ぬくもりの香り

noi

第一章 香りとの出会いから

11月1日 金曜日 初めての香り

 江夏陽介えなつようすけ。特にしたいこともなく、漠然と大学に通っている人間が僕だ。まだ、大学1年生。


 昼前に目が覚めた。身なりを整えて大学へ行く。今日の大学の講義は1時からだ。


 玄関の扉を開けたときからわかる最近の変化。少しづつ気温が下がり、湿気の少なくなってきたこの季節。鼻の中を抜ける空気も軽くツンとするようになってきて、空気の香りでも冬が近づいてきていることを感じる。夏の暑さが苦手で冬の寒さが好きな僕にとっては嬉しい季節の変化に気分を良くしながら歩き始める。


 一人暮らしをしているアパートから大学までの20分ほど道のりを普段通りに歩く。途中で散歩中の犬と出会った。なんとなく眺めていると自然と立ち止まってしまい飼い主の人と目が合い軽く挨拶をした。そのすぐ後に目の前から歩いてきた女子大学生とパッと目が合った。


 すると、


 「陽介君は、犬が好きなの?」

 

 正面から来たその人から声をかけられた。その声の持ち主は松村雪まつむらゆきだった。同じ学科の1つ先輩の人。身長が高く、ショートカットがよく似合っている綺麗な人だと思う。

 

 普段はしっかりとした人だが、抜けている所があり、去年、寝坊をしてしまいテストを受けそびれた単位の再履修の講義を後輩の僕と受けている。毎週月曜日の午前9時からの講義なので先輩がまた遅刻しないか毎週密かに心配している。


 今日、すれ違った理由は午前の講義を終えて利用する駅へ向かっている最中だからだろう。大学から最寄り駅までは徒歩30分程なので、大学と駅までを徒歩で通学する学生も多い。


 「どちらかと言うと猫派ですね。」


 僕が答えると先輩はニコニコとしながら、


 「へぇー、そうなんだね。私の実家で少し前まで猫を飼っていたんだよ。ほらっ。」

 

 先輩のスマホを覗くと可愛い猫の寝顔が写っていた。


 「可愛い猫ですね。元気に子だったんですか?少し前まで飼っていたってことはもう死んでしまったんですよね。」


 「そうなんだよね。ずっと元気だったんだけど急に病気で死んでしまってね。」


 先輩の顔に少し影が落ちたように見える。2人の間に若干の沈黙が流れる。返事を間違えてしまったかもしれない。若干、胃が痛くなるくらい気まずい空気のまま同じ話題を続けられるほどのメンタルも口の上手さも無いのですぐさま話題を変える。


 「すみません。僕の言い方がダメでした。ところで先輩、来週の月曜日は絶対に遅刻しないでくださいよ。単位が危うくなっても僕は助けませんからね。」


 特に中の良い友人というわけではない、講義でたまたま隣の席に座ったから関わっている人だが、真面目に授業を受けていて基本的に良い人なので心からそう思っている。


 「あまり気にしなくても良いよ。それに、単位の方は今のところ出席も大丈夫だから去年みたくテストに寝坊しなければ大丈夫だよ。というか、そろそろ学校へ行かないと君の方が今日の講義に遅刻してしまうよ。だから、またね。」


 そう言って先輩は駅へと向かっていった。先輩から振られた会話だったけど僕の無神経な返答が先輩を傷付けたかもしれない。先輩に対して思いやりの欠片も無い言葉を発してしまって申し訳ない。こんなことを考えながら大学へ向かった。


 講義室へ入って普段通りに友人のいる席に着く。井野楽斗いのらくと。入学して数日の頃に話しかけてくれた人でお互い気の使うことの無い気楽な友人で同じ講義の時はいつも一緒に受ける。この友人は僕と似たような性格をしていて、同じように講義をサボりながら受けて適当な時に遊ぶくらいの丁度良い距離感だ。


 普段通り半分寝ながら講義を受ける。なぜなら、この講義は何となく楽斗がいるから受けているだけで内容に少しの興味も無い。将来就職する際にも必要のないだろう、単位を取って卒業するために必要だから取得するだけの単位。今日の晩御飯はカレーライスにしよう。そんなことをうつらうつらとしながら考えて講義は終わっていった。


 僕の金曜日の講義はこの1つだけなので、この後も講義のある楽斗とは授業後すぐに分かれてアパートへ帰る。


 大学からの帰り道、スーパーによってカレーライスの材料を買う。豚肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ピーマン。一人暮らしを始めてから7か月の間、週に一回はこのカレーライスを作っている。特にこだわり無く作っているが、速く楽に多くの量を一度に作れてとてもおいしい。最高の料理だと思う。


 アパートへ帰宅後の午後5時頃、カレーライスを作り、完成したら冷めない間に食べる。お腹いっぱいに食べ終え、大学の課題の無い僕の今日の予定はすべて終わった。つまり、このまま休日へと突入する。


 今週は友人との予定もなく、アルバイトもしていない僕の休日はだらだらと部屋で過ごして終わる。僕には、趣味も特に無い。ネットで動画を観て少し笑って過ごすだけの数日、1人でなんの意義も無い休日を過ごすと思うと悲しくなる。


 この1週間を思い出してみても、思い出すほどの記憶が無い。朝起きて講義のある日に大学に行って講義を受けて家に帰る。講義の無い日は課題をしてそれ以外の時間は適当に過ごしていた。


 本当に暇で仕方が無い。


 午後8時頃、スマホにメッセージ通知が来た。普段はSNSの公式からのメッセージかソシャゲからの通知しか来ないが、今日は少し違った。


 メッセージの相手は先輩だった。


 『月曜日の講義で提出の課題のレポート書けた?』


 めったに来ることの無いメッセージに驚きもあったが、僕が内容の知らない課題のことだったから少しの焦りがあり、すぐに返信した。


 『課題ってありましたっけ?』


 送信と同時に既読が付き、返答も返ってきた。


 『今週の講義内容について2000字でまとめる簡易レポートがあるよ。君が講義中に半分寝てて聞いてなさそうだったから一応メッセージ送ってあげたんだよ。』


 危なかった。普段課題の無い講義だから勝手に安心して寝ていて話を聞いていなかった。


 『すみません。寝ていて講義を聞いていなかったので課題の内容教えてください。』


 『仕方ないね、私がメモしてた講義ノートの写真を送ってあげるよ。これからはちゃんと講義受けないといけないよ。』


 『ありがとうございます。先輩こそ講義に遅刻しないように気を付けてください。』


 『うん、わかった、君は課題を頑張ってね。あと、一言多いよ。』


 先輩のおかげで課題に気が付けて良かった。先輩のことを気の抜けたところのある人と思っていたけど、普段から集中して講義を聞いていない僕はあまり人のことを言えないかもしれない。先輩の優しさが身に染みる。


 そんなことを考えている内に先輩から


 『はい、これ』


 と言って、画像が送られてきた。


 『ありがとうございます。』


 とだけ送って課題のレポートに取り掛かる。先輩が書いてくれていたノートが丁寧にまとめられていたので課題自体は1時間ほどで完成した。


 課題が終わってから改めてもう一度ノートを見返すと、先輩の丁寧さに気が付く。僕がうつらうつらしている間に真面目に講義を受けていたんだと感じる。先輩と会うのは1週間に1回、月曜日1コマ目の講義だけ。その時間に隣の席で講義を受けているだけの関係なのにこうして会話をするようになるとは思ってもいなかった。


僕は幼い頃から人見知りで、今でこそある程度人と関わることができているが、それでも自分から積極的に人と関わる人間では無い。


  先輩は、僕よりも人当たりが良く、大学内でたまに見かける様子から友人は多いように見える。そんな先輩だからこそこんなにコミュニケーションが下手くそな僕と会話を続けてくれているのだろう。


 先輩がこうして僕のことを考えて何か行動をしてくれたと思うだけでうれしいと感じる。温かく思う。週に一度、90分くらいの1つの講義を隣の座席で受けてその合間に少し話すだけの人なのにあの人の顔が目に焼き付いて頭から離れない、あの人からする匂いが忘れられない。


 優しく、温かく、落ち着く匂いの人だ。


 片思いをしている。


 あの人の匂いの傍にいたい。


 こんな気持ちは初めてだ。僕はいままで恋をしたことも交際をしたこともあるが、これほど好きだという気持ちが五感に訴えかけてくる人はいなかった。僕自身も少し戸惑っている。19年くらい生きてきて経験や知識があるから僕と先輩は関係の浅いことも、先輩が僕のことを何とも思っていないこともわかっている。自分が先輩と付き合いたいという願いが叶うことは無いだろう。


 だけど、好きなものは好きで頭にこびりついた想いは簡単には消えない。この思いは文字通り夢でしかないと理解していてもどうしても妄想をやめることができない。現実が思い通りにならないとしても、あの人が僕の隣にいてほしい、あの人を自分のモノにしたい。だんだんとドロドロとした思いが止まらなくなっていく。


 気持ちが悪い。気分が沈む。自分が嫌になる。


 こんなことを考えている間に日付が変わっていく。先輩からのメッセージで普段とは少し違うちょっとした幸せを感じて良い1日で終わるだろうと思っていたのに結局は気分が悪くなって終わってしまう。


 明日もどうせつまらない1日になるだろうと思いながら布団に入る。眠る寸前に先輩の匂いがほのかに香ったような気がする。少しばかりの幸福感に身を包まれたまま眠りに落ちた。


 

 


 

 

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