第25話 その女のゆくえ


 貴族の館というものは、一階に政務や社交向けの機能が集まるものである。

 ローディルダム公爵邸においても同様で、会議室や大食堂もそうだし、当主や執事が公の仕事を行うための執務室もある。

 当主のための執務室の隣に、書庫を挟んで執事のための部屋がいくつか並んでいる。その最大のものが執事長の部屋で、いまアムゼンがいるのはそこである。


 しばらく雨が続いていたが今日は抜けるような晴天である。見上げれば目に痛いほどに蒼い空から降る光が上質な調度類をきらきらと煌めかせている。

 が、調度類が煌めいている理由は他にもあるのだ。


 「……あの……」


 筆記具を持ったまま、遠慮がちに声を出すアムゼンに、その正面、手の届くほどの距離にいる侍女長ヘレーネは応答しない。


 「そこはもう、さきほど磨き終わったように思いますが……」


 ヘレーネは右手に拭き布を持ち、左手に磨き粉の器を掲げ、アムゼンがついている事務卓を磨いている。光沢のある分厚い木材で作られた卓の上には公務に関する書類が広げられており、それを器用に避けながら、しかし仕事をしているアムゼンになんの遠慮もなく、彼女は手を動かしている。

 その眉は顰められ、目線は決してアムゼンを見ようとしない。かけられた声が聴こえぬかのように手を止めることもない。


 と、アムゼンは背中にどんと衝撃を感じて振り返った。

 椅子の背の裏は窓になっている。天井に届くほどの格子窓には透明度の高い硝子が用いられている。その窓の前に脚立を立て、手を伸ばし、丹念に硝子を磨きこんでいる侍女がいる。その腰のあたりがアムゼンの背にぶつかったのだ。

 振り返ったアムゼンと、高い位置から見下ろす侍女の目が合う。

 ふん、という表情で彼女は視線を逸らし、何食わぬ顔でそのまま作業に戻った。


 見れば足元では別の侍女が床を磨いている。右に一名、左に一名。いずれも頻繁にアムゼンの脚に腕をぶつけている。見回せば壁を磨く者もあり、燭台なり長椅子に延々とはたきをかけ続けている者もいる。

 執事長室を占拠する侍女たちの総数、実に十二名。


 「……あの、皆さん……」


 立ち上がり、声を上げるアムゼン。が、誰ひとり反応しない。微笑を湛えた表情を崩さず、幾度か発声してみるが、いずれも独り言となった。


 「……あの……ごほん!」


 やむを得ず大きめの咳ばらいをすると、ようやく目の前のヘレーネが顔を上げた。焦げた苦瓜を奥歯に挟んでいるような表情だ。


 「あら、いらっしゃったのですか、執事長どの」

 「はい、それはもう、先ほどからずっと」

 「そうでしたか、それは失礼しました。わたくしどもの声が届かないようでしたから、てっきりいらっしゃらないものと」

 「いえいえ、先ほどもしっかりお返事はさせていただいたつもりですが……」

 「お返事。はて、そうでしたかしら。なにやら意味のわからない音が聴こえた気はいたしますが。わたくしどもはただ、お尋ねしただけなのです。奥様、ニアナ様はいまどちらにいらっしゃるのか。旦那様があてにならない今、わたくし共がじかにお迎えに上がるしかない。そう思い定めたのです」


 ヘレーネは卓の向こう側で胸を張った。後ろに侍女団が並ぶ。みな後ろに手をやり胸を張り、その決意のほどを誇らしげに示している。


 「さあ、おっしゃいなさい。奥様はいずこ」

 「……困りましたな……」


 アムゼンの目元は笑ったままだが、丁寧に整えられた眉の尻が下がる。額に汗がにじんでいる。


 「確かにわたしは行き先を伺っております。ご実家も、お暮しになった場所も存じ上げています。ですが、奥様のご安全のために明かせないのです。旦那様はいま、いろいろと難しい仕事に取り組まれています。敵もお持ちだ。ですから外に対しても家中にも、奥様のご出自は内密にして……」


 だん、という音。アムゼンはびくっと肩を震わせた。ヘレーネが片足を床に踏み張ったのだ。大変な無作法。が、それは侍女団ぜんいんの覚悟を示す大太鼓の、あるいは全軍突撃を指示する角笛の音なのである。


 「奥様のご安全はわたくしどもがお守りします!」

 「いえ、そうおっしゃられましても……」

 「さあ、さあ、いかに!」


 アムゼンは口を折り曲げ、なにやら覚悟した様子で沈黙して椅子に座った。

 侍女たちは交渉の第二弾が決裂したことを理解し、再び清掃作業に戻った。床を磨く侍女は誤ってアムゼンの脛を肘で打撃し、はたきをかける侍女は手を滑らせて彼の頭に羽を叩きつけ始めた。

 


 ◇◇◇



 深夜、使用人が出入りするための小さな扉が引きあけられた。

 施錠はされていたが、その人影は合い鍵を持っていたらしい。厨房と食品庫の横合いの通路に出て、人影は足を引きずるような、あるいは劇で使用する人形のような独特の歩き方で廊下をゆく。

 誰ともすれ違わない。すでに全館が消灯されており、侍女も執事も眠りについている。警護の衛士が外にはいたが、彼を止めるようなことはしなかった。


 階段を上がり、いくつかの角を曲がる。豪奢な彫刻の施された大きな扉がいくつもあるが、その前を通り過ぎ、簡素だが頑丈そうな扉の前に立った。懐から鍵束を取り出し、いくつか試す。

 と、その時。


 「いい加減になさい」


 廊下の奥の扉が開いている。夜着に身を包んだ男が燭台を持って立っている。金髪を後ろに撫でつけたその五十がらみの男はじっと彼を見つめて、それから大きくため息をつき、ゆっくりと近づいてきた。


 「そろそろ戻られる頃合いと思っておりました」

 「……ねえ、この扉、どの鍵で開けるんだっけ」


 金髪の男の言うことが聴こえていないかのように、入ってきた若い男は次々と鍵を試している。紺色の髪。長い、というよりだらしなく伸ばしているそれを、がりがりと神経質そうに掻きまわす。


 「薬剤庫に何のご用です。いつもの薬でしたら、あなたの分はきちんと直接、お渡ししているじゃありませんか」

 「……おかしいな。どれもわない。錠前、壊れてるんじゃないの」

 「おやめなさい!」


 若い男の手を掴み、金髪の男は苛立った声を出した。


 「鍵は変えてあります。先日も持ち出されていたことは分かっているのですよ。あんなに強い薬をどうされたんですか。仲間内でお使いか。女にくれてやったか。それとも、まさか……街に流してる、などということはないでしょうな」


 と、若い男は自分の手を掴む相手の手をじっと見つめて、不自然に顔を傾けながら振り向けた。どろりと濁り、充血した眼を相手に向ける。


 「……触るなよ。その汚い手で」


 声も口調も変わっている。鼻にかかった子どものような高い声だったのが、濁ってざらざらと掠れた声になっていた。金髪の男は引き攣ったような、あるいは怯えたような表情を浮かべ、ゆっくりと手を外し、俯いた。


 「……開けてよ」

 「ですが」

 「開けろと言っているんだ。この僕が」


 夜着の裾に鍵を隠していたらしい。金髪の男はそれを取り出し、無言のままでのろのろと錠に差し込んだ。がちゃり、という音。若い男は把手に手をかけて扉を引きあけ、流れ出た薬品の匂いを胸に吸い込みながら口の端を持ち上げた。


 「ねえ」

 「……はい」

 「それからさ、あの件はどうなったの。まだわからないの」

 「……手の者に調べさせました。大体のところはわかっております。ですが、それを知って、いったいどうするおつもりで……」


 じゃっ、という不快な音が響く。薬剤庫の扉に傷ができている。若い男が太ももの鞘から引き抜いた短刀で、力任せに斬りつけたのだ。


 「……うるさいんだよ。あんたは言われた通りに出せばいいんだ。薬も情報も、カネも。あんたにはそれしかないんだから」


 金髪の男は唇を噛み、小さく頭を振って息を吐いた。


 「……ひとりで公爵邸の外に出ることがあるか、おっしゃる通り見張らせていましたが、出る様子がありませんでした。ただ、北部の花街で見かけた、という情報があります。娼館の立ち並んでいる街区の周辺です。理由はわかりませんが、どうもいま公爵邸を出ているようです。育った場所に戻っているのかもしれません」

 「……ふうん」


 若い男はそれだけ言い、侮蔑するような視線をいちど金髪に投げてから薬剤庫に入っていった。奇妙な音を喉の奥から漏らしている。おそらく鼻歌なのであろう。

 その背に、金髪の男は泣き出しそうな、あるいは酸素を求めて喘いでいるような顔を向けている。




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る