End Chapter: Paradise FOUND - 楽園はこの腕のなかに

Paradise FOUND - 1

 こうして歴史は作られていった。

 思い出は胸の中に。夢は未来に託されて。

 でも今は、つかの間の眠りにつきましょう……私たちには、まだ見るべき夢がある。



 目を覚ます日まで、もう少し待っていて……。





(あ……)

 エマニュエルが目を覚ました瞬間、懐かしい森の香りがした。

 くすぐったいほどの澄んだ空気。

 甘い自然の匂い。

(ふわふわ……する)


 そんな甘ったるい気分は、しかし、ゆっくりとひらけてきた視界に映る現実に、静かに流されていく。エマニュエルが視線を泳がせると、薄暗い室内の情景がぼんやりと見えてきた。


(ここは……?)

 視界は不安定で、場所もはっきりしない。ただそこに、一人の男性の後姿があるのをエマニュエルは見とめた。

 優しげな後姿。


「お……とう……さん……?」


 エマニュエルがかすれた声で呼びかけると、男性の背中がピクリと反応する。

 が、振り返ったのは父ではない。そのままエマニュエルの方へ進んできたのは──カイだった。


「気が付きましたか。一時はどうなることかと思いましたが……よかった」

「カ……イ……さん」


 カイはエマニュエルのすぐ傍まで来ると、顔を覗き込んだ。深い黒の瞳が、エマニュエルの目と合うと優しく細められる。

 何かに満足したような、穏やかな微笑みでもあった。


「動かないで下さい。貴女の胸の傷はまだまだ深い。今、無理をされては危険です」

「き……ず……」

「喋らないで」


 カイはそう言って唇に人差し指を当てると、シッと短く声を出した。

 一瞬、エマニュエルは戸惑って、また辺りを見回す。


 とはいえエマニュエルの見渡せる範囲はごく限られていた。

 ただ、自分はベッドの上にいて、ここは木造の、質素な雰囲気の小さな部屋のようで──という断片的な情景が、少し理解できただけだ。


 覚めたばかりの、とろりとしたエマニュエルの瞳が疑問を浮かべているのを見て、カイはまた微笑み、静かな声でゆっくりと説明を始めた。


「ここはある森の中──正確な位置は言えませんが、領地的には、ダイスのものになります。あまり人の住むような所でもありませんが」


 そこまで言うと、カイはベッドの隣にある水桶でひたした冷たい布を、エマニュエルの額に当てた。


「貴女をここまで連れて来たのは私です。あの後、戦場跡は混乱としていて、難しい仕事ではありませんでした」

「……あ、」

「お静かに。声を出すのは傷に良くない」


 冷えた、気持ちのいい感触が、額と頬の辺りをなでる。

 エマニュエルは何度か瞬きをすると、少しだけ顔をカイの方へ向けた。たったそれだけの動きだったにも関わらず、胸がずきりと重く痛む。

 カイはまた布を水桶へ戻した。


「──貴女は瀕死の状態だったのですよ。実際、呼吸もほとんどなく……すぐに蘇生の術を施しましたが、希望は半々でした。幸運だったのは、あなたの王の剣が恐ろしく鋭利だったことでしょうね。お陰で傷を余計に広げずにすんだ」

「……?」

「まぁ、技術的なところはおいておくとして」


 そう言ってカイはまた冷えた布でエマニュエルの肌を清めた。

 今度は首のあたりを、ゆっくりと。

 ひんやりとした感覚が、朦朧としていたエマニュエルの意識の覚醒を促す。そうすると徐々に思い出されてくる、戦場での出来事──


 そうだ、モルディハイを庇う形で、エマニュエルはジェレスマイアの剣に身をさらした。

 王の大剣はエマニュエルの胸を真っ向から貫き、倒れ……そして……。


 そして、どういう訳だろう。いつの間にかエマニュエルはここにいる。


 生きて……いるのだ。

 確実な死の覚悟があった訳ではない。しかし、生きているという事実もまた、エマニュエルには大きな驚きだった。


 思えばあの時、自分が生きるとか死ぬとか、そういった考えは無かった気がする──


 ただ、するべきことをして、守るべき者を守った。

 そんな感覚だった。実際に庇ったのはモルディハイだろうが、あの時、エマニュエルが本当に守りたかったのは、ジェレスマイアの方だったのだ。


「ジェレス、マイア……さん、は……」


 エマニュエルが切れ切れに声を絞り出すのを聞いて、カイは少し不機嫌な顔になった。

 駄目だと言ったのに、と呟いて、また布を水桶に戻す。


「両陛下ともご無事です。あの戦争はあのまま終わり……まだ、事後処理は色々とあるようですが……今は国交断絶とでも言いましょうか、両国とも、お互い背を向け合っている状態です。しかし戦争が再開することはないでしょう」


 カイはエマニュエルの隣に座ったまま、両手を膝の上で組んだ。


「貴女は亡くなったことになっている」

「…………」

「私が貴女を救ったのは、全くの私の独断です。ダイス王もジャフ王もご存知ありません」


 滑らかなカイの口調が、少しだけ頑かたくなになる。

 エマニュエルの青い瞳が揺れた──どうして、と。カイはエマニュエルの疑問を読んだようで、そのまま言葉を続ける。


「覚えていらっしゃらないかもしれませんが……一度、貴女に言ったとおりです。私は夢を見てみたかった」


(ゆめ)

 そう──エマニュエルは声には出さず、唇の動きだけで、カイの言葉を繰り返した。


(ゆめ……?)


 カイは頷いた。

 エマニュエルの瞳はまだ不思議そうに揺れている。しかしカイはもう一度微笑むと、落ち着いた声で続けた。


「今はもう休みなさい……貴女は半月近く眠っていたんです。もう少し休んだところで何も変わらないでしょう。焦ることは何もない」


 その声は魔法のようで、エマニュエルの意識をまた夢の中へとゆっくり潜らせた。


 次にエマニュエルが目を覚ました日──


 灼熱だったはずの季節はいくらか落ち着きを見せ始めていて、太陽に照らされていた力強い緑の木葉が、柔らかな黄色、そして紅へと、色を変え始めていた。





 約二月後。

 ──気が付くと季節はすっかり冷え込んできた。

 エマニュエルがやっとベッドから離れられるようになってきた頃、それは、すでに冬の始まりと呼んでいい時期になっていて、特に夜などは暖炉の火を必要とするほどだった。


 ある朝、手車一杯に薪を運んで小屋の外に並べ始めたカイの姿を見て──エマニュエルが聞いた。


「私達、冬の間もずっと……ここにいるつもりなんですか?」


 カイはエマニュエルを振り返り、寝着のまま小屋の入り口を開けて佇んでいる彼女に、舌打ちのようなものをした。


「小屋に居て下さいと言ったでしょう。外は冷えます」

「でも」

「説明が欲しいのなら、中でいたしましょう。貴女はまだうろうろしてはいけません。言ったはずですよ」

「でも……」

 エマニュエルが不満っぽく繰り返した。眉を八の字に下げて何かをねだってくる、小動物のようなその表情は、なかなか愛らしい。が──


「これは……ダイスの王も苦心されたはずだ。お話しますから、小屋へ入ってください」



 カイとエマニュエルは、あれ以来、この小屋で共に時を過ごしてきた。

 長さにして約ふた月。深い森の中、季節が移り変わり始めるほどの長い時間を、この男女は二人きりで過ごしていたのだ。

 しかし、そう聞いて人々が想像してしまうような色事は、一切無かった。


 エマニュエルは今も変わらず怪我人であったし、カイにはベッドだけがやっと入るような小さな場所ではあるが、別の部屋があり、そこで睡眠をとっている。

 重体だったエマニュエルが回復し始めるまでは、付きっ切りであったカイも、エマニュエルが身体を起こせるほどになると留守にすることが多くなった。


 ──その間、カイが何をしているのかを、エマニュエルは知らない。

 ただ時々、街でしか手に入らないような食料や話題を持って帰ってくるので、それを頼りに少し想像してみるくらいだ。


「そろそろ詳しくお話した方が良さそうですね」


 カイは、そう前置きをして、エマニュエルを小屋の中央にある安楽椅子に座らせた。

 小さい作りで、年代物でもあるらしく、エマニュエルが座ると乾いた音を立てる。が、座り心地はとてもいい。ベッドから起きられるようになったエマニュエルの、お気に入りの場所でもあった。


「いつまで私達がここに居るべきであるのか──また、何故なのか。そして、両国の様子を」


 エマニュエルはうなづいた。

 今までにも何度か尋ねていたことで、そして、その度にはぐらかされてきたことだ。


 この数ヶ月、カイとエマニュエルはまるで昔エマニュエルと彼女の両親がそうしていたように、出来るだけ人目に触れない生活をしていた。

 その理由をカイは、時が来ればお話しします、と──エマニュエルに黙っていた。


 そもそも怪我を治すのに精一杯だったエマニュエルに、しつこく問い質す力もなく。

 今の今まで、エマニュエルはカイの言うとおり、治癒に専念してきたのだ。


 もちろん、心の奥では、寝ても覚めてもジェレスマイア達のことが気にかかって仕方なかった訳だが──


 カイは続ける。


「ダイスは大分回復しています。もともと自国内はほとんど戦場になりませんでしたので……戦没者への慰霊や復興など、ジェレスマイア王を中心に精力的に行われています。春には元の形を取り戻すでしょう」


 カイは、まるで用意してあったように、滑らかな口調で説明を始めた。


「しかしジャフはそうも行かず……色々と国内で混乱があったようですが、そこはモルディハイ王です。なんとかしがみついていらっしゃる」

 ──そう言ってカイは少し可笑しそうに笑った。


 そして続く説明によると、モルディハイはあの戦いの後、少し人が変わったという。


 傍若無人なのは変わらない。独裁も、実際は変わっていないという。

 しかしあれ以来、今まででは考えられなかったような、例えば、戦跡地への復興の手助けなどに積極的に乗り出し始め、徐々に国内での人望を集め始めているというのだ。


 今回の戦いは、不幸中の幸いとして、期間が奇跡的なほど短かった。

 お陰で国内の恨みや不満は、通常なら数年に渡って続くはずの戦争の後に比べ、ずっと少く済んでいる。なんといっても戦場から遠かった農村のようなところでは、その存在すら知られぬうちに終わってしまった戦争である。


 エマニュエルの存在も、市井の人々の間では、そんな娘がいたらしいと──曖昧な噂として話にのぼってくる程度だ。


「そう、だったんですか」

 エマニュエルは答えた。


「でも、貴女が詳しく知りたいのはジェレスマイア王の方だ。そうでしょう?」

 カイが少し悪戯っぽい口調で言った。エマニュエルが拗ねたような瞳でじっと見上げると、また可笑しそうに笑った。


「どこからお話しましょうか……まずジェレスマイア王はあの後、国に帰り王宮へ戻ってから、三日三晩、御自分の部屋から一歩も出なかったという話です。人が入ることも許さなかった」

「え──」

「表向きには戦没者を思い悲しんでいらした──ということになっています。しかし、彼が実際に思っていたのは、違うでしょうね」

「…………」


 エマニュエルは心臓が跳ねるのを感じた。

 ちくりと痛んだのは、傷のせいだけではないだろう。


「そして四日目の朝、突然、まるで何も無かったかのように……それは立派な態度と御姿で、人々の前に再び出ていらしたとのことです。それ以来、昼も夜も休まれることなく、ひらすら国の為に働き続けておられる」


 ここまで言って、カイは一呼吸おいた。

 そして、エマニュエルの意見を待つような表情を見せたが、エマニュエルには言うべき言葉が見つからなかった。


(ジェレスマイアさん……)


 ──どうしているのだろう。

 無事なのだろうか、元気なのだろうか。何をしているのだろう。何を、思っているのだろう。


 そんなことを毎日考えていた。しかしこうして現実を教えられると、逆に彼が遠い人になってしまったような、妙な気持ちになる。


(ジェレスマイアさん……)


 あの灰色の瞳は何を想って──どれだけの悲しみを背負って──今、生きているのだろう。

 彼の、その、三日三晩に思いを寄せてみる。

 それでも……彼がどんな想いでいたのかは、エマニュエル本人にさえ、想像はつかないのだ。


 あいたい。


 会って、いますぐ、抱きしめてあげたい。

 きっと彼は──


「貴女をダイスに返すのは、春先、情勢がもっと落ち着いてからにしようと思っています。今はまだ国内に傷跡がある。貴女の存在は、王宮の外ではあまり知られていないとはいえ、今しばらくは諸刃の刃です。長旅が出来るお身体でもありませんし」

「…………」

「そしてもう一つ」


 カイは立ち上がると、窓の傍にあった大桶から杯に水を汲み、エマニュエルに差し出した。


「これは極秘ですが──ジェレスマイア王は、貴女のご両親にお会いになられたとか……王自らが謝罪をなさり、相当の賠償をされているそうです」





 その夜、エマニュエルは泣いた。

 狭い小屋の中のこと。カイにもエマニュエルの啜り泣きが聞こえたはずだが、彼一流の気遣いからか、そっとエマニュエルのしたいままにさせておいてくれた。





 そして春が来る。

 当然の自然の流れ──時が流れるということ。時間が進むということ。

 本当は、人に選択肢などないのだ。



 この頃になると、エマニュエルは期待と共に、不安をも感じ始めていた。

 三つの季節を跨ぎ、エマニュエルは彼らの中では死んだ者となっているはずだった。


 忘れられてはいないだろうか──

 忘れられてはいなくても、もう、彼らは前に進み、エマニュエルの存在を必要のないものとしているのではないだろうか──と。


 この思いをカイに話すと、彼は笑った。

 いっそ、そうだった方が良いのかもしれない、と。そんな事を言って。



「明日──」

 そんなある朝、カイが静かにエマニュエルに告げた。それは丁度、朝の水汲みを終えたところで、小屋の中でくつろいでいる時間だった。

「明日の朝、貴女をダイス王宮にお届けしましょう。城内までお届けすれば、後はご自分で大丈夫ですね」

「え!」

 エマニュエルが驚きに声を上げた。


「そんな……急に。それに、カイさんも、一緒に来てくれるんじゃないんですか?」

「安全な場所までは、お届けしますよ」

「そうじゃなくて……、あなたもジェレスマイアさんに会って……っ」

「──エマニュエル様」


 カイは声を落とす。座っていた木椅子から立ち上がると、エマニュエルの不安気な瞳を見下ろした。

 そして優しく微笑む。


「私がどんな生き方をしているのか、ご存知ですね。表に出るわけにはいかない。これは、私が勝手に見た夢の結末──」

「でも……」


 エマニュエルは当然、カイに人としての信頼と愛情を感じ始めていた。

 兄のような、と言うのが最もしっくりくるだろうか。


 それと同時に、カイははやり掴みどころのない男だということも、理解し始めていた。

 ──ここで別れれば、きっともう会えない。


 悲しみに瞳を潤ませるエマニュエルに、カイは柔らかく告げた。


「私は、風。いつか貴女と、貴女の王が私を必要とした時、またお会い出来るでしょう。それまでだけの別れです」


『それまで』

 それは、何年、何十年先の話になるのだろうということを、エマニュエルは知っている。


『いつか』



「……ありがとうございました……私を救ってくれて」

 エマニュエルは涙声で言った。カイはうなづく。



「礼を言うのは私の方です。時は熟した……さぁ、明日は、私に地上の楽園を見せてください」

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