アビーのまじめな運転
エンジンの音が、胸の奥にずしりと響いていた。重くて低くて、まるで呼吸の代わりみたいに、一定のリズムで鳴っていた。その音が、わたしの緊張を吸い取るようでもあり、逆に高めてくるようでもあった。いつものことだ。けれど、慣れることはない。
ハンドルを握る両手に、無意識の力がこもる。指先には細かい汗。グローブをしていないぶん、機械の冷たさが掌にじかに伝わってきて、それがまた、気を引き締めさせる。わたしは背筋を伸ばし、姿勢を整えた。視線の先には、ゆるやかに波打つ畑。春の土の匂いが風に乗って鼻をかすめ、まだ芽吹いたばかりの草たちが、太陽に向かってゆっくりと背を伸ばしているのが見えた。
その光景の向こうに、妹たちの姿があった。カーラは何かを拾いあげ、それを空にかざしている。小枝か、折れた部品か。いずれにしても、その表情はどこか楽しげだった。シャナは、わたしたちの方を見ていた。両手で麦わら帽子のつばを押さえ、まぶしそうに目を細めながら、じっと立っている。何を思っているのだろう。わたしの運転を心配しているのか、それとも、これから自分の番が来るのを不安に思っているのか。
トラクターの後部ミラーには、少し離れた位置でこちらを見守るボブおじさんの姿。肩幅の広いジャケットに、よれた帽子。腕を組んだ姿勢のまま、じっとこちらを見ている。その視線の中には、安心も期待もある。わたしたちの暮らしを支えてくれる人。父の代わりに、必要なことを教えてくれる人。わたしたちは、ひとりじゃない。でも、自分が引き受けなければならないものはある。
わたしは深く息を吸って、アクセルを少し踏み込んだ。慎重にクラッチを戻す。動き出すときのあの一瞬の揺れ――ガタン、という感触が腰に響いた。けれど、トラクターは止まらなかった。エンジンが低く唸り、車体は土を踏みしめながら前へと進んでいく。
成功した。今日も、ちゃんと動かせた。
トラクターはゆっくりと、畑の縁に沿って進む。スピードは上げない。できるだけ真っ直ぐに。ほんの少しでもブレたら、それはタイヤの跡となって残る。あとで整地する手間が増えるだけでなく、「まっすぐにできなかった」という事実が、わたしの中に残ってしまう。だから、失敗はしたくない。誰にも気づかれなかったとしても、自分が知っている。
ギアのうなり、振動、ハンドルのわずかな手応え。すべてがわたしに訴えてくるようだった。集中を切らさないように、意識のすべてを指先と足先に向ける。
「いいぞ、そのまま。焦らず行け」
ボブおじさんの声が風にまぎれて聞こえた。振り返らず、小さくうなずく。声だけで、こちらをちゃんと見てくれているとわかる。信頼の気配が伝わってくる。
畑の端に近づいた。目を細め、地面の微妙な起伏を読み取る。左手でハンドルをわずかに切り、ブレーキをそっと踏む。タイヤの角度が変わり、車体が滑らかに回るように動いた。深く息を吐いた。うまくいった。
――このまま、最後までやりきれますように。
わたしの心の中にある願いは、いつもそれだった。ただ一つでも、きちんと、誠実にやり遂げたい。完璧でなくてもいい、でも、丁寧でありたい。
ミラーの中で、カーラが立ち上がっていた。背筋を伸ばし、どこかそわそわと身体を動かしている。きっと、もう乗りたくてうずうずしているのだろう。あの子はそういう性格だった。予測よりも直感を信じる。枠に収まるより、自分で枠を描くことを選ぶ。でも、それが少しこわい。機械は融通がきかない。感情には寄り添わない。
カーラの背後で、シャナが少し離れて立っていた。肩をすくめ、視線は足元に落ちている。風でスカートの裾が揺れるたび、それを押さえている様子が、どこか頼りなくもあった。たぶん、こわいんだと思う。トラクターの大きさも音も、乗ることそのものも。でも、それを口に出すような子じゃない。じっと耐える。だから、気づくことが大事だった。
わたしは、ふたりを見守る目も持たなければならない。
姉だから。いちばん上だから。
トラクターがゆっくりと畑の中央を進む中、わたしの中でいくつもの気持ちが交差していた。うまくやれているだろうか。妹たちに、「これが手本だ」と言えるような運転ができているだろうか。背中で語るって、きっとこういうことなのだろう。
まっすぐに進む。ぶれないように。
そんなわたしの願いが、エンジンの振動に乗って、土の上を進んでいった。
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