いつか、そんな夜明けが来るとして

甲池 幸

第1話 魂の洗濯屋と無表情な少年

 病室の花を変えるのが、俺の日課だ。

 否、より正確には、昨日まで、それが俺の日課だった。


 ウィーンと、古臭い音のする自動ドアをくぐって、少年が店内に足を踏み入れる。まだ十五、六歳だろうか。背は高いけれど、顔立ちは幼い。少年は似合わない喪服に身を包んで、腰のベルトに藍色の鞘の日本刀をさしている。

「ヤァ。浮かない顔だな、スイ

 カウンターの奥で書き物をしていた洗濯屋は革靴の音で顔をあげた。喪服の少年は唇をぎゅっと噛んでいる。

 まさしく、浮かない顔だ。この少年の表情筋が仕事をしているところを、洗濯屋は今日、初めて目にした。

 チャリン。少年が足を踏み出すと、鍔につけられたキーホルダーが揺れる。デフォルメされた花と何かのロゴマークがついた〈それ〉は、少年の印象からは少し外れたファンシーさだ。

「…………なぁ、洗濯屋」

 カウンターの前に立った少年は俯いて、洗濯屋を呼んだ。誰も、洗濯屋の名前を知らないから、呼びかけはいつだってこうなる。「なんだ」洗濯屋はぽりぽりと頬を掻きながら答えた。

「……俺の魂は、まだか?」

 少年の翡翠色の瞳が、長い前髪の間から洗濯屋を覗き込んだ。洗濯屋はニヤリと唇の端を釣り上げる。それ以外、こういう場面で浮かべるべき表情を知らない。

「あァ。まだ、真っ黒けだぜ」

 洗濯屋の瞳には、死者の魂が映っている。洗濯屋は死神が運んできた死者の魂から《汚れ》を取り除いて、新しい輪廻の流れに乗せるのが仕事だ。けれど、洗濯屋にも落とせない《汚れ》はある。

 それは、たとえば、現世に残してきた大切な人への未練だったり。

 それは、たとえば、生きているうちに叶わなかったとても強い願いだったり。

 どれだけ強くこすっても、長い時間水にさらしても、そういう《汚れ》は消えない。

 そういう、落ちない《汚れ》を抱えた魂は、仮初の肉体を与えられ、自分で未練や願いを解いて《汚れ》を落としてくるまで、成仏できない仕組みになっている。

 目の前の、二年前に事故で死んだ、ひとりの少年のように。

「そうか」

 少年はふかく項垂れる。洗濯屋の目に映る彼の魂には、黒々とした《汚れ》が纏わりついている。何か、強い思いを遺して死んだのだろう。洗濯屋には、落としがいのある《汚れ》にしか見えないけれど、少年にとっては、きっと大切な《何か》を。

 ピリリッ。

 唐突に少年の胸元が震える。少年はひとつ、息を吐いてからジャケットの胸ポケットに白い手を伸ばした。

「はい」

 パカリ、と開いた、古い型式の黒い携帯電話を少年は耳にあてる。艶のある男の声がかすかに、洗濯屋の耳にも届く。

『やあやあ、翠。元気にしてるかな』

 他人の電話越しに、ほんのかすかに聞こえるだけでも〈奴〉の声はなんだか愉快で癪に障る。洗濯屋はげぇっと眉を寄せた。

「俺が元気かどうかなんて、あなたに関係ありますか」

 ばっさりと切り捨てる少年の物言いは、関係ないけれど、洗濯屋にとって心地がいい。洗濯屋は〈奴〉が嫌いだった。なぜと聞かれて語れるほどの理由はないけれど、言動のすべてがなんとなく、気に食わない。

(これが、セイリテキニムリってやつだな、たぶん)

 洗濯屋がひとりで納得している間に、二人の会話はとんとん拍子で進んだらしい。何かを言われた少年が息を吐こうとして、飲み込んで、代わりに瞼を下ろす。

「……はい。すぐに向かいます」

「うん。よろしく頼むよ。俺は、君には期待してるんだ」

「それ、みんなに言ってるって、全員知ってますよ」

「あはは。俺の言葉は八割嘘だからね」

「さっきのは、二割の方ですか?」

「さあ? どうだろうね。自分で考えてごらん」

「……では、八割の方ということにしておきます」

 少年の言葉に〈奴〉は笑ったようだった。喉の奥で転がしたような笑い声が漏れ聞こえてくる。嫌いなものが楽しそうだと問答無用で嫌な気持ちになる。洗濯屋は顔をしかめた。

「はい、では」

 少年は二言、三言、男と言葉を交わしてから、そう言って電話を切った。パタン、と黒い携帯を閉じて、また胸のポケットにしまう。「行くのか?」洗濯屋が問いかけた時には、ここに来た時の浮かない顔はどこへやら、いつも通りの無表情だった。少し、残念に思いながら、洗濯屋は翡翠色の瞳を見つめる。黒い、長い、前髪の隙間から見える瞳は、いつも通り、氷のように冷たい。

「あぁ。また、死人が出たらしい」

 少年は律儀に頭をさげてから、洗濯屋を後にする。

 落ちない《汚れ》を抱えた魂は、仮初の肉体を与えられ、願いや未練を解くために、現世に留まることになる。だが、彼らの役目はそれだけではなかった。片手間でいいから働けと、神様が与えた別の仕事がある。

 死者の魂を刈り取り、無事に洗濯屋まで送り届ける。

 その仕事からか、はたまた黒い風貌からか、彼らは時折、こんな風に呼ばれていた。

 死に際に訪れる、魂の運び屋――《死神》と。

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