第43話 モスクワの海海戦

 蓋の空いた瓶を水に沈めると、水は忽ち瓶の中に入り込む。瓶を逆さにして水に沈めれば水は流れ込まないが、瓶の中身は水中に落ちてしまう。泥田善子の能力も、同様である。彼女の異能は、万能では無い。蓋の空いた容器では、忽ち中身が岩石に呑まれてしまう。彼女は、『閉じた物体』しか引き込めないのだ。




  クレーター、モスクワの海。通称『ウボスの湖』周辺は、粘菌が深く堆積した大地が広がっている。ダイラタンシー流体に似た性質を有するその粘菌は、強く踏み固めれば足場になり、押し退ける体積に大して緩慢に動けば流体となる。




  その粘液の大地を掻き分けて。岩造りの鈍重な戦艦が粘菌の湖を駆ける。その数、四隻。黒い波を立て、粘菌を引きちぎりながら、岩の山が頭を出す。『エサム級陸上戦艦』。月の山の名前を冠し、粘菌の大地における『潜航機能』を有した戦艦である。レン民族解放同盟旗艦『ガーイェグ』は、このエサム級戦艦を改造したものである。そのため元艦の名残として邪神によるテラフォーミング圏<ウボス近郊>での使用が想定されているにも関わらず、艦内外の装備は全て密閉されていた。そのため、泥田善子は先の作戦を展開できたのである。




  その上を、星空の海を駆ける帆船が航行している。第二艦隊は、エサム級陸艦四隻と『ガレオン宇宙船』三隻で構成されていた。ムーン・ビーストは、地球の海上で用いられていたガレオン船に似た船舶を、宇宙空間で運用している。その形は完全に『帆船』であり、マストから掲げられた『帆』で受けた太陽光エネルギーを蓄え、船横に取り付けられた巨大な櫂によって機動を行う仕様になっていた。戦争用に武装が施された特殊装甲製のガレオン船は、魔術防壁の効果も相まって高い性能を誇る。




  その前方。楔型陣形の先頭に立っていたのは、幽閉機関所有、ステム級対地攻撃艦二番艦『サイサリス』である。




「機関最大!最大戦速で一気に本丸を叩く!」




  ブリッジにて指揮を執るのは、ヒライである。月面支部の保有しているステム級は、過去の大戦にて革命軍側が使用した『ルート級対地攻撃艦』がベースとなっていた。より低空を航行し高精度の爆撃を目的とするルート級戦艦を戦後接収し、改造を加えたのがこのステム級である。幸いにも制御システムはルート級のものを踏襲しており、ヒライが連れていた同盟の戦士の中にも数十名、操作に習熟した者がいた。現在『サイサリス』は同盟のメンバーを中心に運用され、必要人員の残りを第二艦隊所属の兵士が埋める形で航行している。




「レーダーに反応あり、識別信号―第一艦隊!」




  前方に現れたのは、ガレオン船団。その数六隻。未だ幽閉機関艦艇の姿はない。加えて、『ヘイロー』による援護は完全に打ち切られた。つまり千載一遇の好機は、今を除いて他は無い。死兵となってでも、『公爵』を討ち滅ぼす。




「ブリッジ遮蔽!第一戦闘配備!」




  シャッターが閉まり、ブリッジが戦闘形態に変形する。ヒライは高揚していた。奇しくも―彼が妹を失ったのは、この粘菌の湖の上だった。




  見ているか、ミライよ。私は帰ってきた。我が牙は、敵将の喉元まで迫っている。この命に変えても、お前の仇を討つ。




「フラックフィアリング<対空砲>起動、ルールシュタール<空対空ミサイル>装填。相対位置合わせ!」




  オペレーターの復唱のあと。ヒライは叫んだ。




「この一撃で、口火を切る!カノーネ・グスタフ、撃てェーっ!」




  カノーネ・グスタフ。ステム級四隻の中でも『サイサリス』だけに搭載された、第三帝国残党謹製の大口径収束ターボレーザーである。収束と言ってもその規模・射程共に艦艇が扱える限界に近い。甲板上に増設されている都合で射角に制限があり、一度放てば他艦砲装備は一時的に使用できなくなるが、その威力は絶大である。




  『ヘイロー』と同じ毒々しく無機質な青い光が、月の空を裂いて奔る。第一艦隊を統括する司令官ウィンは、それをぼんやりと眺めていた。彼の敗因は、ダナンの巧みな情報操作である。ウィンの持っていた情報では、『サイサリス』は修理中であり、当然のことカノーネ・グスタフは使用できないはずであった。しかし、それはダナンの指揮の元流布された虚偽の情報であり、実際には『サイサリス』の修理は完了、その機能を十全に発揮していた。




  青い閃光に呑まれ、第一艦隊旗艦は爆散した。それに誘爆する形で、隣の船も大きく倒れていく。将棋倒しの要領で、旗艦の他二隻の船が轟沈した。




「敵旗艦沈黙!」




  船員の報告に、ヒライは舞い上がりたい気分になった。しかし彼はそれを顔に出さず、努めて冷静な艦長を演じた。否、彼は事実、冷静な艦長であったのだ。




「右舷より高熱源反応!識別…幽閉機関です!」




「機関減速、衝撃に…っ」




  オペレーターの言葉に即座に指示を発したヒライ。そして操舵手も、彼の指示を的確に行った。艦橋の前に、光が奔る。それが艦砲射撃によるものであると気がついた時には、甲板のグスタフカノンは破壊されていた。




「面舵いっぱい!本艦は敵艦隊を迎撃する!」




  現れたか、とヒライは歯噛みした。我が弟ながら、嫌な仕事をしてくれる。




  彼の予想通り、現れたのはステム級対地攻撃艦一番艦『ゼフィランサス』。幽閉機関月面支部大佐、フライ・カナフの乗艦であり、月面支部のフラグ・シップである。それは六隻のガレオン艦隊を伴って、左右に広い鶴翼の陣の中央に構えていた。




「外したか」




  鼻を啜るような―発声機越しの気味の悪い声が、艦橋に響く。




「まずは『サイサリス』のアンチビーム膜を破壊する。ルールシュタール発射、牽制しつつ砲撃を開始しろ」




「アンチビーム膜を展開しろ!第二艦隊が敵陣を突破するまで持ちこたえる!」




「…などと言っている筈だ。『アーベル』『ウレス』両艦は敵ガレオン船を攻撃しろ。残りは『サイサリス』を叩く」




「攻撃が来る、陸上戦艦を潜航させろ。我々ガレオン艦隊は囮でよい」




  様々な思惑が交錯し―後に『第三次月面戦争』と呼ばれるこの戦争の最も大きな一戦、『モスクワの海海戦』の火蓋が、切って落とされた。


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