第68話 つま?

「話してくれ、ミシェル。誰かに何か言われたのか。なぜそんなに辛そうな顔をする」


 旦那様は切実な瞳で私を見つめながら、そんなことを言う。どうしてこの方は、いつもこんなにも優しいのだろう。

 胸がギュッと締め付けられ、その瞬間、私は気付いた。

 ここを出ていきたくない。ここから離れたくない。

 私が強くそう思う一番の理由は……この方のそばにいたいからなのだと。

 行き場のなかった私を救ってくださり、ご自分が怪我を負った原因であるこの私を邪険にすることもなく、お屋敷においてくださった。私の持ち物がボロボロだからと、ワンピースや靴まで贈ってくれ、何不自由ない生活を与えてくださった。

 私を信じ、守ってくれた────


(私……私は、旦那様のことが、好き……)


 そう自覚した途端、胸に強い痛みを覚える。

 決して好きになってはいけない人。女性が嫌いで、特に貴族の女性を毛嫌いしている旦那様。そんな方に、こんな想いを抱いては絶対にいけなかったはずなのに……。


「ミシェル、どうした。隠さずに言ってくれ。言ったはずだ、私は君を守ると。もう誰にも、君を傷つけさせはしないと。君が何か心に苦しみを抱えているのなら、それらは私が全て引き受ける」

「……だんなさま……っ」


 どこまでも真摯な愛情を注いでくださる旦那様に、自分のこの邪な想いを伝えるわけにはいかない。

 気付いてしまったこの想いは、一生隠し通したままでもいい。だから、どうか……


「旦那様……、私は、ど、どこにも行きたくありません……っ! 貴族として生きなくて構わないんです。私は、今のままで、充分です。どうかお願いします、旦那様。これまで通り、私をここにいさせてはもらえませんか……?」

「……。……え?」


 怪訝な顔をする旦那様の反応が辛い。けれど、自分の望みを伝えなくてはきっと後悔する。そう思った私は、溢れる涙を必死で堪えながら旦那様を見つめて言った。


「私はここを出て、他のところで暮らしたくなんかありません……! ずっと旦那様の……、いえ、み、皆さんと一緒に、このハリントン公爵家の使用人として、働いていたいんです。旦那様の、私のために後見人になろうとしてくださっている、そのお気持ちはとても嬉しいし、ありがたいです。けれど……私は、ここを離れたくありません!」

「…………ミシェル?」

「一生懸命働きます。これまでのご恩をお返しできるように、今まで以上に頑張りますから……」

「ちょっと待ってくれ、ミシェル。君は一体……何の話をしているんだ?」

「……。え?」


 旦那様のその言葉に、今度は私が怪訝な顔になる。

 探るような目で、互いを見つめ合う私たち。

 やがて旦那様が、ゆっくりと口を開いた。


「なぜ、君がここを出て行くなんて話になるんだ? 君は私の妻になるんだ。出て行かせるはずがないだろう?」

「……」


 ……つま?


(つま、って……。え? 妻? ……まさか)


 頭が真っ白になり、何も言葉が出ない。

 ただひたすら旦那様を見つめる私の前で、旦那様は握った手を片方そっと離し、私の頬を優しく撫でた。


「君はここを離れることなどない。これからはメイドでもない。私の妻として、ハリントン公爵夫人として、ずっと私のそばにいてくれるのだろう? 先日私が求婚した時、君はたしかにそう頷いてくれた」

「……。……そ、そんなこと、いつ……?」

「え……? いや、だから先日、茶会の後だ。私が、これからは私が君を大切にしたいと。守っていきたいと。そう想いを伝えたら、君はよろしくお願いしますと頷いてくれたじゃないか。あれは……私の求婚を受け入れてくれたからではないのか?」

「き……求婚!? ……え!? あ、あのお言葉は……プロポーズだったんですかっ!?」


 心臓が飛び跳ねると同時に、私自身も思わずソファーから飛び上がるように立っていた。

 旦那様はそんな私をしばし呆然と見上げ、その後片手で顔を覆ってガックリと項垂れた。


「……気付いていなかったのか……」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る