第30話 最上の笑顔


 公爵領の北部は商業街であり、歓楽街だ。

 領内の北東が大河に接している。大河は南東に伸び、王領の東を通って海に向かう。荷運び船はそこを登ってくるし、船員がやってくる。そこで彼らに食事と宿、あるいは娯楽に関する供給を行ってきたというのがこの地域の由縁なのである。


 歓楽街、すなわち花街の中心には教会がある。どうした具合か、その周辺に多く並ぶのが娼館だ。理由は判然としない。とにかく需要を持つ男たちは、だから、船を降り、あるいは馬を歩かせながら、この教会の尖塔を目指したものなのだ。


 いま、その尖塔が焼け落ちた。

 それを横目で確認し、ウィリオンはさらに強く地面を蹴る。


 花街の南部で馬を降りた。火を恐れて動けなくなったためである。ウィリオンは同行した衛士たちに声をかけることすらなくその場から走り出した。同行者の姿は見えない。追いつくことができなかったのだ。


 ウィリオンは公爵邸で必要な指示と措置を行った。なすべきことは無数にあった。指示をする彼の声は徐々に大きくなり、ついに怒声となった。冷血の仮面など失せていた。どんな口調で言葉を発したか本人も記憶していない。が、気に留めるものもいなかったろう。

 ニアナ。ニアナ。

 脳と心はそれぞれ異なる単語を生成し続けたが、やがて心が生んだそれが口から零れるようになった。


 すでに陽が沈みかけている。

 教会のある広場を抜けると、右手の街区は娼館街だ。その奥、街路をまっすぐ行って曲がった場所。その乳白色の外観の建物を、ニアナが待つであろうそこを、彼は目指した。

 

 最後の角を曲がる。

 脚を止める。

 へたり込みなどしない。理性ではない。身体が硬直していうことを聞かないのだ。

 ただ、立ち尽くしている。光景を見つめている。


 銀の魔女亭は、建物であることをやめていた。

 一階の一部しか残っていない。炭化した構造が積み重なっている。すでにそのあたりは火もほとんどおさまり、一部で小さな炎が揺らめいているだけとなっていた。一面に薄い黒煙。鼻を突く不快な匂い。


 意思の力で足を出し、ウィリオンはゆっくりと近づいていく。

 正面に立つ。人影はない。熱を感じる。何かが爆ぜる音。

 ニアナ、と呼びかけようとしたが、中止した。無駄だと思ったのではない。声が出なかったのだ。ひゅ、と空気が喉を通過する音だけが鳴る。胸骨が大きく上下する。

 と、声がかかった。


 「……あんた。公爵さんだろ」


 女がひとり。ゆらゆらと脚を運んでいる。裾の焦げたドレス。長い髪が散り散りに乱れている。なにかを目指して歩いているようには見えない。彷徨っている、という表現が相応しかった。彼を見て、煤だらけの顔を歪めている。


 「見たことあるよ。あんたが跡を継いだとき、お披露目の行列でさ」

 「……あな、たは」


 問われて女は、なにか声を出そうとした。が、言えない。口を歪め、表情を撓めて、やがて大粒の涙を零しはじめた。


 「……なんだよ。い、今ごろになって、のこのこと来やがって。ちきしょう。ちきしょう、あんたのせいだ。ぜんぶ、あんたのせいだっ!」

 「……」

 「そんなにニアナが憎かったのか。そんなにあの子のこと、苦しめたかったのか……! あの子は、あんたのために、あんたを助けようって、薬のこと調べて……だからきっと、あんな奴らに目をつけられて……!」


 言葉を聴いて、ウィリオンは女に走り寄り、肩を掴んだ。強く揺さぶる。


 「ニアナが、あいつが、どうした!」

 「連れてかれちまったよ! 火をつけた奴らに! ゼンさんだって! ちきしょう、ぜんぶ、ぜんぶ、あんたのせいだ! あんたがニアナを、あたしらの家を……っ!」

 

 女は身を捩ってウィリオンの手から逃れ、崩折れた。顔を覆って全身で泣き叫ぶ。


 ニアナの行方をウィリオンは訊かない。誰がどうして、などとは言わない。

 ただ、ただ、己の途方もない愚かさを呪っている。甘やかな記憶に鈍った薔薇の狼の嗅覚を、人並みのしあわせを望めるなどという夢想に陥った弱い心を、硬い踵の底でにじり潰している。


 女の肩に触れかけ、中止した。

 音を出さずに後ずさる。

 怯えているようにも、泣いているようにも見える。

 口の端に血が滲んでいる。唇を噛み切ったのだ。


 そのままウィリオンは走り去り、姿を消した。


 

 ◇◇◇



 土袋を置くように放り投げられ、思わず呻く。

 背が接地する直前に身を捩って、折れた骨のあたりを避けることができたのは、アムゼンの若い頃からの弛まぬ鍛錬の成果だった。

 頭から被せられた酷い匂いのする袋。口には猿ぐつわ、後ろ手に縛られている。倒されてから足首も拘束された。

 袋だけを乱暴に取り去り、廃棄物を見るような視線をアムゼンに向けて、男たちはその部屋を出て行った。


 とうぜん殺される、と考えていた。

 が、ニアナを拘束してアムゼンを縛ったごろつきたちの頭目は、彼にとどめをさそうとする手下を止めてみせたのだ。

 彼の顔をちらと見て、目深の頭巾をさらに深く引き下ろす。もうろうとする意識の中で、わずかに見えたその口元が薄く笑っていることをアムゼンは捉えた。


 これは、これは……ああ、そういうこと。

 暗い紫の頭巾、外套。その男は小さく声を出した。

 殺すな。そいつは使えるから。隠れ家やさに運び込んでおいて。


 女は、どうすんですかい。

 手下の問いに、頭目はいかにも不思議だという声を返した。

 どうって、僕の家に連れていくに決まってるじゃないか。久しぶりに川面の朝日を眺めながら朝食を摂るんだ。二人で、ね。

 そしてニアナの腕を掴み、彼女が身を捩ったところまでをアムゼンは目撃している。が、映像はそこまでだ。頭から袋を被せられたためである。

 引き摺るように立ち上がらされて、徒歩でこの建物まで移動した。


 転がされたのは、窓のない部屋。じっとりとした空気。倉庫だろうか。薄暗く、視界は限られている。

 アムゼンは痛みを抑えるように浅く呼吸しながら考えている。意識が飛ぼうとするたびに床に頭を打ち付けて呼び戻す。

 頭目の声。聞いたことがある。どこだ。どこで聞いた。この建物の位置は。花街から遠くない。何歩歩いた。方角は。縄を断つ方法は。

 奥様は。奥様は、どこへ攫われた。


 ニアナは同じ建物にいないことをアムゼンは確信している。頭目ら数人が連れて行ったことを視界がない中でも感じた。歩きながら、男たちが彼の背を突いて話していたことを思い出している。

 旦那も懲りねえよな。まったくだ、俺はあそこ苦手だぜ。ああ、薄気味わりいし、魚臭くて堪んねえ。


 はっ、はっ、という自分の呼吸の音だけを聞きながら、途切れそうになる意識をかろうじて繋ぎ止めながら、アムゼンは見えない天井を見つめ続けている。


 

 ◇◇◇



 薄く目を開ける。

 首を動かそうとしてひどい頭痛を覚え、ニアナは呻いた。


 揺られたことは覚えている。

 わずかに目が醒めた瞬間もあったが、なにも見えなかった。砂利を蹴る馬のひづめの音だけがくぐもって聞こえてきていた。

 拘束されてすぐに薬を嗅がされ、頭に袋のようなものをかけられたのだ。すぐに意識は途切れ、どんな姿勢で、どういう風に運ばれたのかもわからない。


 いま、匂いと音の刺激で覚醒して、ニアナはぼうっと暗闇で目を開けている。

 ぼそぼそと誰かの話し声が聞こえている。器をぶつけるような音、笑い声。

 そして匂いは、埃と黴と、どこか生臭いようなものだった。幾度か吸い込み、思わずむせ込んで、痛みに頭を抱える。

 と、音が止んだ。代わって重い足音。扉が軋みながら開けられると弱い光が差し込んできた。


 「お。目ぇ、醒めたぜ」

 「よし、連れてっちまおうぜ。乱暴にするなよ、旦那に殺されっぞ」 

 

 言いながら二人の男が逆光を背負って入ってきた。ニアナの肩をつかみ、背を支えて起こさせる。抵抗はしない。逃げられないことは知っている。

 腕を引っ張って強引に立たされる。男らの、それも精いっぱいの丁寧な取り扱いなのだろう。


 「おら、出ろ」


 背を突かれ、扉を出る。

 数人の男たちが車座になって酒を吞んでいた。床に置かれた蝋燭に、不衛生な皿や食料がゆらめいている。全員の濁った視線がニアナを追っている。

 装飾もなにもない、作業部屋のような場所だった。そこを歩かされ、反対側の扉を男たちは押した。


 ぶわ、と風が入ってくる。

 生暖かい風が乗せてきた匂いは、先ほどから感じていたそれを強くしたものだった。血液の、あるいは臓物の。


 「やあ。おはよう。よく寝ていたね」


 最初にニアナの目に飛び込んできたのは満月だった。

 正面の大きな窓の向こう、燃える氷のような蒼の月を背景に、その男はニアナのほうに振り返ってゆらりと立ち上がった。両手を広げてみせる。


 「ようこそ、僕の家に。新しい家族を歓迎するよ」


 言いながら、頭巾をゆっくりと後ろに落とす。口元を覆う布を引き下ろす。

 そうして浮かべた表情を、視線の粘度を、ニアナは知っていた。

 目を逸らそうとするが叶わない。わずかにも動けない。

 同じ男を目の前にして、あの日に王宮で彼女の崩れそうになる膝を支えてくれた人はいま、隣にいない。


 カイン第二王子は、上目に彼女を見ながら歯ぐきを剥き出した。

 それは、少年時代より一度も本心からの笑みを向けられたことのない彼に作り得る、最も上等の笑顔なのである。


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