第18話 ドクロ蜘蛛の傷痕

 落ちていく。

 それはほんの数秒にも、何時間かのようにも感じた。屋上から見つめたあの子の体のように、赤く、つぶれてしまうのだろうと思った。

 

「きゃぁあぁ……っ!?」

 

 しかし、覚悟かくごした衝撃しょうげきは来なかった。羽衣はごろものような感覚がほおや手足にまとわりついて、私の体を空中に引き止めた。


「な……に……?」

 

 おそるおそる目を開ける。薄暗い、ホールのような広い室内。その空間をきらきらと走る、無数の細い糸。それは、あの〈音楽室〉で見た光景とよく似ていて。

 

「ひっ……!」


 足元に床は無かった。目をらしても全く先の見えないやみが、下に向かってずうっと続いていた。ぽっかりと口を開けて、獲物が落ちてくるのを今か今かと待ちわびる獣……そんなものを連想して、私はぶるりと背筋をふるわせる。弓丸と而葉さんの姿は見えなかったが、稀瑠れあるは私より二メートルほど左下の位置にいた。


「なっ、何なんだよこれ!? どこだよここ、こんな、マジふざけんなくっそ……!」


 もがいて逃れようとするが、足元の状況に気づくとハッとして動きを止める。


「サッ、サガミン……」

「……う、ん。あの、あんまり動かない方が、いいかも」

 

 私たちの体を空中にとどめてくれたのは、あの蜘蛛の糸で作られた〈わな〉が層状に積み重なった〈おり〉だった。上を見れば、はりが渡された高い天井。右をみれば、壁にはめ込むようにしてしつらえられたステージ。バルコニーのような、さくのある通路がフロア内をぐるりと一周囲んでいて、バスケットコートも四つある。ラインの引かれたフロアこそ無いが、この場所はおそらく——。


「〈体育館〉」


 生気せいきのない、乾ききった声がホールの中に小さく響いた。いつの間に現れたのだろう——前方にある通路の柵に、長い髪をヘアクリップで留めた女性が、私たちに背を向けて腰掛けている。服装は、白いブラウスに灰色のフレアスカート。その腰には、黒い、コウモリの翼のようなものが生えていて、そのサイズはアヤや杏音あんねのものよりもずっと大きかった。


「よく来たわね」


 その女性はゆっくりと振り向いて、うつろな瞳に私たちを映す。左右に振り分けられた長い前髪、少女のように小柄な体躯たいく。初対面のはずなのに、彼女の横顔を目にした瞬間、なぜか胸がけられるようななつかしさを感じた。


 似ている、気がする。本に視線を落としながら、たまにクスリと笑っていたあの子の横顔が、なぜか彼女に重なって見える。心臓はせわしなく脈を打って、い上がってくるような悪寒が背筋を包む。


「あの、あなたは……」

 

 意を決して声をかければ、彼女はニイィッと口の端をり上げる。笑みのような表情を浮かべて、その女性——異形の力を手に入れた〈禍者かじゃ〉は、私たちに向かって名乗った。

 

「私は桜那さくらなりつ桜那さくらな 美命みことの母親よ」


***


「美命の、お母さん……」


 私は、その事実を飲み下すように呟いた。勘違いではなく、やはり彼女と美命には血のつながりがあった。それも親子、似ているはずだ。


「この〈学校〉は、私の強い願いによって生まれた場所。元々すでに存在していた〈学校の怪談〉の力も借りて、少しずつ美命のお友達——あの五年一組にいた子たちと先生たちを連れてきたの」

「それってあの、ここに来る直前に急に出てきたでっけぇ鏡のことか?」

「ええ。怪談の踊り場にある大きな鏡の前で、夜の四時四十四分に自分の姿を映すと異世界に吸い込まれる……そんな内容の怪談、どこかで聞いたことがないかしら。私の力だけで何十人も人を呼ぶのは大変だから、そういう力も借りたのよ」


 〈甘味処あずさ〉で見た、あの大きな鏡を思い出す。稀瑠の言葉から察するに、稀瑠自身もそうやって連れて来られてきたらしい。


「高梨稀瑠ちゃん……で、合ってるわよね。美命の日記でよく見た名前だわ。ずいぶん大きくなって、花の女子高生を満喫まんきつ中……なのかしら」


 りつさんは、あまり抑揚よくようのない口調で訥々とつとつと話す。稀瑠れあるのことをこおりつくような視線でにらみ、黒い翼をバサリと動かした。


「何か言い分は? 稀瑠ちゃん」

「……あー」


 稀瑠は、なかなか言葉が見つからないといった様子で視線をうろうろと動かし、しばらくのあいだ言いよどむ。私の方をチラリと見て、もう一度りつさんの方を見て、それからやっと口を開いた。


「あたしが——悪かったんだ」

「……稀瑠れある?」


 一回。二回。私はまばたきを繰り返した。それは、彼女の口から聞くとは思ってもみなかった言葉だった。

 りつさんは長い前髪をわずかに揺らがせ、何も言わずに稀瑠のことを見下ろした。

 

「あたしだけが悪いわけじゃないって気持ちは、正直言って今もあるんだ。けど、あたしが始めなければ、あいつは好き勝手に自分の時間を過ごして、あの学校を卒業できたはずだった」

 

 いつの間にか孤立こりつして、死に追いやられてしまった罪なき少女。あの子はただ、いつも本を読んでいただけだ。


「サガミンにあーだこーだ言われて、最初はなんだこいつうぜーって思ったよ。これが六年前だったら、あたしはサガミンにも桜那さくらなと同じようにやっただろうな。でも、この場所でそんなことしたって意味なかったから。自分でよくんで飲み込めるまで、サガミンの話を聞いちまった」


 私の言うことなんて、きっとほとんどが右から左に流れていってしまっているだろうと思っていたが、そういうわけでもなかったらしい。聞いていないようで、本当はちゃんと聞こえていたのだ。


「昔から、ずっと怖かったんだ。自分が悪いって認めたら、ママと同じようにボコボコにされる。どうやれば他人を好き勝手にできるのかは、パパから教えられたみたいなもんだ。ママはどんどんおかしくなって、いつの間にかいなくなった。あたしは、あたしを守るために、こんなふうなんだ」


 それを聞いて、私はショックで固まった。なんとなく、本当にうっすらとした予感はあったけれど、まさかそこまでの状況だとは思わなかった。

 見えない。聞こえない。だから、誰が傷つこうが知らずにいられる。それはきっと、稀瑠自身に対しても、ずっと前からそうなのだろう。


「それに、あたしはサガミンに借りを作っちまった。あたしにとって長い間グニャグニャだったものが、サガミンにとっては本気のことなんだって分かった。だから、サガミンの思いにだってこたえたいし、そういう弱みをさらしてみてもいいんじゃないかって思えたんだ」

「ふうん……それで?」


 先を急かす相槌あいづちは、変わらず抑揚よくようがなくて冷たい。稀瑠はりつさんをまっすぐに見据みすえて、実に彼女らしい、かざらない答えをつむいだ。


桜那さくらなを……美命みことを死なせちまってすまなかった。今さらだけど、あたし、六年前のこと……やり直せたらって思ってるんだ。でも、死んだやつは生き返らない。もし生き返ったんなら、そいつは神様か化け物だ。だから、あたしなんかに言う資格はないんだろうけど、あんまり昔を振り返らないでこれからを生きろよ」

 

 私は、稀瑠れあるの言葉にじっと耳を傾けながら、六年前の彼女を思い出していた。ひるまずに相手を見つめるまなざしも、相手の気持ちを逆撫さかなでするような物言ものいいも、昔とそれほど変わらない。けれど、稀瑠れあるの中で、何かが確実に変わったのを感じた。


 胸に広がる温かな気持ちと、腹の底で絶え間なくくすぶる「もしも、もっと早くに」という思い。今だからこそかなったのだろう、という冷静な思考。

 ガシャン、とさくが大きく鳴って、私は目の前の現実に引き戻された。背中を向けていたりつさんが、さくの上に立っている。改めて彼女を見ると、頬の肉は薄く、目の下には青黒いクマが浮かんでいて、まるで病人のような様相ようそうをしていた……が、その顔立ちには少し幼さを感じさせるような印象があって、昔はそのミステリアスな魅力で人をとりこにしていたのだろうと思った。


 さくの上に立ったことで、小柄こがらりつさんが大きく見える。彼女は、冷めた視線で私たちを見下ろしながら、淡々たんたんと話し始めた。


「あの子と私のために、謝ってくれてありがとう。そう言ってくれると、これだけ色々手を尽くした甲斐があったわ。稀瑠ちゃん……あなた、案外素直で分かる子なのね」

「え? あぁいや、それほどでもっていうか……」


 稀瑠れあるはポッとほおを染め、慣れない様子でもごもごと返す。ただ、りつさんの表情は硬く、とてもめているようには聞こえない。


「いくら加害者といっても、それは確かに過去のこと。もう取り戻せない一人の命より、二十三人の未来の方が、圧倒的に優先される……それは、六年前、先生たちからも聞いた言葉よ」

「……先生が、そう言ったんですか」


 どうしても我慢できずに、気づけば私は聞き返していた。すんなりと信じることはできなかった。私たちをみちびくはずの先生たちが、生徒からは見えない場所で、そんなことを。


「ええ。きっと、理屈ではそれが正しいんでしょうね。でも、私はその言葉を吐いた上で、なお〈先生〉でいようとする彼らが許せなかった。だから私は、先生たちをった」

……っ」

「肉も骨も、この体の一部になったわ。私をどうしようと、もう取り返すことはできない。それでも私を倒したいなら、好きにすればいい。えることのない傷痕きずあとを、私とともにほうむってくれるなら本望ほんもうよ」


 それ以上、私は何かを言うことができなかった。稀瑠は、目を見開いて絶句していた。律乃さんは、髪を留めていたヘアクリップを乱暴に外して、暗闇の底へと投げ捨てる。傷んだ長髪がバサリと広がって、腰の辺りでゆらゆらと揺れた。


「私は、あなたのことを許さない。せめて私だけは、美命の死に関わった全員を絶対に許さない。あの子が生きたということを、あなたたちの死をもって証明する。それが、あの子への手向たむけ。私だけの願い……」


 律乃さんが柵の上から身を投げた。自分ののどから、あ、とかすれた声がれて、引き寄せられるようにその姿を目線で追う。

 瞬間、腰の翼がバッと開いて蜘蛛くもの脚に変わり、それぞれがバスケットゴールや銀糸をつかんだ。そして、律乃さんの細く白いふくらはぎが、くさった肉のようにふくれ上がり、黒く変色して巨大化する。腕や腹、胸、頭も同じように変容し、ものの数秒で体長十五メートルはあろうかという蜘蛛の化け物となった。

 指先が震えて、私は声も出せずにガチガチと歯を鳴らす。こんなの、自分に倒せるわけがない。


[私は、今からお前たちを殺す〈ドクロ蜘蛛〉。罪には、罪を]


 律乃さん——いや、〈ドクロ蜘蛛ぐも〉の禍者かじゃは、クワガタのような形をしたきばをグワッと広げ、毒液のしたたる先端せんたんを私たちに差し向けた。

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