。完成品、チカちゃんにあげる」

「あ、ありがと」


 ぐいぐいと白衣の胸元にクマを押し付けられ、あたしはおずおずとクマを受け取る。

 いつもながら、本当によくできている。綿の片寄りもないし、縫い目はなめらか。全体がきっちり立体として構成されていて、顔のバランスも申し分ない。


「これ、逆に新入部員入んないんじゃない?」

「え~⁉ なんで⁉」

「入部したらこのクオリティを求められるってことじゃん」

「そんなことないのに! どうしよう、だから糸羽しか部員いないの⁉ でもわざとヘタに作るなんてできないよ~!」


 じたじたと糸羽が身をよじる。声も顔も動作も、本当にやかましい子だ。

 使い終えた用具類を全て規定の場所に戻すと、あたしはちらりと糸羽を見た。


「いんじゃない。部員、一人でも」

「やだよぉ」

「ヘンなの入って、部内でもいじめられたらヤでしょ」

「……っ」


 ぴくっ、と糸羽の指先が跳ねた。あたしは小さく息をつくと「そゆこと」と呟いた。


「あんた、目ぇ付けられやすいんだから。気を付けなよ」

「……うん。いつもありがとう、チカちゃん」

「べつに」


 こんなの、ただ『毒を喰らわば皿まで』ってだけだ。どうせあたしの身体には、とっくに毒が回っている。この女のせいで。だったら、ヘタにじたばたするより、糸羽と身を寄せ合っていた方が楽。それだけだ。


「――ねえ、チカちゃん」


 ぽつり、と糸羽がささやいた。視線だけを投げかける。糸羽は大きな目をじっと凝らして、あたしのことを見つめていた。


「チカちゃん。糸羽のこと、好き?」


 いつもの台詞。お決まりのやり取り。糸羽はすぐ、この質問を投げかける。まるであたしに見捨てられたら、世界のすべてが終わってしまうかのように。


 ……いや、『終わってしまうかのように』ではない。本当にそうなのだ。


 全寮制の女子校は閉鎖された牢獄だ。全てはその中で完結し、うまくやれなかった人間はすぐに吊るし上げられて、執拗に狙われ続ける。それでも、あたしたちは絶対にここから逃げられない。どれだけ無視されても、盗まれても、罵られても、殴られても、絶対に逃げることはできない。


 あたしも、糸羽も、相手に見捨てられたら終わってしまう。だから必死だ。どちらもが。


 あたしは白衣を脱ぐと、ばさりと糸羽の頭にかぶせた。うわ、と小さな声を上げ、糸羽がもぞもぞともがく。

 白衣の塊に向かって、あたしは小さく言った。


「……好きだよ。たぶんね」


 もぞり、と白衣から顔を出した糸羽は、ぱちぱちと何度かまばたきをして「えへへ~」と下手くそな笑みを見せた。あたしも、少しだけ笑った。




        ※




 新入生勧誘会の効果はそれなりにあった。

 手渡された数枚の入部届を持って、あたしは廊下を歩いていた。職員室は三階だ。実習棟の上まで上がって、渡り廊下を行くのが空いていて早いだろう。


(……それに、人の多いとこ通って、毒女どもに出くわすのもヤだし)


 そう思ったのが間違いだった、というか、浅はかだったらしい。

 あたしが三階に辿り着いた瞬間、階段の影からぐんっと腕を引かれた。


「うわっ」


 バランスを崩したのもお構いなしに、複数の手が伸びてくる。ほとんど床を引きずられるようにして、あたしは階段を上らされた。


「いッ……」


 容赦ない力で、ガンガンと段差に身体がぶつかる。いくつもの鈍い痛み。めちゃくちゃに引っ張られて、自分がどっちを向いているかも良くわからない。


 それがようやく落ち着いたかと思うと、どさっ、と床に放り投げられた。床に手をつき、顔を上げる。いくつもの上履きが見えた。


「っ……金城……」

「やっほー、夜邑よるむらチカちゃん」


 たむろする毒女どもの中央で、勝ち誇ったように少女――金城雫かねしろしずくが笑っている。吊り上がった口の端は残虐な色を宿していて、うっすらと細められた瞳の奥には薄暗い愉悦が見えた。


 ぞくり、と生理的な恐怖。これから起こるのがどんなことなのか、あたしは良く知っている。入学してからの一年で、嫌と言うほどわからされた。


 金城は残忍な笑みを浮かべたまま、ゆっくりとあたしに顔を近づけた。ぐいっ、と顎を鷲掴みにされる。指が食い込むほど強引に上を向かされ、喉の奥で呼吸が潰れた。


 金城の顔が、ますます近付いてくる。吐息がふれあうほどの距離で、にい、と金城の目が細められた。


「なあに、これ。目の上、ピンク色してるけど」

「っ……」

「メイクなんかして、いっけないんだ〜」


 本当は、放課後の化粧までは禁止されていない。校則違反でもなんでもないのだ。でも、毒女どもにそんな理屈は通じない。


「てかキモくない?」

「似合ってないし」

「まぶた腫れてるみたい。ヤバ」

「ホントに腫らしちゃう?」

「見えるとこはやめなよ、かわいそうだよ〜?」

「あははは」


 ……楽しそうでなによりだ。この調子で見逃してくれないだろうか。

 でも、この閉じられた牢獄で、そんなうまい話はない。金城と取り巻きの女どもは、けたけたと笑いだした。かと思うと、ガッ、と髪を鷲掴みにされる。


「痛っ……!」

「ほら、いつまでも這いつくばってないで、立って立って」


 別の女たちに両腕を掴まれて、無理やり立たされる。金城が、さも嬉しそうな顔であたしの前に立った。


「メイク、好きなんだ?」

「……べつに」


 瞬間、ぱあん、と音がした。一瞬遅れて、かっ、と頬に熱と痛み。顔面を思いっきり張られたのだ。


 金城はぎらぎらと目を光らせて、もう一度「メイク、好きでしょ?」と尋ねた。黙って頷く。さすがに片頬を叩かれて、もう片頬も差し出すほどのバカじゃない。


 金城がにたにたと笑う。


「そうだよねえ、好きだよねえ。じゃあ、アタシたちがもっと可愛くしてあげるね? ……ユナ、あれ」

「はいはーい」


 取り巻きの一人が、ポケットからばらばらと大量の口紅を取り出す。毒女どもが競うようにそれに群がった。


「あたしコレ!」

「え、じゃあ私はこっち」

「ずるーい、それあたしも欲しかったぁ」

「ほら、仲良く仲良く。どうせどれも大差ないから」

「あははっ、そうかも」


 全員が口紅を手に、その蓋を放り捨てる。からん、からから、と軽い音がして、取り取りのリップケースの蓋が床に散った。


「はぁいチカちゃん、お化粧の時間だよ〜?」


 金城がにやにや笑いながら、口紅を長く繰り出した。毒々しい赤が、目の前に迫ってくる。


「っ……あ、ぁ……」

「シオン、つむぎ。こいつ動かないように押さえといて」

「いいけど、あとで交代してね」

「おっけー」

「ひっ……‼」


 喉の奥で悲鳴がつぶれる。もがいて、身をよじって、だけど逃げられない。金城が笑う。他の連中も笑う。耳をつんざく嘲笑。



「じゃあ――メイクアップ、スタート♡」



 ――そこからは、あんまりよく覚えてない。


 ただ、全身に口紅を塗りつけられ、顔も腕も制服も、ありとあらゆるところに真っ赤な文字で罵倒を書き込まれ、汚れていないところがなくなった辺りで、寄ってたかって腹や腰、脚なんかを蹴られまくった。それだけが、ぼんやりとした離人感に満ちた記憶として残っている。


「やだ、私らめっちゃメイク上手じゃない?」

「カワイイ〜」

「はい、こっち向いて〜」


 シャッター音。口の中の血の味。毒女どもの高笑い。全身の鈍い痛み。関節がぎしぎしする。


「ったく。……うぜぇんだよ、テメー」


 最後に、吐き捨てるように言うと、金城が落ちていた入部届を踏み躙った。ぐりぐりと靴の裏でこじるように何度も床に擦りつける。ぐしゃぐしゃになったそれを拾い上げて、金城は入部届をびりびりに破り捨てた。


 倒れ込んだあたしの上に、ひらひらと紙の破片が落ちてくる。その上に、ばらばらと使い終わった口紅が落とされて、まるで雹のように肌を打った。


「糸羽なんかの肩持つからだよ。バーカ」

「クソメンヘラとお幸せに」

「あんたらまとめて、マトモに卒業できると思うなよ」


 ぱたぱたと、足音たちが階段を降りていく。きゃははは、と楽しげな笑い声が遠ざかって――それきり、静かになった。


「っ……いったぁ……」


 よろよろと立ち上がる。身体中がべたべたして気持ち悪いし、全身が真っ赤でちょっとしたグロ状態だ。


 ふーっ、と長い息を吐いた。見渡せば、踊り場には大量の口紅が散らばっている。掃除する義理もないが、放置していけば新たなイジメのネタにされてしまう。


 仕方なく、先端がぐちゃぐちゃに潰れた口紅たちを拾って、ポケットに突っ込んだ。ぬる、と気味の悪い感触があったが、無視した。


「……ほんと……なんであたしが、こんな目に……」


 ぽそり、とつぶやいた声は、誰に届くこともなかった。あたしはゆっくりと歩き出すと、よろめきながら階段を降りていった。




        ※




 全寮制の中高一貫女子校に、高校から編入してきたあたしは、学内の〝掟〟を何も知らなかった。


 糸羽がいじめられていることも、金城の指示なく糸羽に声をかけてはいけないことも、それどころか、糸羽の存在を認識していると周囲に知られることでさえ、ここではタブーだったなんて、あたしは何ひとつ知らなかった。


 あたしが糸羽のルームメイトになったのも、他の生徒がどうしても糸羽と関わりたがらないから、という理由だったらしい。


 そんなことも知らないあたしは、この子いつも一人だな、とぼんやり思っているだけだった。寮室でも最低限の声掛けしかしなかったし、糸羽は糸羽で、あたしが金城の手先かどうか見極めがつかなかったのだろう。表立って話しかけてくることは一度もなかった。


 入学して、一ヶ月まだ経っていないくらいだろうか。あるとき、糸羽が寮室でぬいぐるみを縫っていた。糸羽は部員がたった一人の裁縫部で、自室にはミシンやトルソーをいくつも置いていた。


 その日、ぬいぐるみを縫う糸羽の目は涙で真っ赤に腫れていて、すん、すん、と何度も鼻をすする音が聞こえていた。何かあったのは明らかだった。


 流石になんか言ったほうがいいのかなと思いつつ、あたしはどう声をかけたらいいかわからなかった。

 そのとき。


「――痛ッ」


 小さな声が聞こえた。

 振り返ると、作りかけのぬいぐるみを抱いて、糸羽が背を丸めている。その指先にはぷっくりと赤い血が盛り上がっていた。


「針で刺したの?」

「ッ……‼」


 びくっ、と糸羽の背が大げさに跳ねる。ようやく口実ができたあたしは立ち上がり、彼女の傍に歩み寄った。


「手ぇ貸して」と絆創膏を取り出す。

 しかし糸羽は怯えた目でこちらを見上げて、首を左右に振るばかりだった。


 よくわからない反応に困惑しつつも、流血を放置しておけない。あたしは無言で糸羽の手首を捕まえると、指先にティッシュを押し当てて血を吸わせ、絆創膏を巻き付けた。


「……これでよし。あんた替えの絆創膏とか持ってる? ないなら何枚かあげるけど」


 糸羽はあたしの言葉など耳にも入っていないかのようで、ただひたすらに目を見開いている。

 ビー玉みたいな目がゆっくりと持ち上がって、あたしを見た。


「――……なんで?」

「は? だって、巻かなきゃ痛いでしょ」

「……」


 あたしの答えに、糸羽は何の反応もしない。こぼれおちそうなほど目をまんまるにして、ぽかんと口を半開きにして、呆然とあたしを見つめている。

 震える、小さな声がした。


「痛いって、――これが?」


 糸羽が、ぎゅっと指先を握りしめる。あたしは困惑して眉を寄せた。


「血ぃ出りゃ誰でも痛いよ。あんた何言ってんの?」

「だ、だって、だって――」


 そこで初めて、あたしは糸羽のスカートの裾から、アザが覗いていることに気が付いた。赤黒い新しいものから黄色くなった古いものまで、何層にも重なったアザ。


「――あんた、それどうしたの」

「あっ……」


 ばっ、とスカートを押さえる糸羽。


「え、えっと……えへへ……」


 この子、めちゃくちゃ笑うの下手だな。口の端は情けなくふにゃふにゃになってるし、眉は下がってるし、ぜんぜんマトモに笑えてない。

 あたしは小さくため息をついた。


「あんたが嫌なら、深くは聞かない」

「……ん……」


 糸羽がこくりと頷く。それきり、部屋の中に沈黙が落ちた。


 シンと静まり返った寮室。誰もいない空間。トルソーの影に隠れるように、小さくなって座っているアザまみれの少女。小桜糸羽。


 静けさに呼び覚まされたせいだろうか。なんとなく、あたしは口を開いていた。


「……毒の汚染みたい、それ」

「え……」


 糸羽がかすかに顔を上げる。その視線からふいと顔を背けると、あたしは静かに続けた。


「だってそうでしょ。毒にやられたんでしょ、そのアザ」

「毒じゃないけど……その、金城さんとか、に……」

「だから毒じゃん。理由もないのに人をアザまみれにするなんて、そんなヤツはただの毒女だよ」

「ど、どくおんな……?」


 糸羽が驚いたように目を丸くする。あたしは顔を背けたまま「そう」とそっけなく言った。


「みんな毒だよ。よってたかって人をいじめるやつも毒。自己保身に走る教師も毒。それを許してる学校も毒だし、呼び戻さない親も毒だし、そんな学校が存在しているこの国も毒。人も地球も宇宙でさえも、この世界にあるありとあらゆる存在は、みーんな毒にまみれてるの。それに気付いてるあたし以外、全部ね」

「……」


 糸羽は生まれて初めて生きた人間と出会いました、みたいな顔をして、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。


「夜邑さんは――」

「――チカ。嫌いなの、名字」

「え? あ、ち、チカちゃんは……糸羽と同じなの?」

「同じ?」


 眉を寄せて尋ねると、糸羽はこくこくと頷いた。


「チカちゃんが言うことがホントなら……糸羽たちはマトモなんだよね? チカちゃんと糸羽だけが、この狂った世界の中で唯一の正常で、他はみんな毒なんだよね?」

「……そうだよ」


 少しためらったが、そう答えた。

 本当は、マトモなのはあたしだけで、あんたもしょせん毒女のひとりだよ、と言いたかったけれど。この状況で糸羽を切り捨てられるほど、あたしは非情にはなれなかった。


 糸羽はあたしの言葉を聞いて、目を見開いてぶるぶる震えていた。こぼれ落ちそうな目、ビー玉みたいなそれを必死で持ち上げて、懸命にあたしを見つめてくる。まるですがるみたいな眼差しで。


「……ねえ、チカちゃん」


 ぽつり、と糸羽がつぶやく。あたしはようやく糸羽に視線を戻した。


「なに」

「一ヶ月、ずうっと一緒に暮らしてきて……糸羽、ずっとチカちゃんに聞きたかったことがあるんだけど……」

「だから、なに」


 ふるふると糸羽のくちびるが震える。視線がうろうろ、中空をさまよって、意を決したようにあたしを見つめた。


「糸羽のこと……少しでも、好き?」


 消え入りそうな声が尋ねた。握りしめた手、その先で、血のにじんだ絆創膏を巻いた指先が震えていた。


 じくり、と胸の奥がしみる。毒が回るような、痛みに似た感覚。込み上げたのは哀れみと疎ましさが半分ずつ混じり合った、言葉にしがたい感情だった。


「……好きだよ。たぶんね」


 全肯定はしない。でも、全否定もしなかった。


 ただの浅い同情から、うっかり言ってしまった一言。


 でも――これが全ての悪夢の始まりになるなんて、このときのあたしは、思ってもみなかったのだ。




        ※




「――チカちゃんッ‼」


 悲鳴じみた大声に、はっ、と我に返った。


 のろのろと、口紅まみれの顔を上げる。見れば、被服室のドアから糸羽が飛び出してくるところだった。


「どうしたの、それ!」

「……糸羽」


 ぼそり、と声が落ちる。かすれてひび割れた声に、糸羽が泣きそうにぐしゃりと顔を歪めた。


「こっち来て!」


 口紅まみれの手首を掴まれ、被服室に引っ張り込まれる。それがさっきの、踊り場に連れ込まれたときの記憶と重なって、一瞬だけ身体がすくんだ。


 糸羽は勢いよくドアを閉めると、あたしを椅子に座らせた。ハンカチを取り出して、真っ赤に汚れた肌や制服を必死に拭く。


「……ハンカチ、汚れるよ」

「そんなのどうでもいい‼」

「ていうか、そんなんじゃ取れないし」

「っ……」


 服や肌についた口紅は簡単には落ちない。それくらいわかっている。クリーニングに出すにしたって、すぐには戻ってこないし、追加料金もかかる。今すぐどうにかなるはずもない。


「いいよ。クレンジングで洗えば、多少はマシになるでしょ……シャツは無理だろうけど……」


 力なく呟き、ただぼんやりと座っているあたしに、糸羽が泣き出しそうな顔をした。


「……チカちゃん、ちょっと待ってて」


 糸羽はきっとくちびるを引き結ぶと、ばたばたと隣室に消えた。かと思うと、大きな布のロールを持って来る。


 ばさり、とテーブルに布を広げると、ちらり、とあたしに視線を向ける。全身を検分するように眺めてから、糸羽は裁ちばさみで勢いよく布を切り始めた。


「十五分で縫う。簡単なワンピースだけど」

「……いいよ。どうせ寮まで歩いて五分でしょ」

「――糸羽が嫌なの‼」

「っ……」


 仕方なく、あたしは椅子に体育座りになって、糸羽の作業を見守る。


 糸羽は、まるでマシンガンみたいな勢いでミシンを踏みはじめた。すごい早さで布が縫われていく。なんのガイドもないはずなのに、目印が付いているように正確に手が動く。


(……すご)


 こういうのを、プロの手仕事っていうんだろうか。糸羽の将来については聞いたことがないけれど、きっとそういう道に進むに違いない。


(ああ、でも……)

 それもこれも、あたしたちが無事に卒業できたら、の話だ。


 閉じられた牢獄で、助けなどどこにもなくて、あたしと糸羽はひたすら無視と搾取と暴力を受け続ける。金城は「無事に卒業できると思うなよ」と言った。無事じゃないなら、あたしと糸羽は、これから一体どうなるんだろう。


 ぼんやりとミシンの駆動を眺めていると、急にがくんと針が止まった。


「下糸なくなっちゃった……ボビン作らなきゃ」

「ボビン?」


 ぽつりと言うと、糸羽が頷いた。


「ミシンは上糸と下糸、二つの糸を使って布を縫い合わせるの。上糸はミシンの上に取り付けてあるコレ。下糸は――」


 ぱかり、と糸羽がミシンの底部にあった蓋をあけると、中からとても小さな銀の糸巻きが現れた。


「これ。ボビンっていう器具に巻き付けて、ミシンの中に入れて使う」

「でも、空っぽだね」

「そう。だから今から作るの」


 糸羽は手際よくボビンをミシンの上部にセットすると、ふたたびミシンを踏み始めた。上糸の糸巻きから伸びた糸が、するするとボビンに巻かれていく。ボビンはみるみる膨らんでゆき、すぐにミシンはぴたりと止まった。


「できた。あとはこれをミシンの内釜に戻して、糸をかけて、OK」

「へえ。そういう風になってるんだ」

「ついこないだ家庭科でやったじゃん」

「副教科なんてまじめに受けてないよ」

「チカちゃん、悪い子だなあ」


 眉を下げて苦笑する糸羽。あたしもまた、ぼんやりした笑みを返す。

 糸羽はミシンに向き直ると、またダカダカと布を縫い始めた。

 けたたましい機械音に混じって、糸羽の独り言じみた声がする。


「……チカちゃんは、糸羽に絆創膏を巻いてくれた」


 覚えてる。あれがすべての始まりだった。

 その翌日、教室で糸羽が嬉しそうに話しかけてきた瞬間に、あたしの命運は決まったのだ。破滅へと。


「チカちゃんは、糸羽に優しくしてくれた、たった一人の人。いつだってチカちゃんは糸羽の血を止めてくれる」

「……買いかぶりだよ」


 つぶやきは、ミシンを踏む糸羽の耳には届かなかった。


「糸羽がどれだけ傷付いても、踏まれて蹴られてボロボロになっても、チカちゃんが絆創膏を貼ってさえくれれば、糸羽は笑顔になれる。チカちゃんは糸羽の絆創膏なの」


 糸羽はいつもの、下手くそな笑みを浮かべた。

 あたしは、なんと返事をしたらいいかわからなかった。

 糸羽は本気だ。本当に、あたしの存在が救いなのだと言っている。でもそれは、事実でありながら事実ではない。


 あたしと〝友人〟になってから糸羽が楽になったのは事実だ。ただ、単にそれは金城のターゲットが糸羽からあたしに移ったから、というだけだろう。


 あの絆創膏事件の翌日、目をきらきらさせた糸羽がまとわりつくようになってから。あたしは〝小桜糸羽の仲間〟とみなされた。糸羽とあたし、まとめていじめに遭うようになった。


 すぐに泣きわめく糸羽より、ふてぶてしいあたしの方がムカついたんだと思う。いじめのターゲットは、すぐに糸羽からあたしに変わっていった。内容も、次第に苛烈になっていった。


 なにもかも糸羽のせいだ、と思う。でも、今さら糸羽を切り捨てることはできない。いくら糸羽が諸悪の根源だったとしても、今のあたしにはもう、糸羽しか味方が残っていない。だから一緒にいるしかない。どれだけ諸悪の根源でも、ウザくても、苛立っても、疎ましくても。


「――できた!」


 顔を上げる。糸羽がにっこりと微笑んで、ブルーのワンピースを掲げていた。この短時間で作ったとは思えない、ちゃんと袖のついたワンピースだった。


「伸びない素材だけど、ボートネックにしたから、ちゃんと頭は通ると思う。着替えてみて」

「……ん」


 真っ赤に汚れた制服を脱いで、ワンピースをかぶる。少しサイズは大きいけれど、ちゃんと着れるし、なんならちゃんと可愛かった。さすがだ。


「どお? ちょっと肩口がもたつくかな……」

「いいよ、直さなくて」

「なんか気になるんだもん」


 糸羽は手首につけたウサギのピンクッションからまち針を取って、ワンピースの細部を直し始めた。ちょいちょいと裾をかがって、肩口をつまんで、なんだかよくわからないが専門的な作業をしている。


「糸羽ねえ、チカちゃんのお薬になりたいの」

「……薬?」

「そう。毒まみれの世界で、チカちゃんを解毒してあげるような、お薬になりたい」

「あたしはあんたの絆創膏で、あんたはあたしの薬って?」

「うん。傷まみれの糸羽にチカちゃんが絆創膏を貼って、毒まみれのチカちゃんには、糸羽がお薬をあげる。そうしたら、あたしたちは生きていける」

「……」


 ――バッカじゃないの? そう言いたいのをかろうじて堪えた。


 わかってるんだ。別にあんたは、あたしじゃなくてもいい。

 たまたま傍にいてくれて、たまたま事情を知らなくて、たまたま一瞬だけ優しくしてくれたから、あたしに懐いているだけ。たまたま同じようにいじめられたから、勝手に親近感を持ってるだけ。


 あんたがベタベタくっついてくるせいで、あたしまでいじめられてるんだよ。あたしにとっては、あんたもアイツらと同じ。毒のひとつでしかない。なにが薬だ、ふざけんな。


「……ふふ、チカちゃん、すごい顔」


 裾をかがっていた糸羽が、小さく笑う。相変わらず下手くそな、ふにゃふにゃで不自然な笑顔。


「糸羽、本気だよ」


 ぽつり、と糸羽が言った。テーブルの上を手がさぐって、絆創膏まみれの手が糸切ばさみを手に取る。


「糸羽たちがいじめられるのは、無力だと思われて、舐められてるからだよ。でも糸羽、チカちゃんがこんな目に遭わされてるの、もう放っておけない。どんなものでもいいから、力を見せつけて、誰にも舐められないようにすれば、きっと――」

「……舐められないって、それが難しいんじゃん」

「ううん、大丈夫」


 するすると針を何回か動かして、つーっ、と糸を引っ張る仕草。小さなはさみがぱちん、と糸を切って。



「絶対に――糸羽が、チカちゃんを解毒してあげる」



 ビー玉みたいな瞳が、じいっ、とあたしを見つめて、言った。

 その瞳の奥に、どこか凄みのようなものを感じて、言葉が詰まる。ぐっと口元を引き結んだあたしに、糸羽はどこか寂しげな目をした。そして。


「チカちゃん。糸羽のこと、好き?」


 とても静かな一言。

 あたしはどう答えたものか迷って、けれど、深く考えることも、正直になることも、疲れきった今はもう面倒くさかった。だから、習慣通りに答えた。


「……好きだよ。たぶん」


 本当は、かなり鬱陶しいし、すごく面倒くさいし、なにもかもあんたのせいだと思ってるし、だけどあんたのおかげでもあるし、好きだけど嫌いで、逃げたいけど一緒にいたくて、こんな感情、一言で返事することなんて、到底できやしないんだけど。


「そっかあ。……えへへ」


 下手くそな笑顔を浮かべる糸羽。あたしはその、ふにゃふにゃした不自然な笑みを、曖昧な表情で見つめることしかできなかった。




        ※




 その翌日。糸羽はクラス全員の前で、こう宣言した。


「糸羽、ドレスデザインのコンテストに出る。学生のじゃない。プロが参加する、本当のコンテスト」


 教室は静まり返った。なにしろ、金城の許しがなければ糸羽を認知することすら許されないのだ。


 教卓の前で宣言する糸羽を、どう扱ったものかわからないのだろう。教室には、困惑と指示を伺う空気が漂った。

 糸羽が言う。


「もちろん、縫製の技術でプロと勝負するのは難しいと思う。でも、デザインと刺繍なら、糸羽だって勝負できる」


 絆創膏まみれの手が、ずい、とひとつの糸巻きを取り出した。


「オーロラ銀の糸。やっと手に入れた特別製。これで刺繍したドレスで、糸羽は絶対優勝する。それで証明するの。糸羽たちは、あんたらみたいなしょうもない、なんの能力もない、ただの高校生とは違う存在なんだって――」


 その瞬間。

 ガンッ、と大きな音がした。

 椅子にふんぞり返った金城が、机を蹴り飛ばした音だった。


 全員の視線が金城に集まる。彼女は残虐な笑みをにやにやと浮かべて、楽しそうに髪をかきあげた。


「今、なんか聞こえた気がしたけど、気のせいだったみた~い。虫の羽音かなあ? まあいっか。次移動教室だよね? みんな、行こ」


 金城が立ち上がる。

 ようやく、魔法が解けたようにクラスの連中が動き出した。ノートや教科書を手に、足早に教室を出ていく。糸羽に視線を向ける人物は、誰もいなかった。


 ただひとり金城だけが、糸羽の隣を通り過ぎる瞬間に、

「――調子乗んなよ」

 低い声でささやいた以外は。


 教室から、あたしと糸羽以外の人物がいなくなる。あたしはどうしたものか迷って、小さくため息をつくと、仕方なく糸羽に歩み寄った。


 糸羽は頬を紅潮させたまま、教卓の前でふうふうと浅い息を繰り返している。あたしは糸羽の分の教科書を手渡した。


「なにやってんの、あんた」

「何って、宣戦布告」

「あのねえ……」


 呆れ返ったため息が漏れる。


「あんた、完全に目ぇ付けられたよ。せっかくターゲットがあたしに移ってたのに、バカじゃないの?」

「いいよ」

「いい、って……」


 糸羽は興奮の余韻で上ずった声で、にこりと笑った。


「糸羽がいじめを引き受けることで、チカちゃんが楽になるのなら、嬉しいから。それに、プロの大会で優勝したら、もう誰も糸羽たちをバカになんかできない」

「……」


 複雑な気分だ。

 糸羽の言うことは希望的観測でしかない。プロの大会で優勝なんて、そう簡単にできることじゃない。それに、仮に優勝したとして、あいつらが態度を変えるとも思えなかった。


(それに、なにより――)

 あたしの代わりにいじめを引き受けられたら嬉しい、という一言が。正直、すごく重かった。


 そんなの、恩を着せられてるみたいで気分が悪いし、それで糸羽になにかあったら後味も悪いし、あたしの存在が全てです、みたいに依存されるのは鬱陶しいのだ。


 絆創膏だと糸羽は言った。でも、あたしは別に聖人君子でもなんでもない、ただの女子高生だ。あたしには糸羽を癒やす力も義理もないし、そんな役目は荷が重い。かといって、今さら糸羽を突き放すこともできない。状況はすでに詰んでいる。


 どうすればいいんだろう。うんざりと、ため息を押し殺す。

 そんなあたしの肩を、糸羽はそっと両手で掴んだ。ビー玉みたいな瞳が、じいっとあたしを見つめてくる。


「大丈夫。きっと糸羽が、チカちゃんを解毒したげるから」

「……あー、うん。期待しないで待っとく」

「えへへ~」


 糸羽が笑う。下手くそな笑顔。あたしは笑わない。

 誰もいなくなった教室の片隅で、オーロラ銀の糸巻きが、きらきらと複雑なきらめきを放っていた。




        ※




 それからというもの、案の定、糸羽へのいじめは激化した。


 盗む壊すは当たり前、殴る蹴るも通常運転、苛烈どころか激烈としか言いようのない仕打ちが、昼も夜もなく繰り返された。その分あたしへのいじめは軽くなったけれど、こんなの嬉しくもなんともない。


 糸羽はめげなかった。どんな酷い目に遭っても、シャンと顔を上げて前を向き、昼は学校でデザイン画を描き、放課後はミシンと向き合い続けた。そしてどんなことをされても、あのオーロラ銀の糸だけは絶対に手放さなかった。


 ある朝、あたしは作業机に突っ伏して寝ている糸羽を揺り起こした。あたしの身支度はとっくに終わっていて、そろそろ寮を出ないと遅刻する時間だった。


「わああん! なんで起こしてくんなかったの~!」

「起こしたよ。あんたが起きなかったんじゃん」


 嘘だ。本当は、口の端が切れた糸羽の顔を見るのがつらくて、わざと放置していたのだ。昨晩せがまれて貼ってやった絆創膏は、寝癖と一緒にくちゃくちゃになっていた。


 糸羽はばたばたとツインテールをまとめると、ばさりと制服をかぶった。もぞもぞとジャンパースカートから顔を出し、カバンを引っ掴む。


「あわわ、チカちゃん、今何時……⁉」

「八時三十六分」

「わーっ‼」


 玄関で待機しているあたしの横で、糸羽がトントンと靴を履く。

 そのとき、あたしはふと、糸羽が作業机の上にオーロラ銀の糸を忘れていることに気が付いた。


 口を開きかけて、けれど、ちらりと時計を見る。今靴を脱いで、また履いてなんてしていたら、間違いなく遅刻だ。


(それに……少しくらい糸羽が困ったって、あたしの知ったことじゃないし)


 ちくり、と胸が痛む。どうしてこんな気持ちになるんだろう。


 糸羽がいじめられるのはあたしのせいだ。あたしがいじめられるのを見てられなくて、糸羽は宣戦布告をした。そのせいで、糸羽は今、ぼろぼろになっている。


 だけど、だけど――あたしはそんなこと、一言も頼んでない。


 大体、あたしがいじめられるきっかけは糸羽だったのだ。それが今度は逆になっただけ。それだけの話なのに。


(……ああ、ヤだな)


 ぐるぐると嫌な気持ち。毒が回っていく感覚。

 それを振り切るように、あたしはオーロラ銀の糸から視線を外した。寮室のドアを開け、短く言う。


「走るよ、糸羽」

「うんっ!」


 それきり、あたしたちは勢いよく走り出した。胸の底でじりじりと、見て見ぬふりをしたオーロラ銀の糸が存在を主張する。それもすぐ、息切れの苦しさにまぎれて、わからなくなった。




        ※




 昼休みの終わり際、ようやく忘れ物に気付いた糸羽は、予想通り「オーロラ銀の糸を忘れた!」と大騒ぎした。


 うんざりした風に「往復十分なんだから、後で取りにいけばいいでしょ」と言いながら、それでもあたしは、糸羽が早く忘れ物に気付いて良かった、なんて思ってしまった。


 その後、五時間目の体育で、糸羽はよってたかってバレーボールを打ち付けられていた。あたしはコートの隅っこで、糸羽が手だけは怪我しないように背を丸めているのをじっと眺めていた。


 けれど、今日の糸羽は運が良かった。バレーの最中、金城がボールを受けそこねて怪我をしたのだ。

 足首を派手に痛めた金城は、念のために早退して、寮の自室で休むことになった。


「放課後すぐプリント届けに行くからね」

「お大事にね」

「痛いよね、かわいそう」


 口々に言う取り巻きの毒女どもに見送られ、金城は大仰に送り出されていった。消えていく金城を、糸羽は不思議なほど静かな目でじっと見つめていた。


 六時間目は家庭科の被服実習だった。

 シンプルなエプロンを作る授業で、苦戦するあたしをよそに、糸羽は二十分もかけずに作業を終わらせた。


「先生、エプロンできちゃったんで、自分の作業してもいいですか?」

「あら、小桜さんは相変わらず仕事が早いわね。他の人の邪魔にならないようにするのよ」

「はあい」


 おっとりした家庭科の先生が言うと、糸羽はさっと裁縫部のミシンの電源を入れ、トルソーを出してきた。現れたドレスの出来栄えに、クラスの連中が一瞬だけどよめく。無視を命じる金城がいないからか、どよめきは普段より長く続いた。


 糸羽はトルソーのドレスをじっと見つめると、ふーっ、と長い息を吐いた。目を閉じて、ゆっくりと開く。


「あの、先生。忘れ物、寮まで取りに行ってもいいですか。大事な糸を忘れちゃって」

「あらまあ。あなた、第一寮だったかしら?」


 先生が廊下のほうを指差す。糸羽は首を振った。


「そっちじゃなくて、第二寮です」


 窓のほうを指差す糸羽。先生は残念そうに眉をひそめた。


「じゃあ、往復すると十分はかかっちゃうわね」


 先生の言う通りだ。第一寮と第二寮は校舎を挟んで反対側にあり、校舎から第一寮は五分で往復できるのに比べて、校舎から第二寮は往復に十分かかってしまう。


 ちなみに一人部屋がメインの第一寮と、二人部屋ばかりの第二寮は、内申点で入居生徒が割り振られており、金城のような外ヅラのいい生徒はだいたい第一寮に住んでいる。


「すぐ戻ってくるんですよ」

「はあい、すぐ戻ります!」


 そのやり取りを、あたしは不器用にミシンを動かしながら聞いていた。


 糸羽ががらりと被服室を出ていく。敵ばかりの中でひとりぼっちにされたような気がして、妙に心細くなる。糸羽に早く戻ってきてほしいなんて思ってしまう。


 あたしは感情を振り切るように、ぐっ、とミシンペダルを踏み込んだ。ダダダッ、と布が走って、あっと言う間もなく縫い目が大きく歪んだ。


 糸羽が戻ってきたのは十分と少ししてからだった。往復ダッシュにプラスして、糸を探しでもしたのだろう。戻ってきた糸羽の息ははあはあと弾んでいた。


「おかえり、糸羽。オーロラ銀の糸、見つかった?」

「うん、ちゃんとあった。ほら!」


 糸羽は糸巻きを握った手を高く持ち上げた。きらり、とオーロラ銀がきらめく。しかし、糸羽はすぐにそれをソーイングボックスにしまった。あれだけ大騒ぎして取りに行ったわりに、まだ使う工程ではないらしい。


 糸羽はあたしの隣に座り込むと、もくもくとチュールにスパンコールを縫い付け始めた。その指先が、かすかに震えている。この調子だと、あとでまた絆創膏が必要になるだろうか。


「糸羽。細かい作業するなら、息整えてからにしな」

「う、うん……」


 すうっ、はあっ、と糸羽が深呼吸をする。あたしは小さくため息をつくと、ちっとも言う事の聞かないミシンを再び踏み始めた。


 そうして、ようやく授業が終わった。


 教室でのホームルームのあと、糸羽は被服室で作業を続けるようだった。あたしは化学部の活動があるので、ひとりで化学室に向かった。


 本当は、化学室も被服室も同じ実習棟なのだから、二人で一緒に行けばいい。だけどあたしはそれをしなかった。


 糸羽といると息苦しい。理由はわからない。ただ、疎ましさと鬱陶しさと罪悪感と、それからもっと他の、ぐちゃぐちゃした言葉にできない感覚が、あたしの中をひたすらかき回していた。



 ――チカちゃん。糸羽のこと、好き?



 脳裏に声が蘇り、あたしは足を止める。

 ぽつり、と声がこぼれ落ちた。


「……わかんないよ、糸羽」


 そのとき。

 ポーン、と天井のスピーカーから音がした。


『……た、たった今、学内で事件が発生しました。すぐに警察の方が来られます。生徒たちは今いる場から動かず、求められればかならず捜査に協力するようにしてください。繰り返します……』


「え……事件?」

 つぶやくのと同時に、背後から、ばたばたばた、と足音が聞こえてくる。振り返れば、別クラスの女子たちだった。


 女子たちはあたしの傍を通り過ぎ、遠くにいる別のグループに叫ぶように呼びかけている。


「聞いた⁉ 第一寮で人殺しだって‼」

「うそ! 死んだの誰⁉」

「四組の、あれ誰だったかな――そう、金城さん!」


(――え……っ?)

 どさっ、と手から鞄が落ちた。


 うそだ。あの金城が――殺された?


 どくっ、どくっ、と心臓がうるさいくらいに音を立てる。それなのに、指先は震えるほど冷え切っている。


 呆然と立ち尽くすあたしの耳に、遠くから鳴るサイレンの音が、突き刺さるように響いていた。




 

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