Second Painting
Ⅺ Voice with a Blue Tint
エリオットの絵画を見せてもらってから数日後、セオドアはクラリスと街中のカフェにいた。
こうやって二人で出かけるのは久しぶりだった。テーブルには二人でよく食べたレモンのパウンドケーキと紅茶が並ぶ。
「エリオットに見せてもらった絵だけどね、ミューシェが探しているものじゃなかったみたい」
セオドアが先日の報告をする。
「残念だったけど、エリオットやリアムが絵を見せてくれた。それがとても嬉しかったよ」
義足の右足をさすりながら、セオドアの頬が緩む。その表情に「そうね」とクラリスが返した。
「この足、かっこいいって。リアムが言ってくれただろ? かっこいいかな」
その弾んだ声色と愛おしそうに足を見つめるセオドアの瞳に、クラリスは目頭がじわっと熱くなるのを感じた。
「セドリックが作ってくれたんだもの。かっこいいに決まってるじゃない」
「そうかな」とセオドアが体を起こした時、肘をテーブルにぶつけてしまう。ぶつかった反動でフォークが床に落ちた。足元に転がったフォークをクラリスが拾う。それをセオドアへ差し出した。
「ありがとう」
確かに聞こえたセオドアのその言葉にクラリスの目が見開かれる。
「い、いえ。替えのフォークをもらう?」
「もう食べ終わってるから大丈夫だよ」
普段通りを装ったが、クラリスは内心驚いていた。セオドアの口から「ありがとう」という言葉を聞いたのはいつぶりだろうか。
「貴方って、いつも『ごめん』しか言わなかったじゃない」
「ああ」と、同じことを誰かにも言われたとセオドアが頬を搔く。その頭にはピンク色の頬を膨らませるミューシェの顔が浮かんでいた。
「ミューシェちゃんのおかげかしらね」
頭の中を見透かされたのかとセオドアが目を瞬かせる。
たしかにクラリスの言う通りかもしれない。ミューシェが現れて、心が少し素直になったのかもしれない。
「俺が10年前に事故に合って、両親と片足を失くして、希望という光が見えなくなった。きっとエリオットと同じ状態だったんじゃないかと思う。それでもエリオットにリアムがいてくれたように、俺には君がいた。ミューシェが言うように君は美しい人だよ、クラリス。俺が再び希望の光を見つけられたのは、君のおかげだよ」
先ほど熱くなった目頭が再び熱を帯びる。ゆっくりと瞬きをしたクラリスは涙を押し込め笑顔を作った。
「だけど貴方は誰にも頼らなくなった。独りで生きていこうとしていたのは本当よ」
「俺が振ったみたいに言わないでよ」
まいったとセオドアが頭を搔く。
「違うの。私が耐えられなかったのよ」と、クラリスはその言葉を心にしまった。その代わりに感謝の気持ちを口にする。
「テオが甘えられる存在が出来たことは、いいことだと思うわ」
満足そうに言いきるクラリスの言葉の真意を、セオドアは分かりかね首をひねっていた。
セオドアがクラリスと出かけている頃、ミューシェは仕事先のパン屋に向かっていた。
来店する夫人たちは麗しいお喋り相手に夢中で、いろんな話を聞かせてくれる。パンの匂いはいつも香ばしく甘く、心がウキウキと踊る。すっかりパン屋での仕事が気に入っていたミューシェが鼻歌を歌いながら歩く。
「お、ミューシェも仕事か?」
道すがら声を掛けて来たのはリアムだった。今日もエリオットと連れ立って歩いている。
「やあ、リアム。エリオットもこんにちは」
機嫌よく挨拶をしたミューシェの顔がすぐに雲る。手を上げ挨拶するリアムたちの背後から「よっ」と声を掛ける人物がもう一人現れた。
「どうも、セドリック」
むくれた顔で挨拶をするミューシェを、セドリックがいつも通り笑い飛ばす。
「ミューシェは今から仕事か? あ? 坊主たちは今の時間学校じゃねえのか」
セドリックがエリオットとリアムの頭をわしゃわしゃと撫でまわす。くすぐったそうにするエリオットとは反対にリアムが子ども扱いするなと手を払った。
「本当は学校へ行きたいけど、働かないと生活できないから」
リアムの言葉にセドリックが眉を落とす。しかしリアムは今の状況を嘆いてはいないようで、胸を張ってみせる。
「俺は10歳までに助教師なる。そんで将来は教師になってエリオットと食いっぱぐれることない生活をするんだ」
「でもそれにはまず学校行かねえと」とセドリックが返すと、リアムがふんと鼻をならした。
「だから今度工場へ手伝いにいく。給料もいいし、時間の融通も利くって話なんだ」
エリオットが横でうんうんと頷いている。
「そういやテオの親も教師だったな」
「テオの親?」とミューシェがセドリックに問いかけた。そういえばセオドアの過去については「昔いろいろあった」とだけしか聞いたことがない。
「あの人は生活に困ったことなんてないだろ?」
リアムの話し方には刺があった。セオドアが嫌いなわけではない。ただ「恵まれているのに」と不満を言いたげだった。
「でもテオはお金が稼げる労働が出来なくて、今だって慎ましやかな暮らしだよ」
ミューシェがリアムの発言に難色を示す。
「俺らみたいなら、あんないい場所に住めるはずがない」
俺らとは、幼い頃に両親に見捨てられた子どものことだろう。ミューシェがセオドアの住んでいる街並みを思い出す。確かにあの場所はミューシェの知る昔から貴族所有だった土地。中流階級以上でないと宿舎と言えど住める場所ではない。
「あいつのな」と話し始めたのはセドリックだった。
「あいつの父親は教師で地位があった。母親は令嬢で、たしかにセオドアは中流家庭の出身だ。だが10年前、事故でその両親を失った。テオ自身、学や教養はあったが右脚まで失くしちまった。すぐに前を向けりゃあ違う道もあったかしれねえが、当時は一人で塞ぎ込んじまってな」
そう言うとセドリックがエリオットに目を遣る。その話にエリオットは真剣に耳を傾けている。
「まるで少し前のお前さんのようだったよ」とその小さな瞳を見つめた。
「だから、あいつもいろいろ悩んでるんだよ」とセドリックが養護しようとしたその言葉が遮られる。
「すげえな、テオは」
遮ったのはリアムの声だった。
「ヴァイオリンは諦めないで続けて練習して、好きな事を仕事にしてんだろ。すげえな」
リアムがエリオットに同意を求めると、エリオットも必死に頷いてみせた。
「俺は学校へ通うなんて無理だと諦めたんだ。でもミューシェやテオが諦めずエリオットの心を開こうとしてくれた。おかげでエリオットはあれから文字以外の勉強も頑張ってるんだ。俺だって負けてられねえ。一度捨てた教師になる夢を、もう一度拾ってみようと思ったんだ」
ミューシェの背中がうずうずとうずいた。人は悩む。でもそれを乗り越え前を向く。なんて素敵な生き物だろうと思う。
「俺らはさ、自分の未来は自分で手に入れる。でもそれに気づかせてくれたのはテオのおかげだよ」
「あ……」と小さな声が聞こえた。リアムとミューシェ、セドリックがその声の方に勢いよく振り向く。
「ありがとう」
少し上ずった声で、小さく絞り出した声で、エリオットが笑った。そしてミューシェにぺこりと頭を下げた。
「エリオット!」
感激したリアムを差し置き、ミューシェがその小さな体に抱きつく。慌ててリアムもエリオットの頭をくしゃくしゃと撫でまわした。
「お前の声、久しぶりに聞いた!」
くしゃくしゃの笑顔を見せるリアムに、エリオットが恥ずかしそうにする。その光景を見守っていたセドリックがずずっと鼻をすすり、鼻先をこすった。
今日の仕事はいつもより楽しい。上機嫌なミューシェが鼻歌交じりにショーケースに焼き立てのパンを並べていく。香ばしく甘い香りが充満し、大きな窓からはほどよく日が差し込む。幸せな空気を深呼吸するように吸い込む。「はあ」と晴れやかな気持ちを吐き出した。
「すみません」
頭上から客が声を掛けて来た。
「はいはーい」と元気よく返事をすると上体を起こす。顔を上げたミューシェの表情が固まった。
目の前に立っていたのはルノー。先日忠告をしにミューシェの前に現れた天使だった。
「やけに楽しそうだね」
意味深な笑みをミューシェに向ける。
「ルノー。どうして」
「どうして? また同じ質問を? もう一度お伝えしましょうか」
強張るミューシェをよそにルノーが並べられたパンを吟味する。
「これとこれを下さい」
そう言ってブリオッシュとパウンドケーキを指さす。ミューシェがやっとのことで動かした手でそれらを袋に詰めていく。会計をする間も、ミューシェがルノーの目を見ることはなかった。
「私は貴方のためを思って言っているのですよ? みなさんを裏切ることにならなければいいのですがね」
ルノーがミューシェに背を向ける。店を出る前に再びミューシェに振り向いた。
「そうだ。貴方のことはすべてシャルルに報告しておりますので」
シャルル。その名前を聞いたミューシェの体がビクついた。ルノーが満足そうに口角を上げる。そのまま挨拶もせず店を出ていった。
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