『副流煙』

 彼はいつも私のいないところで煙草を吸う。別に私は未成年でもなければ、嫌煙でもないのに。隣で吸っても良いよと伝えても、『体に悪いよ』と頭を撫でられる。それは大好きな彼の唯一嫌いなところだった。そうされる度に、いつも置いて行かれる気持ちになるから。


 目を覚ますと、まだ部屋は薄紫のベールに包まれている。黄色い小さな照明の下、サイドテーブルに置かれた時計は二時を回ったばかりだ。ふと視線を横に移すと、捲れた毛布が抜け殻のようだった。そっと触れてみると、まだ少し温かい。居場所は分かっている。

 静寂に包まれた部屋の中。無意識のうちに足音を忍ばせる私がいる。カラカラと音を立てながら開くベランダへの入り口。夜の街に浮かぶ黒い影。溶けるように消える白い煙。

「あれ、起きちゃった?」

煙草を片手に振り向く彼の表情は、あまりよく見えなかった。

「こんな所で吸ってたら風邪ひくよ」

「すぐ戻るよ」

ヒラヒラと手を振る彼。宙に浮かぶ赤い光を、つい目で追ってしまう。

 乾いた風が吹く。その風は煙草の匂いを連れていた。

「部屋、戻ってて」

ああ、きっと彼はいつもの顔をしているのだろう。いつもの、子供をあやす様な大人の顔。なんだか無性に腹が立って、裸足で彼の横に肩を並べる。

後ずさるような足音。暗闇の中で二つの目がこちらを見ている。伸ばした手で彼の着慣れたパーカーの襟元を掴むと、力いっぱいに手前に引き、強引に唇を奪った。それは苦い、大人の味がした。

「ねえ」

彼に何かを言われる前に言葉を続ける。

桃娘たおにゃんって知ってる?」

突然尋ねる私に動揺するように、彼の目が揺れる。暫くの沈黙があって、何か言いかけた彼は困った様に首を傾げた。

「いや、なんでもないの」

そう微笑みを渡すと、私は彼に背を向けた。顔にかかった髪からは、彼の匂いがした気がした。


 桃娘たおにゃんってね、桃だけを食べ続けた女の子の話なの。その子の体液は桃のように甘く、体からは桃の香りがするんですって。だからね、あなたの煙を食べたら、あなたに近づけると思ったの。なんて言ったら、あなたは笑ってくれたかしら。

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