第36話
「よっ、お疲れ!」
彼女が靴箱に手を掛けたところで、後ろから声を掛けた。ちょっと驚かせてやろうと思ったのだ。
美羽はびくっとして振り向くと、顔を綻ばせた。
「もうっ、いきなり声掛けないでくださいよ」
びっくりしたじゃないですか、と美羽。作戦は無事成功した様で、ちょっと嬉しくなる。
すると、美羽は何かを想い出した様に「あっ」と呟いて、笑みを浮かべた。
「どうした?」
「いえ。今の、あの時と逆だなって思って」
俺は少しだけ考えて、「確かに」と頷いた。
「言われてみればそうだな」
「懐かしいですね」
言葉にせずとも、何を意味しているかを認識し合えた事が嬉しかったのか、美羽が嬉しそうに笑っていた。
靴箱で後ろから声を掛けられ、びくっとして振り返る──そう、それは今年のバレンタインのシチュエーションと真逆だったのだ。
「美羽、今日も羽瀬ヶ崎まで歩かないか?」
お前さえよければ、と慌てて付け足した。
「え? 私は構いませんが……
「大丈夫。今日バイトないから」
「いえ、そうではなくて。怪我してるじゃないですか。早く帰って休んだ方がいいと思うのですが」
「だから、軽傷だっつの」
俺はガーゼが巻かれている方の腕をぽんぽんと叩く。
本当はこうして叩くと痛いけれど、歩く分には何も問題ない。
「それでは、お言葉に甘えますね」
美羽は靴を履き替えてからそう言うと、俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
一応、怪我をしていない方の腕を選んでくれたらしい。
そのまま一昨日と同じく、海岸沿いの遊歩道を歩いた。
風神雷神モードの美羽ちゃんは完全に消えた様で、いつも通りの彼女だった。今は掃除をサボった男子がいた事で少し怒っている様だが、体育の時の活火山に比べれば、
──というより、多分美羽と顔を合わせ難かったんだと思うけどな。
美羽と同じ場所の掃除当番だった男子も、今日の〝祭り〟に参加していたうちの一人だ。彼女と顔を合わせれば、怒られると思ったのかもしれない。
だが、現実的に言うと、それは自意識過剰というものだ。
その男子には悪いが、美羽は特定個人に対して怒っているのではないし、おそらく彼をそのうちの一人であるという認識すらしていないだろう。
世の中、自分が思っている程他人は自分の事など考えていない。それこそ、恋人や好きな人、仲間や仲が良い友達などの、特別な存在でもなければ、思考は割かれないのだ。
往々にして、高校生男子は──特に恋愛に於いて──それを勘違いしがちである。自分の好きな女子が自分の事を四六時中考えていると思いがちだが、その女の子は大抵好きな男の子の事を考えている。虚しい現実だった。
──あ、でも……特別な存在って、そういう事でもあるのかな。
皆にとっての特別な存在でなくても、誰か一人の特別な存在にならなれる。
八高生徒にとって特別な存在である
しかし、美羽にとっての結城颯馬は、それこそ滅多にない怒りを表に出してしまう程、特別な存在なのではないだろうか。
──うん、そっちの方が嬉しいな。
なんだか急に嬉しくなって、俺は美羽の肩を抱き寄せて、こめかみあたりにキスをした。
彼女はと唐突な俺の行動に驚いていた様だが、恥ずかしそうな、でもとても嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「今日は帰ったらお菓子でも作ってみます」
美羽は恥ずかしさを誤魔化す為なのか、大きく伸びをしてそう言った。
「お菓子? どうしてまた」
「だって、颯馬さん昨日からずっと疲れてるじゃないですか。だから、糖分を取った方がいいかと思いまして」
「別に疲れてないよ」
本当の事を言うと結構疲れているが、これ以上気を遣わせたくないので、ちょっと強がった。
「えー、疲れてますよ。朝もですけど、授業中の時とかも凄く眠そうでしたから」
「お前、授業中に斜め後ろの俺を盗み見てたのか」
「うっ」
俺の思わぬ反撃に、美羽が息を詰まらせた。
「……颯馬さんが気付いてなかっただけで、去年からずっと見てました。なんて」
「え?」
「な、何でもありません!」
とても小さな声で何かを言われた気がしたので聞き返すと、焦った様子で首を横に振っていた。
「そ、それで、お菓子の事なんですけどッ」
無理矢理話題を戻されてしまった。
「何か食べたいものとかありますか?」
「え? 美羽の作るものだったら何でも食べたいけど……」
「それだと、何を作ればいいかわかんないです」
少し眉を寄せて、不服そうな顔をする。
「んー……でも、何でもいいんだけどな。ほんとに。あ、じゃああれ久々に食べたいかも」
「あれ?」
美羽が首を傾げて、人差し指を顎に当てた。
「バレンタインに作ってもらったやつ……えっと、ブラウニーって言ったっけ」
「同じものでいいんですか? クッキーとかパウンドケーキとか、他にも色々候補あったんですけど……」
「え、それも食べたい」
「もうっ。だからそれだと話進まないって言ってるじゃないですか」
言ってから、お互い笑い合った。
「じゃあ、今回はクッキーにしようかな。ブラウニーも捨てがたいんだけど」
食べた事ないし、と付け足した。
確かに、他のお菓子がどんな味なのかも気になる。
「そんなにブラウニーが好きなんですか?」
「ブラウニーが好きっていうか……まあ、想い出の味っていうか」
「あっ……」
想い出の味で思い当たったらしく、美羽は恥ずかしそうに視線を地面に移した。
でも、ほんのり口元に笑みを浮かべている。
「それなら……ブラウニーも一緒に作ります」
「いいのかよ。二つとか手間だろ」
「いえ、そうじゃないんです」
「ん?」
美羽の方を向くと、彼女もこちらを見上げて、ゆっくりと頷いた。
「……私が作りたいだけですから」
そして、はにかんだ笑みを見せる。
それがあまりに可愛くて、今日怒ってくれた事とか、諸々思い返すと自分の中で気持ちが抑えられなくなった。
このどうしようもない衝動を発散すべく、俺は砂浜に駆け出して──
「好きだああああああああああ! 美羽好きだああああああああああ!」
相模湾に向かって、おもいっきり叫んだ。
もちろんこの後、「恥ずかしいからやめてください!」と叱られたのは、言うまでもない。
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