Third Painting
ⅩⅨ Interlude
――ミューシェの願いを叶えたい。冷たい考え方かもしれないけれど、俺にとっては他の何よりもミューシェの願いが大切だ。ミューシェが幸せになる方法を、叶えたいと思ってしまう。これは俺のわがままだ。
セオドアがベッド代わりのソファで目を覚ます。近頃はソファから起き上がるのが苦痛でなくなるほど暖かくなってきた。朝から柔らかい日差しが芝生に広がる。小さな花が照らされると一気にロンドンの町が華やいだ。
そんな朝は仕事に出かけるにしても足取りが軽くなる。機嫌のいいセオドアの横顔をミューシェが見遣った。あれからずっとルノーの事を思い出す。思い出すと思考がぐるぐると頭の中を回り出す。
――もし、誰かの願いを叶えるため、誰かが犠牲になるのだとしたら。まっすぐに力になろうとしてくれているテオ。僕はテオの傍にいていい存在なのだろうか。
セオドアがミューシェの深く寄った眉間のしわに気付く。
「また何か考えてるんでしょ。今度は何を悩んでるの?」
お見通しだと言わんばかりに自慢げな顔でセオドアが問いかける。言い当てられたミューシェはムキになり頬を膨らました。
「それよりテオは今晩お休みでしょ? 久しぶりに一緒に夕食食べるからね」
「分かったよ。じゃあ帰りに花を買って帰るよ」
最近セオドアはよく花を部屋に飾るようになった。ヴァイオリンを担いだまま買い物――特に繊細な花など――をすれば歩きづらいだろうと思う。しかしそれをセオドアに指摘してはいけないとミューシェは分かっていた。
未だにセオドアには「一人でやらなければ、できなければ」という意識が根付いている。
クラリスはミューシェのおかげで人に頼れるようになってきたと話していたが、こういった小さな場面でセオドアの深い部分に触れることがあった。
「分かった。楽しみにしてる」
くったくのない笑顔で返す。ミューシェに出来ることは、明るくセオドアを信じてあげる事だった。
ミューシェが仕事を終え下宿宿に戻る。一階の玄関からはすでにいい匂いが漂っていた。部屋に戻る前にキッチンに顔を出す。オーブンコンロにメアリーが向かい、夕食の準備をしている。テーブルに置かれた皿にはパンが用意されている。ミューシェが働いているパン屋で売っているものより少し硬めのパン。しかしメアリーの温かい気持ちのこもった料理がミューシェは好きだった。
無邪気なその気配にメアリーが気付き振り向く。ドアから覗くいたずらっ子な顔に笑顔を向けた。
「今日はスープを作ったのよ」
「とてもいい匂い。メアリー夫人の料理は本当に美しい」
「まあ」とメアリーが顔をほころばせる。ふとミューシェがキッチンの出窓に目を遣ると、そこには小さな花瓶に入った花が飾られていた。
「テオからよ」
メアリーが目を細める。
「あの子ったら、お金に余裕なんてないくせに。花なんて買うくらいなら残しておけばいいものを」
文句を言いながらもメアリーが嬉しそうにする。
「メアリー夫人はずっとテオといたの?」
ミューシェがキッチンのテーブルに腰掛ける。メアリーがスープを皿によそいながら話し始めた。
「私は亡くなった旦那様のご両親の代から使用人として雇われてたのよ。だからあの子が産まれてからずっと傍で見てきたの。小さい頃からまるで祖母の様に慕ってくれて、本当可愛らしかった」
昔を思い出す人の瞳には色が映る。暖炉の火のオレンジ、曇った空の灰色、しんしんと降る雪の白、冷たく張った湖の青。メアリーの瞳には優しい色が映っていた。
「旦那様と奥様が亡くなられて、それでもセオドア坊ちゃんの傍にいようと決めたのは私自身。この家を下宿宿にして経営すればなんとかなるんじゃないかって、提案してくれたのは亡くなった夫なのよ」
「夫もテオの事が好きだったから」とメアリーが付け加える。テオと呼ぶのはメアリー自身のケジメなのだろう。つい昔の呼び名で呼んでいたのをメアリーは気付いているのだろうか。そんな事を思いながら、ミューシェが楽しそうに話を聞いていた。
「さて、夕食の準備ができましたよ。部屋に持っていきましょうかね」
「僕が持っていくよ」
メアリーがお盆に手を掛けるより先にミューシェがそれを持ち上げる。
「まあ、頼もしい事。じゃあ、お願いするわね。麗しい天使の方」
ミューシェが浅く頭を下げるとお盆を二階へと運んだ。
「テオー」
ドアの外から呼びかける。少ししてドアが開くとセオドアが顔をのぞかせる。ミューシェが夕食を運んできたことに驚いた。
「メアリー夫人は?」
「さっきお喋りしてたんだ。ついでに夕食持ってきたよ」
部屋の中にはふわっと新鮮な花の香りが漂っていた。テーブルの上には花が飾られている。
「メアリー夫人も喜んでたよ」
ミューシェが花に視線を遣り、その事を伝えた。
「本当? さっき渡した時は無駄遣いしないでって怒られたんだけど」
「人はどうして素直になれないんだろうね」
ぽつりと零した言葉が聞き取れず、セオドアが「何て?」と聞き返す。しかし聞こえていないのか、ミューシェが答える事はなかった。
テーブルを片付け夕食の準備をしていたミューシェがセオドアを呼ぶ。
「テオ、お皿を並べてくれる?」
「ああ、分かった」とセオドアが入り口に置かれた夕食を手に取る。いつもやっている、なんてことない動作だった。ただ、なみなみと注がれたスープに気を取られた。ただそれだけだった。
突然ミューシェの背後で大きな音がする。ガシャンと皿が割れ、バタンと床に何かが倒れ打ち付ける大きな音。驚いたミューシェが咄嗟に振り返る。そこには義足を引っかけ転んだセオドアがスープをまき散らしてしまっていた。
「ごめん」とセオドアの小さな声が聞こえた。
「やだなあ、テオってば。気を付けないと――」
「ごめん」
セオドアの声色に、ミューシェはすぐに悟った。
ゆっくりと近づくとセオドアの傍にしゃがみ込む。項垂れる背中に両腕を回した。
「俺は、ミューシェの力になりたいのに。こんなことも出来なくて、こんなくだらないことで失敗して。上手くやりたいのに、普通の人が出来る事が出来ない」
涙を我慢しているのが分かる。震える声が必死にそれを抑え込んでいる。
ミューシェがセオドアの背中を優しく叩く。背中を叩くミューシェの手から温かいものが流れ込んでくる。それが我慢の蓋を外したように、ぽろぽろと涙がこぼれだす。
「それでいいよ」と言っているように、ミューシェは何も言わず背中をさすり続ける。
泣きだす我が子を抱き、背中をぽんぽんと撫でる母親。それはあやして慰める為ではなく、「泣きたいだけ泣けばいい」と、そう伝えているのかもしれない。
私が聞いているから、泣き声を聞いているから、我慢せずに泣けばいいと。
「失敗しても乗り越えようとする。自分に失望しながらその姿を悔やみ涙する。前を向くためにもがき続ける。なんて人は愛おしいのだろうね」
ミューシェの言葉にセオドアが顔を上げた。
「愛おしい?」
「立ち上がろうとするテオの姿は愛おしい。テオが何度失敗しようと、僕がちゃんと見ている。テオがダメなところも、全部僕がここにいる理由。性格悪いかな?」
ミューシェと話していると、次第に心が落ち着いて来た。
「涙は出るのに、思ったよりも辛くないんだ。ミューシェが分かち合ってくれるから、悲しい気持ちも分け合えているのかな」
「分けてるわけじゃないよ。僕の明るい気持ちがテオの悲しい気持ちを消し去ってるんだ」
涙を拭ったセオドアがふふっと吹きだす。
「でもやっぱり俺はダメな人間だよ。きっとミューシェの役に立つことで自分の存在意義を確かめようとしてる」
「それはテオだけじゃない。さっき言ったでしょ? 僕がここにいる理由。僕だってテオの傍にいて自分の存在を正当化しようとした」
困ったように笑うセオドアと膨れっ面のミューシェ。
出会った時と何ら変わっていない二人。
ついにお互いが吹きだした。
「俺たちは、似た者同士だね」
笑うセオドアの言葉に、ルノーとの会話を思い出す。
『まがい物は罪人を引き寄せる』
確かにそうかもしれない。でも引き寄せ合うのはそれだけではないのだ。
――僕がテオに引き寄せられたのなら、僕が光であらなければいけない。だって、テオは僕の光だもの。
「ねえ、テオ。元気になったついでに片付けようか」
外の階段から慌てた足音が近づいて来る。
「メアリー夫人に怒られそうだな」
散らかったスープにセオドアが眉をひそめる。
「怒られるなら、二人でね」
大きくノックされたドアをミューシェが開けた。
Interlude End.
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