6話

暫くして東野が庭からリビングに戻ってきた。ちょうど落とし物の確認を終えた夏目と目が合うと、夏目は東野の耳元まで歩み寄り「この後管理人室に来てくれ」と耳打ちした。しっかりと頷いた東野は夏目の後ろについていくように管理人室に向かった。


「藤咲の様子はどうだった?」東野は最初、今日の手当てでの出来事を聞かれているのか、先ほどの食事の際の話を聞かれているのか分からず、口ごもってしまった。「聞き方が悪かった…。手当の時の、だ」夏目はそんな様子の東野を見て察したのか付け加えた。

「彼は珍しくあたしにたくさんのことを話してくれたわ。本当に珍しく…」東野は何か言いにくそうに語尾を濁した。夏目は非常に察しのいい男だったので、そんな東野の態度を見て「何か違和感は感じたか?お前目線で」普段よりワントーン低い声で呟くように訊いた。

「…彼、いつもの引きこもりの彼と、さっきみたいなした折りてくるときの彼となるで別人みたいだったの。だからそれが気になって…」夏目は東野の言葉を聞いて目を見開いた。一度浅く深呼吸をして夏目は口を開くと「…分かった。この後仕事だろ。気をつけろよ」と告げデスク上にある書類に目を落とした。その様子を見た東野は帰りがけに「今日はあたしが帰ってくる前にせめて仕事、終わりにしなさいよ」とまるで母親のようなセリフを言い捨て、部屋を立ち去って行った。夏目の耳には何も入っていないようだった。



8月21日。次の日の夜明け前。管理人室から激しい物音がした。物音は一度だけですぐに鳴りやんだ。その音は反対側の端の部屋である藤咲の部屋まで響いた。まだ東野は帰宅しておらず、他の住人たちは寝静まっていたため、誰もその物音に気が付かなかった。


暫くして東野がシェアハウスに帰宅した。いつも通り夏目が仕事をしていないか確認するため、夏目の部屋を訪問することにした。眠っているのであれば扉の鍵は締まっているが、扉の鍵は開いていた。

「まだ仕事してるのかよ」舌打ちを軽くしてそう呟いた東野は扉を開いた。するとそこには…


「…なにこれ」散らかった部屋があった。先ほどとは異なり散らかった部屋。書類は床にばらまかれ、床に割れたワインボトルが落ちていた。ワインは紫色の池を床に形成している。暗い部屋に目が慣れ、暫くして部屋の隅、机の裏からかすかに音が聞こえるのに気が付いた。「ごめ…なさい…っ」何かを必死に謝る声。声のする机の裏をのぞき込むとそこには丸まった夏目の姿があった。

「夏目…」夏目は膝を抱えて震えている。体からは酒の匂いがしたが、それどころではない。そんなのお互い様だ。それにこの人は酒が弱いわけでもない。酔ってこうなるタイプでもない。そう思うとますます分からなかった。

夏目のこの姿を見て、藤咲の部屋の方へと東野は勝手に体が動いていた。


「あんた、起きて」他の部屋の住人たちを起こさないように、藤咲の肩をポンポンとたたき、起こす。少し不機嫌そうな藤咲は顔を布団にもぐらせようとするが、間髪入れずに「夏目が…」と夏目の名前を東野が出すと目を見開き、血相を変えて藤咲は布団から飛び出した。

藤咲は廊下をそのままの血だらけのパジャマで駆けた。夏目の部屋へとまっすぐと。この一連の出来事は1分も時間がたっていないように思えるほど、一瞬のことだった。その姿に東野は唖然としていたが、藤咲の部屋の扉を閉めると静かに追いかけた。


藤咲は部屋の隅で震えている夏目を抱きしめた。冷や汗と涙で顔がぐしゃぐしゃになった夏目。その表情を見て東野はなんだか頭がくらくらした。東野は何度も夏目の部屋の電気を点けようとボタンを連打するが、一向に電気が点く様子はなかった。どうやら電球が切れているようだった。

「コウ。電気が切れてて…怖い思いしたね…ごめんねコウ」藤咲が夏目の足元にしゃがみこんで夏目の頭をなでながら言った。東野はその間自分の部屋を整理整頓し、夏目を部屋に運び込めるようにした。

「藤咲。あたしの部屋、開けておいたから彼を運んで」藤咲はそう告げた東野の顔を数秒間見つめた後頷いて夏目に何かを耳打ちした。二人は無言で立ち上がると、そのまま何も言わずに東野の部屋に歩いていった。


「東野さん。夏目のこと。頼んだから」ベッドの上に夏目を寝かせ夏目が寝入ったころ、藤咲は東野の顔を見つめただそれだけ告げると、東野の言葉を聞くことなく立ち去って行った。東野は一連の様子を見て、藤咲が立ち去った後小さなため息をついてベッドの端に腰かけた。

ほんのり体から香る赤ワインの香り。よく見るとズボンのすそに赤ワインのシミが出来ていた。まるで血液のようだ。

壁を見ながらふと先ほどの夏目の表情を思い出した。


昔、嫌というほど見たあの顔に似ていた。


彼の身の上話は何一つ知らない。彼は自分の過去を詮索せずに受け入れてくれた。その代わりにあたしは、彼の、夏目の過去を詮索しないことに決めた。だから今も何も知らない。いや、今もしかしたら勝手に彼の部屋を覗けば知ることが出来るかもしれないが、そうすべきではない。

もちろん、知りたいという好奇心がないわけではない。しかし彼の過去を勝手に覗く行為が、何も聞かず自分を受け入れてくれた彼に対しての背信行為であると感じたのだ。

東野は一つ、小さな深呼吸をした。やるせない気持ちに唇を前歯で噛んだ。



この先あたしは彼のことを何も知らないままずっとここにいていいのだろうか。

そんなことを考えながら東野は眠りに落ちた。

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