第27話 ある晴れた日に
その日も、快晴だった。
風がある。
ニアナは店の掃除を終えると、久しぶりに少し離れた市場に足を伸ばした。食材も日用品も仕入れなければならないものがたくさんあり、それを引き受けたのだ。
しばらく街に出ていなかった彼女の心は浮き立っていた。
以前は二日に一度ほど賑やかな店の立ち並ぶ街区へ通っていたのだが、ひと月ほど前に公爵邸に入り、そして夫婦喧嘩を口実に花街に戻ってからは日中に出歩くことを手控えていた。もちろん、例の調査のためである。できるだけ目立たない方がいい。
ただ、花街でもニアナを見知っている者はそう多くはない。
もちろん商店主なり出入りの業者、あるいは仲の良い近隣の店の者とは親しくやりとりをしていたが、店に出ていたわけではなく、裏方仕事と併設の酒場の手伝いをしていただけの彼女は、馴染みの客にとっても名前のない従業員に過ぎなかったのだ。
だから仮に、薬のことを訊きまわっている者が彼女の店に繋がっていると知られたところで、道を歩く彼女がその起点であるとわかるはずもない。
それでもアムゼンは念のために身の回りに注意するよう言ったし、ニアナ自身も軽率に行動してウィリオンの目的に掉さすようなことがあってはならないと思っていた。
それが街に出ることになったのは、もうすぐ邸に戻ることに決まったためである。もう簡単には来られないだろうから、街を見ておきたい、とニアナが希望したのだ。
娼館の女たちの協力により、情報収集を控える前にすでにある程度の手掛かりがつかめて来ていた。
例の、旦那、と呼ばれる人物が薬の流通の起点になっているらしいこと、その人物が伝統的な夜の支配者とは一線を画しており、むしろ反目するような状態にあること、ただきわめて有力な背後があって誰も手出しができず、その扱いに苦慮していること。
ここまで分かったこともあり、今後はウィリオンとアムゼンがその人物周辺に迫る手段を考える、なにやら不穏な動きもあるからニアナはいちど邸に戻った方がいい、ということになったのだ。
娼館の女たちには、夫、ウィリオンが頭を下げてきた、ということにしてある。
ニアナはいま、網籠を抱えて馴染みの街路を歩いている。
パンやら葉物やらが籠に大きく盛り付けられており、彼女の顔の半分はそれに隠されてしまっている。前が見ずらい。ひんぱんに躓きそうになりながらも、ニアナの頬には小さな微笑が浮いているのだ。
次に来られるのはいつになるのかな。ウィリオンも来られればいいのに。いつかこの道、一緒に歩きたい。小さいころからお世話になったお店、一緒に行ってみたい。
街のみんなに紹介したい。こんなに素敵なひとなんだよって。冷血なんかじゃない。とっても不器用で、口も悪くて、いろいろ雑で、お食事やお行儀の作法も苦手で……いやいやこれじゃ単なる悪口だ。ええと、まっすぐで一本気で……。
ふふと笑い、目を細める。
左右の懐かしい店なり街並みを眺めながら、ウィリオンのこと……夫のことを、考える。自分の故郷を見せたいと思う。自分が幼いころから好きだったものを知らせたいと思う。そしてそれを、きっと夫は喜んでくれると思える。
嬉しい。嬉しい。
もうすぐ夕刻を迎える橙色の日差しに包まれて歩きながら、彼女の心のなかもまた、同じような暖色で満たされているのである。
そうして、銀の魔女亭がある街区にもうすぐ差し掛かる、というころ。
ふいに、ニアナは違和感を感じた。
「……?」
見回す。が、目よりも先に違和感の原因を鼻が捉えた。
「……焦げ臭い……」
たしかにあたりには料理屋があるし、屋台も出ている。が、そうした香りとはまた違う、不吉で暗い匂いだった。
前後を歩く者も、店先に立つ店員も、あたりを見回し空に顔を向けている。
と、ぼん、というような鈍い音。
同時にニアナの向かう正面、高い建物が並ぶ向こうから、ひといきに黒い煙が立ち上るのが見えた。
脚を出す。一歩出し、歩き出し、すぐに小走りとなった。抱える網籠から食材が転がり落ちるが、気づかない。
角を曲がるたびに匂いが濃くなる。あたりが煙で霞む。ばちばちという音が聴こえる。熱を感じる。ニアナは走った。すでに網籠の中身などすべて揺れ落ちている。空の籠を、彼女は懸命に抱えて、走った。
走って、角を曲がって。
彼女はそこで、籠を取り落とした。
ゆっくりと首を振る。眼前の景色は消えなければならないから、それは嘘でなければならないから、彼女はじっと正面を見つめて、それを待った。誰かがやってきて、冗談だと詫びなければならないから、待った。
銀の魔女亭があるはずの街区は、いま、その姿を目視できない。
残酷なまでに鮮やかな朱の炎がすべてを飲み込んでいるからだ。
◇◇◇
朝から侍女たちの姿を見かけない。
ウィリオンは先ほどからずっと、各部屋の戸棚を開け閉めして回っている。公用で外出するために新しい内着を探しているのだ。が、見つからない。
この邸では衣服と日用品の管理は侍女のしごととなっていたし、普段はウィリオンの自室にその日の予定にあわせて用意しておいてくれているのだが、今日はなかった。声を出して呼んだが現れない。男性の侍従なり執事にも聞いてみたが、侍女たちと内着、いずれの所在もわからない。
「まいったな……どこに行ったんだ、あいつら……」
明日は彼の妻、ニアナが邸に戻る予定である。
アムゼンと相談し、彼女を邸へ戻すとなったためである。アムゼンはいま、その段取りで花街に向かっている。もちろん裏の顔、ゼンと名乗っているとウィリオンは聞いているが、その体裁で、ということである。
今日はウィリオンは朝から大車輪で公務を片付け、用事を足し、なすべきことをなしている。明日いちにちを公休と定めたためだ。むろん、ニアナと二人きりで過ごすためである。
思えば邸に迎えて以来、まともに貴族の妻として過ごす時間を持たせることができていない。彼女自身が希望したこととはいえ、新婚の数日後から、夫の隠密のような働きをさせることになってしまっているのだ。
しかも、夫婦喧嘩を理由とした里帰りまで装わせて。
さすがのウィリオンも反省をしている。
彼女の働きもあり、求めていた情報は想定以上に円滑に集まりつつある。ここで彼女は解放し、ふつうの公爵夫人としての時間を作ってやりたいと思うようになった。
明日はずっとニアナの側にいようと考えている。望むなら買い物も連れ出すし、あるいは暖かな庭先で茶菓を愉しんでもいい。彼女さえよければ、朝からずっとベッドの上で語らっていてもいい。食事だってベッドの上だ。自分が食べさせてやろう。行儀を口うるさく言う侍女たちなど放っておいて、二人で楽しむのだ。思いきり。
ふふ、とウィリオンは口元をほころばせた。
が、その時。
若い執事が慌ただしく廊下を走っている。旦那様、と呼ばわっている。ウィリオンを探しているのだろう。衣装棚の引き出しを戻して戸口から顔を出し、声をかける。
「どうした」
「あっ、こちらにおられましたか」
走り寄ってきた執事の息が切れている。顔は緊張でこわばっている。変事であることは報告を待たずに理解した。ウィリオンはすっと息を吸い、常にも増して冷たい表情を作ってみせる。
「なにかあったのか」
「火事です。ご領内の北部。少し前に出火したようです」
言葉の途中でウィリオンは走りだした。執事も追う。いま三階のウィリオンの私室付近におり、その廊下の先が露台になっている。露台は街を一望できるように作られている。
そこに立ち、目を凝らす。
領内、北部。黒い煙がいく筋か立ち昇っている。そのあたりは……。
「衛士を集めろ。騎士たちに触れを出せ。全員、ただちに火災の現場に向かわせろ。指揮体系は戦時体制とする、住民の救出を最優先として各部隊の判断で動けと伝えろ、延焼の恐れがある建物はすべて破壊だ、一切の責任は俺が取る!」
「しょ、承知いたしました!」
遠方に目をやったまま鋭く短く言い切ったウィリオンに、執事は大声で返答し、駆け出して行った。ウィリオンはわずかな間、周囲の状況を目に焼き付ける。なすべきことを冷静に計算している。
計算しつつ、それでも彼は手元の手すりをがんと強く叩いている。歯を食いしばる。いますぐ走り出そうとする身体を意思で止めている。
ニアナ。頼む、頼む。
無事でいてくれ。
頼む。
◇◇◇
男は腹を抱え、胃の中のものを吐き出しながら背を丸めてのたうっている。
周りを囲むものは顔を引き攣らせ、目を擦っている。それが周囲を覆う黒煙によるものか、あるいは彼らの主の行動に対する反応なのかは、彼ら自身にとっても明瞭に判断できるものではなかった。
「……す、すす、すいやせ……」
言葉を最後まで待つことなく、つま先が地面に転がる男の脇腹に刺さった。転がり、頭を地面につけて苦悶する。
主は目深の頭巾が片目にかかることが気になっているらしい。片手で位置を直しながらすたすたと男に近寄り、なんども踏みつけた。そのうちの一度、腕だろうか、骨の折損する不快な音が響いた。
「さっき、なんて言ったんだっけ。たかが女ひとり探すのに、街を焼く必要はないんじゃないか、だっけ。ねえ、なんだっけ」
つま先で男の頭を小突きながら声を出す。
「君たちがさあ、三日で見つけるって言ったんだよね。ね。それって今日の昼までだよね。なんでできないの。ね。なんで。ね。ほら、答えて」
「……す、すいやせん……その、次は、ちゃんと……」
「次?」
主は笑って、男の頭部を蹴り上げた。
浮き上がり、がんと落ちた男の上半身は、動かない。
「……旦那。ここは危ねえ。火が迫ってる。あとは俺らがやっておきます。その女……ニアナってのも、必ず炙り出されてるはずです。見つけます。絶対に」
主の足元で膝をつき、震えながら言上する別の男。それを見下ろし、頭部と口元を覆った暗い紫の布のなかで主は表情を歪めた。布がないとしても、それが笑みと怒り、あるいは嘆きのいずれに属するかの判断は難しい。
「だから、さあ……まあ、いいや。うん。僕が探すよ。たまには街をぶらぶらと散歩するのも悪くないよね。大事な人を迎えにいくには良い日だし。今日はほんとに、晴れてよかった。ああ、嬉しい。ほら、行くよ」
そういい、すたすたと歩き出す。男たちはやむなく後ろについた。
進む先には教会の尖塔が見えている。娼館が並ぶ街区がこの先にはある。
主は鼻歌を歌っている。左右を見回し、機嫌よさげに腕を振り回す。
彼らが放った炎に彩られる街路。
凶悪な紅蓮を背景に、彼の影は人間のそれとは見えていない。
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