第53話
雨が降っていた。
まだ四月の後半なのに、まるで夏の大雨の様に遠慮の知らない振りっぷりだった。
今週は美羽が掃除当番の週だ。という事は即ち、俺が掃除じゃない週というわけで……今日は特にバイトの用事もないので、ぼんやりと美羽が掃除を終えるのを待っている。
窓から見える相模湾はごうごうと恫喝的な波音を立てて、海面を荒らしていた。海水も濁っていて、普段の綺麗な海とは姿かたちが全く異なる生き物の様だった。
榎電沿いに住んでいると、こうした海の違いなんかは毎日当たり前の変化で、大して気に留める事もない。だが、今の俺は何となく気に留めてしまう。
それも当然で、とにかく暇なのだ。
二年に上がってすぐの実力試験は先日終わって、今はゴールデンウイークを待つだけの日々。美羽と勉強した甲斐もあってか、テストの点数はばっちりで問題なし。お咎めなしでゴールデンウイークを迎えられそうだ。
ちなみに雄太は赤点を取ってしまい、ゴールデンウイークなのに補習が課されている。彼が血の涙を流していたのは言うまでもない。
「颯馬さん! お待たせしましたっ」
適当にぶらぶらと時間を潰してから昇降口で待つ事数分、背中から明るい声が掛けられた。
もちろん、我が恋人・美羽だ。
「おう、お疲れ。帰ろっか」
「はい。それにしても、雨凄いですね……」
美羽が昇降口の外に滝の様に降る──と言うには少し大袈裟だが──雨を眺めて、小さく息を吐いた。
「今日は海岸を歩けませんね」
「まあ、たまには電車で早めに帰って寝るのもいいさ」
「そうですね。でも私、ああやって歩いて羽根ヶ崎まで行くの、結構好きなんですよ?」
美羽は少し不満そうに言いながら、靴を履き替えていた。
左手を靴箱に手を掛けて少しだけ腰を曲げ、ローファーの踵部分に指を入れて、靴を履く。その拍子に、スカートがひらりと風でめくれそうになったので、思わず俺が手で押さえた。何となく、誰かに見られるかもと思うと嫌だったのだ。
「ひゃっ」
スカートを押さえた拍子に手がお尻に当たって、美羽が小さな悲鳴を上げた。
「もう……こんな人目につくところで、お尻を触らないでください。変な声が出てしまいました」
美羽が責める様な目つきで俺を睨んでくる。
「い、いや! そういう意図じゃなくて、今スカート捲れそうだったし、お前両手塞がってたしで!」
しどろもどろになって言い訳をしていると、美羽が「知ってます」と目元だけで笑みを浮かべた。
「……知ってるならそういうからかい方はやめるように」
「えへへ、すみません。ちょっとからかってみたかったんです」
「罰として、ちゃんと触るからな。なでなでと」
「もう、そんなこと……いけませんよ」
そんなどうでも良い会話を交わしながら外に出て傘を差すと、美羽がちょんちょんと腕を引っ張った。
「傘、入れてくれないんですか?」
「入れてくれないのって……」
美羽の手を見ると、彼女の手にはしっかりとした傘が手にある。お洒落な花柄の傘で、彼女のお気に入りだ。俺のビニール傘とはきっと値段も三倍くらい違いがありそうな、立派な傘である。
「傘は一つあったら十分かなって……」
少し遠慮がちに言う彼女。
どうやら、相合傘というものをしたいらしい。
俺は小さく息を吐くと、「ほい」と傘を差しだす。すると、彼女は嬉しそうに傘の中に入って、これまた遠慮がちに俺の腕へと自らの腕を絡めくる。そして最後にトドメと言わんばかりに、ぎゅっと自分の方へと抱き寄せるのだった。
制服越しではあるが、彼女の柔らかいものが俺の腕に当たって、不覚にも顔が熱くなった。
そのまま俺達は、ぎこちないながらも二人で校庭の横を歩いて行く。
「濡れてないか?」
「はい、大丈夫です。颯馬さんは?」
「大丈夫、濡れてないよ」
というのは嘘だ。美羽が濡れない様に彼女の方に精一杯傘を傾けているので、俺の左肩は既にびしょびしょである。
きっと駅でこれがバレた時は彼女に叱られるのだろうけど、それはそれで良いか、と思うのだ。俺が叱られるよりも、彼女が濡れない事の方が大事なのである。少なくとも、俺にとっては。
「えへへ。雨の日はこうして堂々と腕を組めるから好きです」
「雨の日じゃなくても組んでないか?」
「えー? ちょっとは遠慮してますよ?」
「そうか?」
そんなどうでもいい会話をしながらグラウンドを横切ると、サッカー部だろうか。一人の男子生徒が、雨の中ずっとコーナーキックの練習をしていた。
練習熱心だな、と思って思わず目を奪われた。
今日は雨が強いせいか、他の運動部もグラウンドを使用していなかった。
雨が激しく打ち付けるグラウンドの中、一人でコーナーキックの練習を続ける彼は、それだけで青春の一幕を映していた。もし俺にカメラの趣味があったならば、この瞬間の切り取りたいと思っていたかもしれない。それだけ彼のボールを蹴る姿は青春が詰まっていながらも、どこか切なげだったのだ。
「あ、山本さんですね。一人で練習をしているのでしょうか? 雨なのに、すごいです」
美羽が俺の視線を追ってコーナーキックの練習をしている彼を見ると、そう言った。
「知ってるのか?」
「はい。小学校の時から同じ学校でした。あまり話した事はないのですが」
「そうなのか。ちょっと彼が羨ましいな」
美羽の言葉に、俺は素直に思った事を言った。
「え、どうしてでしょう?」
「だって、小さい頃の美羽とも話したり、見たりしてたって事だろ? 俺にはできない事だからさ、ちょっと羨ましいなって思う」
「なるほど……男の子はそういう風に考えるんですね」
俺の言葉に、美羽が少し驚いた様に目を大きくしていた。
特に咎めると言った様子でもなく、純粋に初めて知った、という様子で驚いている。
「でも、私は〝今の私〟を見てほしいかなって、思ってしまいます」
「何で?」
俺がそう訊くと、美羽は視線を雨が打ち付ける地面へと移して、ほんのりと頬を染めていた。
「だって……〝今の私〟は〝颯馬さんを好きな私〟で、〝その颯馬さんに可愛いと思ってもらいたくて頑張っている私〟だからです」
雨の音で掻き消されてしまいそうな程、小さな声だった。
だが、聞き逃さずにしっかりと全部聞き取った。これは聞き逃してはいけない言葉だった様に思うので、聞き取れてよかったとすら思えた。
「じゃあ、〝今とこれからの俺〟が一番お得なんだな」
彼女の言葉を聞いて、俺は自らの考えを改めた。
「え? これからもですか?」
美羽が不思議そうな顔をしてこちらを見上げた。
「ああ。だってさ、〝一番可愛い今の美羽〟を今もこれからもずっと見続けていられるんだろ? じゃあ、俺が誰よりも得じゃんか」
「……──ッ!」
そう言うと、美羽は絡めていた腕を自分の方へぎゅっと寄せて顔を伏せた。思わず体勢が崩れて、よろけてしまう。
「バカ、危ないだろ」
彼女は俺の言葉など聞いていないかの様に、顔を伏せたままだ。
「美羽? どうした?」
「……颯馬さん」
美羽が顔を伏せたまま、ぽつりと俺の名前を呼んで、続けた。
「これからもずっと……一番可愛いと思ってもらえるように、頑張りますね」
またさっきと同じくらい小さな声で、彼女は言った。
恥ずかしくて顔を赤らめているのを隠しているらしい。少しだけ顔を覗き込んでみると、頬がまっかになっていた。
──そういうとこも含めて、もう十分過ぎるくらい可愛いんだけどなぁ……。
心の中でそう思ったのだけれど、敢えて言葉にはしなかった。
きっと今の彼女の言葉は、返事を求めて言ったわけではないと思ったからだ。
先程の彼女の言葉から察するに、今の彼女が最も綺麗で可愛い彼女という事になる。そんな彼女をずっと見続けられる俺は、きっと幸せ者なのだ。
それから俺達は言葉を話さないまま、でも体はぴったりとくっつけたまま、駅までの雨道をゆっくりと歩いた。
雨の音の余韻や春の雨の独特の匂いですらもどこか愛しくなって、それがかけがえのないひと時である様に思えた。こんな何気ない時間を、〝これからの俺〟は宝物の様に見返すのだろうか。
何となく、そんな事を考えてしまうのだった。
ちなみに──余談ではあるが、駅に着いた時には、案の定俺の左肩がびしょびしょになっていた事について、美羽から叱られたのだった。
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