Decision of Paradise - 4
エマニュエルがタリーに手を引かれて小屋に入ると、厳しい顔をしたモルディハイが彼女らを待っていた。
普段よりくだけた服装で、上等ではあるが飾りの少ない上着を纏っている。
対するエマニュエルは、小屋に置かれていた、町娘風の素朴な服を着ているだけだ。 そんな二人をタリーが嬉しそうに引き合わせ た。
「あの、」
入り口に立ったエマニュエルが短く声を出すと、モルディハイは大股で進み、エマニュエルの横を通り過ぎた。
「来るがいい……タリーの希望だ」
すれ違い様に、そう言って。
小屋からほんの少し離れた場所に広がる、大きな花畑が、タリーのお気に入りらしかった。
放っておけば彼女は一日中ここで過ごす。
この大地こそが、タリーにとって家族であり、友人であり、夢であるのだろう。
──似たような気持ちを、エマニュエルもよく知っている。
タリーがごく短期間でエマニュエルにひどく懐いたのも、もしかしたら、この共通点を彼女の本能が察したからかもしれない。
世間から切り離された自然の中。
理由は違えども、隠されて育つ、ということ。
少し離れた先で、頬を高潮させながら花と戯れるタリーの姿を、モルディハイとエマニュエルが見ていた。
ここ数日、ずっと待ち望んでいた光景。
誰にも邪魔されず、タリーの耳を気にせずに、モルディハイと二人きりで話せる時間。
「外は……どうなっているんですか? こんな風に、モルディハイさんがお城を離れる時間が、あるんですよね?」
エマニュエルの静かな問いに、モルディハイはタリーを見つめたまま答えた。
「さあな。お前が本当に知りたいのは、それか」
「沢山あります。でも、今はそれを教えて欲しいんです」
「はっきり言ったらどうだ、ジェレスマイアがどうしているか知りたいと。我が国がまだ、お前らの領地に攻め入っていないかどうか」
「…………」
わずかに訪れた沈黙の後、エマニュエルはごくりと息を呑むと、小さく頷いた。
「……答えて、くれますか?」
「お前次第だ」
そしてやっと、モルディハイは話し相手のエマニュエルの方に視線を向ける。
「お前はジェレスマイアの何に惹かれた。それとも、王である奴がお前を望んだだけか」
親しみ易い格好をしていたからだろうか、その時のモルディハイは、今までよりずっと身近な雰囲気があった。
しかし──その質問は。
「な、何の、話ですか?」
「知りたくば答えろ」
「そんな……っ。何に惹かれたもなにも……ジェレスマイアさんと私は最初、ただ預言の言葉せいで──」
口走ってしまってから、エマニュエルはハッと息を呑んで口に手を当てた。
モルディハイの瞳が、興味深い獲物を据えたように、鈍く輝く。
「今、預言といったな」
「あ……」
「ダイス王族に仕える、預言を生業とする一族の話を聞いたことがある」
質問をする時でさえ、口調に断定の響きがあるのも、ジェレスマイアとモルディハイは似ていた。
言い訳を許さない、嘘を逃がさない、欺瞞を飲み込んでしまう──王者の声。
「それがお前と関係があるのか。お前とジェレスマイアは夫婦めおととなる定めだとでも言われて、登城したか」
「ち、違……違います。ただ間違えて」
エマニュエルの声が震えた。それを、好奇に燃える瞳が、見逃すはずもなく。
「娘共は大概、嘘が上手いものだ。容貌が美しければ美しいほどそれは狡猾になる。それでいけばお前は、中々に嘘が上手い はずだが」
しかし──エマニュエルの嘘は悲しいほど下手だ、と。モルディハイのエマニュエルを見る目は、そう言いたげだった。
「そんな考え方……よくないです」
「生憎あいにくだが、経験だ。話を逸らすな」
「だから、違……」
エマニュエルの口をつき掛けた言葉は、モルディハイの瑪瑙色の瞳を前に、呆気なく飲み込まれた。
怒りとは違う。しかし明らかに常軌を逸した厳しい視線が、真っ直ぐにエマニュエルを据えて、身体の芯を素早く凍りつかせた。
モルディハイが一歩、エマニュエルに近付く。
「答えるがいい」
──強い、声。遠くで草花の間を駆けていたタリーが、二人の方を振り返った。
「……や……」
否定は、きちんと声にならず、空しく消えていった。
(本当のことを)
エマニュエルの思考に、幾つかの疑問がサッと交差した。
──モルディハイはエマニュエルをジェレスマイアの寵姫だと思っている。
ジェレスマイアがエマニュエルを愛し、それがゆえに、傍に置いているのだと。それがゆえに、大胆な行動を起こしてまでエマニュエルを 奪い返したのだと。
(教えてしまったら、どうなるの――?)
ジェレスマイアがエマニュエルを大切にしていたのは、あの預言のせいだと言ってしまえば。
エマニュエルの人質としての価値は変わるのでは?
モルディハイがエマニュエルを、ジェレスマイアを脅す種として使おうとしているのならば、それは無駄な考えだと知らしめることが出来る。少なくとも、モルディハイにとってエマニュエルの存在は、諸刃の剣となるはず──
「私──私は」
咄嗟に生まれた考えなど、信用するものではない。
そう、エマニュエルは少し後になって後悔することになる──けれど時は巻き戻せない。
「私には……預言があるんです。私の命が、ジェレスマイアさんの願いを叶えるだろう……って。だから、ジェレスマイアさんは私を傍に置いてたんです」
モルディハイの表情は、石のように固まったまま動かない。
エマニュエルは慌てて続けた。
「だから、モルディハイさんが思ってるような価値は、私にはないはずです。ジェレスマイアさんは──」
「……お前はそれを信じているのか」
「え?」
モルディハイの唐突な物言いに、エマニュエルはいったん言葉を止めた。
「……信じて?」
「そうだ。お前でも、ジェレスマイアでもいい。その預言とやらを信用しているのか。お前のような技も術もない小娘を、私の寝床に 送り込んできた理由はそれか」
「あ、あの夜は」
──マスキールの話によれば、あの夜、先にエマニュエルを望んだのはモルディハイの方だった筈だ。
力関係は、勝手に話を湾曲してしまうのか……。
「そう……な、筈です」
エマニュエルは曖昧に答えた。長い沈黙がそれに続く。
そして──
「ふ……ははははは!」
モルディハイは背を反らすと、空に向かって咆えるように笑った。
それは確かに笑っているのに、残酷な響きを持った声で。
「何という茶番だ! これほどの舞台を手にして、気付かずにいたとは!」
二人の方を見ていたタリーが、突然の兄の豹変に驚きの顔を見せる。
エマニュエルとて同じ。つい、助けを求めてカイの存在を探してしまった。が、彼の姿は近くには見当たらなかった。モルディハイは続 ける。
「──ジェレスマイアはそこまでお前を愛していたのだな! 己の願いを叶えることを捨て、民を救う好機さえ放棄し、私の元からお前を奪い返したほどに!」
それは傍観者だからこそが得られる、単純な構図だった。
ずっとエマニュエルが否定していたもの。あり得ないと──あってはならない、と思っていたもの。
「そこまで深く執着した娘を、親の仇の息子に取られた気分はどうだ! 己の国を滅ぼそうとしている男にだ。今この瞬間にも、傷付けられているだろうか、辱められているだろうか、殺されているかもしれないと、一秒一秒を苦しみ抜く気分は! まさに──」
「やめ……」
「まさに私の望んだ奴の姿だ!!」
誰に向かってモルディハイが叫んでいるのか、定かではなかった。
エマニュエルに対してではなかったし、勿論、タリーに対してのはずもない。乾いた勝利の宣言にも聞こえた。
青い空はモルディハイの怒声をすくい上げ、それでも、澄んだまま高く存在し続ける。
「私は預言など信じぬ」
モルディハイは言い切った。
「──信じぬが、これほど愉快な運命はあるまい? 私はお前を気に入った。その預言とやらもだ。どうだ、それを成就させてみる気はあるか」
また一歩、モルディハイはエマニュエルへ近付く。
「成……就……?」
「私のものになれ。私を愛し、私に尽くし、私の后となり私の子を産むがいい。そしてジェレスマイアを忘れろ」
「……それは」
「二度とその口で奴の名を呼ぶな。お前の命の全てを私に捧げろ──そうすればダイスを見逃してやっていい。正に、お前の命と存在そのものが、ダイスを救うのだ。少なくとも私の治世では、平和を約束してやろう」
いつかジェレスマイアが言った──
『時が来れば、私はお前を殺す。それが、私とお前の運命だ』
『その命をもって、この国の王の願いを叶えるだろう』
預言はいつも曖昧だった。
エマニュエルの命が、ジェレスマイアの願いを叶える糧となるだろう、と。分かっているのはその結果だけで、方法も過程も、全ては謎 に包まれたままだった。
(ジェレスマイアさん……)
──いつか天国にいたことがあった。
父と母の温かい愛情が、毎日、惜しみなく注がれて。自然という名の優しい友たちが、いつだってエマニュエルを元気付けてくれた 。
(ジェレスマイアさん……ねぇ)
そこから追放されたと思っていた。
両親と切り離され、豪華だが冷たい檻の中に、閉じ込められたと思っていた。
それが。
──貴方の腕の中に、楽園を見つけたの。 貴方の声に天国の歌を思ったの。
切ない幸せの中で、貴方に恋をする至福を、教えてもらったの。
私が貴方と別れるとき。それは、予言が成就されたとき──私の命が、貴方の為についえるときだと、そう思っていた。
「無論、今後ジェレスマイアとは一切会わせん。奴は遠く大国の宮殿で私を愛するお前の話を聞き続け、苦しみ続けるという訳だ 」
モルディハイの声がいやに遠く、エマニュエルの聴覚を通りすぎ、抜けていった。
(ジェレスマイアさん……貴方の)
「ああ、会わせてやってもいいだろう。私の后として、私の隣で、だ。奴はどんな顔をするかな」
モルディハイの口調は楽しげで、どこか恍惚としているようでもあった。
(貴方の願いは……これで、よかった、の……?)
答えは、今は遠く、あの灰色の瞳だけが知っている。
ジェレスマイアの願い、それは国を救うことだった。もし問うことが出来れば、彼は今、肯定の返事をしただろうか。
『時が来れば、私はお前を殺す。それが、私とお前の運命だ』
いつか貴方はそう言った──そうなってくれていた方が、楽だったかもしれない。
貴方の宮殿の花になって、貴方の傍で、貴方を見守っていられた……。
「……約束、してくれますか」
エマニュエルが震えた声でそう言った。「戦争はしない……って。ダイスには攻め入らないって……平和に、してくれるって」
モルディハイは愉快そうに咽を鳴らして笑うと、答えた。
「私にとって、約束などというものは存在しない。私は言った。それは現実となる。それだけだ」
そして、モルディハイはエマニュエルの顔に手を伸ばした。エマニュエルの桃色の頬は今、血の気が引き、透き通るような白を見せている。
モルディハイが触れると、エマニュエルはピクリと震えた。
「来るか──私が女に選択肢を与えることなど、金輪際有り得ないだろう」
「でも、もし、私が逃げたら……嫌だって言ったら」
──エマニュエルの問いに、モルディハイは鼻を鳴らした。
「聞く必要があるか、女」
瑪瑙の瞳に燃える炎に、追い風が差したようだった。赤い炎は一層と勢いを増し、温度を上げ、エマニュエルの心さえをもちりちりと 焼き始める。
「あの様な小国、私の勢力を持ってすれば、ひと月と持たぬだろう。飢えた兵士達がどのような残虐の限りを尽くすのか、見物だな 。そして私は私で、あの澄ました王を処刑する楽しみがある」
エマニュエルの瞳から涙が零れそうになるのを、モルディハイは許さなかった。
青い瞳を濡らし始めた涙を、乱暴に指で拭い去ると、答えを迫る。
「来い、女。私の方が奴より優れていると、今に分かるはずだ……私を愛するがいい」
*
王よ。
孤独で長い戦いの末、その心は癒えぬ傷を負い続けるか。
清らかな泉の前に膝を折り、許しと救いの水を、その乾いた咽に求めるか。金の天使に抱かれる夢を見るか。
王者よ──
運命の決戦を前に、ひと時、可憐な花を摘む夢を見るか。
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