46話 災厄の力


話はほんの少しだけ遡る。

安眠のさなかにあったステラだが、急激な体の重みと、異様な悪臭を感じ取り、重たい瞼をこじ開ける。

しかし、視界が真っ暗だ。この暗がりは敷布団の厚みではない。全身がじっとりとぬめり、どろっとした重みが体にまとわりついてくる。その正体に気づくや否や、ステラは青ざめる。


「っガルム!起きて、ガルム!あなた、!」


全身に、真っ黒く粘ついた泥のような塊が、ベッドごとステラを包み込みつつあるのだ!ステラは迷いなく細腕を黒い泥に突っ込み、掻き回し始める。

塊は時に沸騰するように膨張し、ぱんっと泥があちこちに弾け飛んで糸の如く四方八方にへばりつく。

ぼこり、ぼこりと不定形の塊が泡立ちながら、時に蜘蛛のような、或いは蝸牛のような、或いは巨大な獣のような、有象無象の獣の特徴を形作り、バチン!と腐って溶けていく。


「なんてこと!夢を見てるせいね……!目を覚ましてガルム!戻れなくなる!」

『く、臭っさ!旦那ァ、ステラ嬢、この匂いは一体……うわあ!』

「っモルトー、近寄っちゃダメ!溶かされちゃう!」


泥と奮闘していると、視界の外からモルトーの声が入ってくる。悪臭に気づいて、部屋に入ってきたのだ。

シャカシャカと慌てて逃げ延びる音がしたので、這いずる泥からは逃げられたのだろう。

でろり、とステラの顔に、長ったらしい舌に似た泥が滴り落ちる。べろり、と肌を舐めるように泥が頬を垂れていき、その臭いの酷さに吐き気が食道からせり上がる。

泥を掻き分ける両手の肌が、青黒い泥に触れるたび、ジュウジュウと蒸発する音が響き、苦味と腐臭の混ざるえた悪臭を生む。

何度か強く泥を擦るように掻き分けると、ガルムの溶けかけた顔がわずかに覗く。虚な表情は、ステラの顔すらも見ようとはしていない。


「っく、う……!ガルム!起きて、自分の顔を、姿を、思い出してっ……!」


声を張り上げても、ガルムは反応しない。

どころか、ますます輪郭を失い、ぐちゃりと顔が泥肉の塊に飲み込まれていく。

刹那、筋状の青黒い泥が何本も、獣の牙や爪の形となって、ステラの肌を貫き、ずぷずぷと潜り込んでいく。

血こそ出ないものの、まるで泥の牙は肌のすぐ下を這い回るように蠢き、ぼこぼことステラの柔肌がその動きによって凹凸し、筋が浮かぶ。

爪はがっちりと下半身を掴み、逃げられないよう絡みつく。


「うぐ、っあぁああっ!?やめ、て、……マーナ、ガルムッ……!!」


直後、「いやああっ!?ステラ!ガルム!?」とヴィオの金切り声がその場に響く。

逃げて、と叫ぶより早く、更にステラの顔に大量の泥がのしかかり、だんだんと意識が奪われていく。


「キャアーッ!マグニ、マグニーッ!早くこっちにきてーッ!」


……そして時は現在。

寝床は徐々に腐り始め、ギシギシと荒っぽい音を軋ませて崩れていた。

泥の塊から僅かにはみ出た、ステラの細い足が、どうにか足掻こうともがき、上下に暴れる。

しかし粘つく泥の糸がますます絡まり、ずぶずぶと少しずつ飲み込んでいく。

マグニはすぐさま助けようと駆け寄るが、ヴィオが「触っちゃダメ!」と待ったをかける。


「なんで止めるんだよ!このままじゃステラさんが!」

「私、この泥を見たことあるわ。ロボ王様も時々、心が昂りすぎたり酷い傷を負うと、こんな泥を出してたの。

迂闊に触ると体がドロドロに腐って、一瞬で溶けちゃ……ああっ、ダメ!」


ヴィオの制止を振り切り、マグニは泥に両手を勢いよく突っ込む。

冷静な判断など下せる余裕はなかった。泥に手が触れた途端、熱した鉄に肉が焼かれるような、ジュウウウッという音と煙が上がる。

熱い!灼熱の湯につかるような熱さに、一瞬で手の感覚がなくなりそうだ。

だが、それが何だというのだ。熱いだけで音を上げていたら、二人は救えない!

マグニは死に物狂いで、泥を掻き分けて二人を探す。呆気に取られていたヴィオだが、「マグニ、無茶よ!手が!」と割って入り、マグニの手をぐいっと引き抜く。


「え?な……なんとも、ない?」


だが、泥がまとわりついた手は、熱でも毒でも傷ついてない。

壁や床、寝床などはドロドロに溶けたり変色しているというのに、マグニやヴィオ自身の肌は無傷そのものだ。

マグニは苛立った声色で「離してヴィオ、二人を助けないと!」とまた手を突っ込み、泥を掻き分ける。だがあまりにキリがない。なにせ泥を掘ったそばから、どんどん溢れてくるのだ。

その上、泥は貪欲にマグニの身体すらも飲み込み始める。悪臭の中で息を止めながら、時折ぶはっと顔を出し、ヴィオたちに振り返る。


「そももそこの泥、何!?魔術なの!?」

『私の推測が正しけりゃあ、ガルム様から災厄の力が漏れ出てるんです!周囲のマナを片っ端から吸い込んで、無秩序に攪拌して暴走させてやがる!その澱みがこの泥でさあ!』

「災厄の力?……じゃあ、ヴィオの厄災をええと、癒す力!それがあれば、この泥を消せるんじゃないのか!?」

「えっ、そうなの!?で、でも確かにそうかも!」

『おっしゃる通り、私の生前、ロボ王様は暴走の度にヴィオレッタ様のお力を借りておりやした!ヴィオレッタ様、水のマナ・クォーツです!あれが使えやす!』

「水のマナ・クォーツね!待ってて!」


飲み込まれゆくマグニを不安げに一瞥しつつも、ヴィオは慌ただしく部屋を出ると、マグニの荷物を漁った。

先日、スライムを一緒に退治した際に見つけた、水のマナ・クォーツのことを思い出したのだ。

キラキラ輝く小さな結晶を握りしめると、モルトーは『マナ・クォーツにありったけご自身のマナを注いでください!』と指示する。無我夢中で、祈るようにヴィオはマナ・クォーツを握りしめ、意識を集中させる。

すると、小さなマナ・クォーツがみるみる淡くも色鮮やかな光を放ち始め、そのまばゆさに目が眩みそうになる。

ヴィオはすぐ寝室に戻ると、意を決して、泥に殆ど浸かったマグニを追うように、泥の中にドブン!と飛び込んだ。


「うぐうっ!熱いッ……マグニ、どこ!?」

「ここだよ!」 


直後、ヴィオの手より一回り大きな掌が、ぐっと細い手首をつかんで引き寄せる。

青くてかる泥の海のなかで、マグニの顔がかろうじて確認できた。

彼のもう片方の手は、銀色の輪をしっかり握りこんでいる。


「ガルム様の首輪がある!多分ここが顔だッ!ヴィオ、マナ・クォーツを!」

「っうん!」


光るマナ・クォーツを手渡した直後、その結晶がマグニの手の中で、一瞬にして姿を変える。

その形はまるで、歪に彫り出された心臓のようだ。刹那、暗がりの中で、ガバァッと泥が形を変え、真っ青な裂け目が二人の眼前に現れる。

本能的に、マグニはそれが「口」だと察した。巨大な鋸に似た歯が何百と並び、舌なめずりしながら、喉奥からは無数の目玉がボコボコと沸き立ち、マグニとヴィオを凝視する。ぶわっと全身から汗が噴き出て、腹の底から絶叫して逃げ出したくなる、醜悪な光景。それでも、マグニは躊躇せず、その中に右腕を押し込んだ。


「ッガルムさま、これを!噛まずに飲み込んで!」


腕を引き抜いた直後、光り輝く結晶を、裂け目が飲み込む。

ごきゅんっという妙な嚥下音が響く。途端、泥の動きが変わった。ビクンッとのたうち、ギュルルルッと収縮していく。蒸気が出るほどの熱がまたたくまに発散されていき、冷えていく。泥の活動は停止し、ゆっくりと脱力しながら、その色は透明な只の水に変化して、壁や床や布に沁みこんで消えていく。

減っていく泥の中から、ぷはっとステラが顔を出して、何度も呼吸する。


「ステラさん!」

「よかった、ステラ生きてた!」

「っ……マグニ、ヴィオ!大丈夫?お願い、手を貸して。この人、重いったら……」


べとべとの泥の塊から、ずるりと見慣れた巨体が現れる。ガルムだ。

マグニは「ガルム様!しっかり!」と声をかけながら体を支え、ヴィオは呆れて「なんでまた裸なのよ。露出魔なの?」と文句を言いながらも、急いで拭くための大布を探して、ほぼ裸になってしまったガルムやステラを、ぐるぐるに巻いた。

少しして、ガルムがやっと目を覚ます。へばりついた髪を軽く払い、寝ぼけたように周りを見回す。


「……頭が痛い……今、朝か?」

「呑気に言ってくれちゃって!ガルムのせいで私達、朝から酷い目にあったんだから!ごめんなさいしてよね!」

「……そうなのか……?」 しわがれた声を上げ、ガルムがマグニたちを見る。

「泥がどばどば出てきてたんですよ、体から。今はもう大丈夫ですよ」

「二日酔いで吐いたみたいにね。片付けはやっておくから、まだ動かないで」


ステラは床にガルムを転がしたまま、急いで着替えを探す。

ふと、泥の被害を被った壁や床を見て、マグニはぎょっと目を見開いた。

傷ついたり溶けた部分が、じくじくと盛り上がり、ひとりでに修復されていくではないか。色も元通りに変化し、わずか数十秒程度で、元の部屋に戻っていった。

尤も、寝具や調度品の類は溶けたままで、殆ど使い物にならないままのようだが。


「(部屋には意思があるって言ってたけど……あれ、本当の話だったんだ……)」

「驚かせちゃってごめんなさいね。二人とも、助けてくれてありがとう」

「いいのよ、ステラは何も悪くないわ。……はーあ、服も寝具も新しく買わないとね。あの寝間着、気に入ってたのに~」


ヴィオは眉尻を下げ、溜息をもらす。

先程の泥のせいで、皆、服がひどい色に変色したり、殆ど溶けていた。

流石に床に転がしたままでは可哀想だからと、マグニは自分の寝床を引きずってきて、その上にガルムを寝かしつける。

気づけば、あの綺麗なトカゲは姿を消していた。あの騒ぎに怯えたのだろう。無事だといいのだが……とマグニは一抹の不安を抱いた。


「ガルムは私が診ておくから、二人に買い物を頼んでもいいかしら?」

「ええ、行ってきます。なるべく、すぐ戻りますので」

「朝ごはんと、ステラの服とか布も買ってくるわね!」


マグニとヴィオは、ぼろぼろの服から着替えると、部屋を出て露市場に向かう。

朝早いからか、それとも既に部屋にいないからか、他の部屋の面々は、騒ぎに気付いていないようだった。

露市場は朝から活発で、既に多くの人で賑わっている。ふと、マグニは抱いていた疑問をヴィオにぶつけることにした。


「ねえ、あの泥って結局、なんで出てきたんだろう?ロボ王様もあの泥が出たことがあったんだよね?」

『それについては私から』 モルトー・チチフが右前脚をぴっと上げる。

『ロボ王様は、生まれつき災厄を生み出す体質だったのです。こういっては聞こえが悪いのですが、彼ご自身が、歩く災厄といっても差し支えありませんでした』

「災厄を生み出す体質?そんなのあり得るの?災厄って、何なんだろう?」

『そもそも、なぜ災厄は生み出されるのか、なぜ世界中に災厄は現れるのか、なぜ人や土地、建物に憑くのか……その仕組みは殆ど明かされておりません。

王いわく、彼は生まれ持ってその性質を抱えていたと。幸いだったのは、王自身が英雄としての気質を持ち、強靭な精神力で、ヒトとして生活できていたことです。

お若い頃は、神にご祈祷されてご自身を極力弱体化されておりました。ヴィオレッタ様と出会い、プリンシアの力を発現されてからは、その癒しの力で災厄の力を制御できるようになったのです』

「なるほどなあ……じゃあ、ガルム様も、生まれ持った災厄の性質がある、ってことなのかなあ」

「そう考えるのが自然じゃない?だって兄弟なんでしょ、あり得るわ。それならガルムがうんと長生きなのも、馬鹿みたいに強いのも頷けるわよ。災厄は全てのマナを使役できるって聞いたもの」


ううむ、と深く考え込みながらも、二人と一匹はギルド・インを出ると、ディアファンの市場で朝ごはんを買い込み、服をこさえるための布や、寝具を見て回る。

──あの泥の奥に見えた、まがまがしい口は、災厄と化した彼自身の姿ということなのだろうか?ならばどうして突然、その力は発現してしまったのだろう。疑問は尽きない。


「うーん、ステラに着せるならやっぱり緑の服かしら?でも緑色の布って高いわよね」

「寝床用の敷布も、結構値上がりしたなあ……でもギルド・インじゃ、流石に服や家具は扱ってないだろうし」


二人はそっと財布袋を覗き込んだ。

ステラから渡された分だけで買うとなると、この先の旅のことも考えるなら、節約せねばならない。

うんうんと唸っていると、「おうい」と背後から声をかけられた。メイディとコウ・リウランだ。


「どうしたよ二人とも、そんな渋い顔して」

「あっメイディさん。実は、新しい布と寝具を買いに来たんですけど、どれも高くて……」

「ああ、確かに子供二人で買うには高い買い物だな。ここんとこ、クラインじゃ税金がどんどん吊り上がってっからなあ。ギルド・インの露市場だと、服や家具の類を格安で扱ってる奴なら知ってるけど」

「本当ですか?ぜひ紹介してほしいんですけど……」

「アア、そのことなのでスガ」 とコウ・リウランが口を挟む。

「その方々、今、ギルド・インにいらっしゃラないのですよ。職人の方々ガ、珍しイ材料を探シテ、遠出しておりましテ」

「じゃあ、直に交渉してきます。その方々、どこにいるんです?」

「それがなあ」とメイディが眉をひそめる。 

「ここから西にある<丸のみ洞窟>だよ。本来なら立ち入り禁止なんだが、俺ぁ今から依頼でそこに行くつもりでよ」

「依頼?」 とヴィオの好奇心が食いついた。

「職人の方々から、救助申請が届イタのです。ドウヤラ、洞窟内で何かあったヨウデスね」


そうだ、とコウ・リウランはにっこり笑い、ぴっと人差し指を立てた。


「メイディさん、マグニさんとヴィオさんと一緒にパーティーを組んで、これから<丸のみ洞窟>を攻略しニ行ってクダさいな!」


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